「四季」 折々に思いつくまま!

いつも元気で、笑顔で、楽しい 「好々爺」です <ASC23期生>

もう、1月も終わりです!

 


今年の干支は「亥」ですね! 誰がきめたの?

「干支」は、紀元前」1600年ごろから中国で生まれたと言われています。日本には

553年に伝来したと言われています。

十二支は、『子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥』と12種類の動物からなっていますが、その順番とその由来は?

日本に古くから伝わる民話として語り継がれている話によると、むかしむかし大昔!  神様が、歳の暮れに動物たちに「元旦の朝、新年の挨拶にきたものから十二番目まで、順にそれぞれ一年間動物の大将にしてやる」とお触れを出しました。 動物たちは自分こそ一番になろうと元旦になるのを待っていましたところ、

ネコはいつ神様の所に行けばいいのか忘れてしまいネズミに尋ねたところ、ネズミはわざと一日遅れの1月2日と嘘ついて教えたそうです。

ウシは「自分は歩くのが遅いから早めに出発しよう」と暗いうちに出発しました。それをウシ小屋の天井で見ていたネズミはウシの背中に飛び乗り、ウシが神様の御殿に到着するすんぜんにネズミはピョンと降りチャッカリ一番になりました。ウシは「モウモウ」と悔しがったそうです。

その後、トラ・ウサギ・龍・ヘビ・ウマ・ヒツジ・サル・トリ・イヌ・イノシシの順で神様の神殿に到着しました。

途中、サルとイヌが大喧嘩をはじめ、トリはそんな二匹の上を飛んで追い抜いたそうですが、ギリギリのところでサルが先に到着し、サル、トリ、イヌとなりました。イヌはサルを憎み今でも「犬猿の仲」と言われているそうです。

 13番になったカエルは、「もうカエル」とがっかりして帰ったそうです。そして1月2日の朝に到着した、ネコはネズミに騙されたと知ったネコは怒り、いまでもネズミを追い掛けるよになったとか?  ネズミに騙されなかったらネコが十二支に入ってたかも?

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中国には昔、猫がいなかったからという説も有ります。猫はもともとエジプトの動物で、古代エジプトではスフィンクス(神様)として崇拝された動物でした。しかし古代エジプトは強大な帝国であり、象徴でもある猫は他国からは嫌われ紀元前30年頃まで他国で飼育されることがなかったそうです。干支が作られた頃の中国では、猫は馴染みがうすい動物だったようですネ!

しかし、ベトナムではネズミから米を守ってくれるネコが、ウサギの代わりにネコが入っています。

その他にも、ブルガリアではトラでなくネコが仲間入りしています。

このように干支も、その国々の歴史文化よって動物達が違います。他にも干支にまっわる話も沢山あるようです。

キリンや象も入ってると、もっと違った話になり楽しかったよネ (^^♪

 

2月3日は恵方巻きを「東北東」を向いて、ガブリと食べて下さい (^O^)/   きっと福がきます!

恵方巻きとは、「福を巻き込む」を意味する「巻きずし」で縁を切らないよう包丁をいれずに1本のまま食べる。七福神にあやかって7種類の具が入った太巻きが望ましいらしい! 願いごとをしながら黙々と食べること  (^O^)/

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 恵方巻きの起源は、江戸時代末期の大阪の船場で商売繁盛の祈願をする風習として始まったとも言われていますが、正確な起源は未詳!

恵方とは、陰陽道おんみょうどう)でその年の干支によつて定められふた、最も良いとされる方向のことで、その方向に福をつかそどる神様「歳徳神:さいとくしん」がいると言われています。 歳徳神のいらっしゃる方向に向かって事を行えば万事に吉だそうです。       

陰陽道は、中国古代の宇宙観を起源とし、日本独自に発展した占いの体系のひとっで、立春(2/4)から運勢の始まりとしている場合が多いようです。

皆さん、宝くじを買うときは自宅からみて「東北東」にある売り場で買うと、大当たり間違いないとか (?_?) 旅行も「東北東」にある観光地に行けば、楽しい旅になりますョ!!

尾張四観音《笠寺観音甚目寺観音・荒子観音龍泉寺観音》とは、およそ400年前に徳川家康公が尾張の国の中心として名古屋城を築き、名古屋城から見て鬼門の方角にあたる寺院を鎮護と定めました。この四っの観音寺は千年以上の歴史があり、ご本尊は観音様で尾張を守護とし信仰を集め、その年の惠方にもっとも近い寺を「尾張恵方観音様」として福を求める参拝者でにぎわいます (^^♪  今年は「東北東」の龍泉寺観音です (^O^)/  1/27

 

あけまして おめでとう御座います

      謹んで 初春の お慶びを申し上げます  

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                     《  Itimia City 138 Tower 》

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正月とは? 1月の別称です。また1月は「睦月」と呼び、正月一家揃って睦みあう様子を表すとも言われています。

また昔から、元旦には新年の神様「年神様」が1年の幸福をもたらすため、各家庭に降臨するといわれ「子孫繁栄」「五穀豊穣」、人々に「健康や幸福」を授けるとされています。「正月様」「歳徳神」とも言います。

正月を迎える行事、しきたりなど地方により異なりますが、常緑樹に宿る神を迎える「門松」、不浄の区域と神聖な場所を区別するための「注蓮飾り:しめかざり」そして歳神様へお供えとして床の間に飾る「鏡餅」、一年の無事を神仏にお参りする「初詣」と次第にその意味もうすれがちですが、新しい年を迎えるのを機に日本の風習を見直してみるのも楽しいと思いますね!

例えば、日本の伝統食として受け継がれる「お節料理」、重箱に美しく詰められた「黒豆」は、健康でまめに暮らせるように、子孫繁栄を願う「カズノコ」・喜こぶの語呂合せで「昆布巻き」、金運上昇を願う「きんとん」・田を耕し豊作を願う「たつくり」・「エビ料理」は腰が曲がるくらい長寿で長生き出来ますようにと料理一つ一つに健康と繁栄への思いが込められています。 そこに込められた日本文化を理解するとまた違った思いで一年を迎えられるかもしれませんね (^^♪ 

皆様、今年も健康で幸多き一年となりますよう、心から

お祈り致します。 ヽ(^o^)丿 

本年も宜しくお願い申しあげます 

                                                                                                  2019.元旦  Marui 

 

 


       

 

「年越し蕎麦」 & 「年明けうどん」

「年越し蕎麦」が日本の文化として行われるようになったのは、遅くとも1814年にはすでに大阪では定着していたと言われています。起源は、江戸時代中期には商家に月の末日に蕎麦を食べる三十日蕎麦(みそかそば)とゆう習慣があったそうで、これが転じて大晦日だけになったと考えられるそうです。ほかにも!

世の中にめでたきものは蕎麦の種

     花咲きみのりみかどおさまる

「みかど」はそばの実の三角と帝との掛けことばである

そばのめでたさをたたえるこの歌は、室町時代の関東の三長者の一人増淵民部の作と言い伝えられていて、大晦日にはそばがきが振る舞われ、家中はもちろん出入りの者みな「福そば」をたべた。この家の繁盛を見た人々は次々とみならったとゆうのが、「年越しそば」の由来伝説の一つだそうだ。

一般には江戸時代の大晦日の商家で夜明けまで働く使用人に振る舞われた出前そばが起源とされているとも言われている。

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めでたい由来や歌には「細く長く」という縁起をかついだものが多くあります。逆に蕎麦は切れやすい事から、一年間の苦労や、借金が切れるように、また蕎麦には五臓の毒を取ると信じられていたので、、そんな年越しそばを食べてもらおうとそば屋さんが仕掛けたとか?

こんな話も、鎌倉時代の僧が、困窮した民にあたえたそば餅が「世直しの気運そば」とたたえられたとの由来もあります。

一方、「年明けうどん」の由来ははっきりしています。「うどん県」として有名な香川県は、古くから祭りなど年中行事などの「ハレの日」にうどんを食べる習慣があり、お正月にも全国で食べてもらおうと思い、香川県讃岐うどん振興協議会が2009年に登録申請し認められた商標です。協議会は製麺業界や流通業界、食品メーカーの協力を求めて、元旦から15日までうどん食を定着させようとキャンペーンをし、少しずつ全国に広がったようです。

昔からうどんは、太くて長いので健康長寿を願い、白いことで縁起がいいと言われています。 

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年明けうどんの定義は、純白のうどん1点に新春を祝う「紅」を用いるとされています。「紅」とは、梅干しや金時人参の天ぷら・海老の天ぷら・赤いかまぼこなど赤く見える具材のことです。そうすることで「紅白」となり、とてもおめでたい食べ物になるからです。

うどんは手軽にでき、胃腸にも優しい食べ物で年末年始の暴飲暴食で胃腸が疲れている時などには「年あけうどん」が最適ですネ!

 

よく似たお話が! そうです「バレンタインデーのチョコ」「節分の恵方巻き」古きは平賀源内の「土用のうなぎ」も、 食べ物ではありませんが「6月のジュンブライトに結婚式」も商業ペースで仕掛けられた? 庶民はいつも「あちむいてホイ」?? (>_<) そうだねー!

 今年もあと10日ばかり、皆さん師走をむかえ、大掃除に忙しい日々と思いますが、「年越しそば」「年あけうどん」も忘れずに準備して下さいネ!          

                                 12/21 Marui

 

 

 

「民のための政治改革 米沢藩 上杉鷹山公」

今日から師走! 暑かった夏、日本列島を襲った幾つもの台風による大被害、北海道の胆振(いぶり)震度7地震・大停電、竜巻と地球が壊れたかとも思うような異常気象、 政治もアメリカ・トランプ大統領のつぶやき(ツイター)一言で世界の経済も混迷? 日本の政治もどこに向かって行くのか? 平成はあと6カ月で新しい年号に、その10月には消費税 UPとは! (>_<)

 『なさば成る なさねばならぬ 何事も 

        ならぬは人の なさぬなりけり』

J・F ケネディビル・クリントンアメリカ大統領に『もっとも尊敬する日本人政治家』と言われた、江戸時代の米沢藩上杉鷹山公の名言です。

上杉鷹山は、借金にまみれた米沢藩の9代藩主になったのはわずか17歳の時で、一生かけて取り組んだ身を切る緊縮策改革、50年以上かけて16万両のの借金を完済した。しかし家来の反乱などを乗り越え改革が成し遂げられたのは、七十二歳で世を去った後のことだったという。《常に民のための政治、一生かけて取り組んだ身を切る改革へ意志に感服!》

《時代背景》

越後は上杉謙信を祖とする代々上杉家が治めていた。謙信没後、上杉景勝の治世となり120万石を誇っていたが天下分け目・関ヶ原の合戦では徳川家康に降伏すると、出羽国 米沢藩に15万石に減移封される。お家取り潰しは免れたもののあまりにも凋落ぶりであった。上杉家の財政事情は最悪で、借財は16万両(今に換算 160億)に累積する一方、困りはてた8代藩主上杉重定は幕府に領地の返上することを検討する始末、そんななか、第9代藩主に上杉治憲(鷹山)が家督を継ぐことになるが、、、

しかし、上杉家は名門の誇りを捨て切れず、初代藩主 景勝 120万石時代の家臣5000人を召しかかえ人件費だけでも膨大で、贅沢な暮しも改めることなく深刻な状態であった。わずか17歳の9代藩主となった鷹山に破綻寸前の藩の運命を託される。

f:id:marui-hall:20181125162339j:plain 画像はネットより

鷹山は自ら改革に挑む、先代の家老らと厳しい対立の中、江戸仕切料(江戸での生活費)1500両を209両に減額、七分の一に倹約して衣服や食事、本などをまかなう。

そして鷹山自信も米沢での日常生活費は、衣食は下級武士以下の質素さを貫き、日常の食事は一汁一菜、衣服は絹でなく綿で作られたものだけで、奥女中を50人から9人に減らし倹約をした。大名行列の人数も減らす。

民にも「大倹約令」をだす。雪深い米沢藩には特産物もなかったが、米沢織や笹野一刀彫・米沢成島焼などの開発を奨励、また農業生産にも力を注ぎ藩士に対しても「武士も耕せ」と田畑の開発を促す。

江戸時代にあって兵農分離の時代であるが、武士も農業に就かせるという前代未聞の農業改革、下級武士たちも新田開墾に1万3千人の従事動員する。

 こんな逸話が!

ある日、干した稲束の取入れ作業中に夕立雨が降り困っていた老婆を二人の武士が助けてくれた。お礼に後日餅を持参いたいと言ったところ、招かれたのは米沢城であり、渡す相手こそ鷹山であった。《殿様が稲の取入れを手伝うなど普通では考えられないが、これが鷹山という男で、いかに領民に寄り添った姿勢であったが分かりますね!》

上杉家に仕える家臣には財政破綻に近い状況にもかかわらず、鷹山が若く3万石の小藩から来た養子であるこを侮って、倹約どころうか不要なプライドが強く格式ばかりを重るばかりで反鷹山との戦いに苦慮する。まさに「上杉」のプライドを捨て、さらなる改革を進める矢先、

「武士に農業をさせるとはと、鹿と馬とするような鹿馬げた行いだ、、、」と上杉家に仕えてきた名家の7人が訴状にて、改革が性急すぎると中止を迫る「七家騒動」がおきる。

しかし、鷹山が下した処分は、5人を隠居・閉門、2人は切腹、そして裏で策略した儒学者 藁科立沢(わらしな りゅうたく)は斬首とゆう厳しい処分をくだす。23歳の鷹山は断固たる意志で抵抗勢力を一掃する。

さらなる改革のさなか、天明3年には浅間山が噴火し「天明の大飢饉」、 大事業に挑むが失敗が重なり多額の借金がかさみ、16年間の改革の成果はほぼ水泡に帰し責任を負うて藩主を引退し隠居する。 とき35歳であった。

先代の重定の実子治広に譲るが、鷹山の隠居後から5年、藩の借金は鷹山就任時の倍の30万両に膨れ上がる。

鷹山、復帰を願う声にこたえ政治の舞台に戻ることを決意!すべての家臣を城に集め、藩の借金を公開し危機意識を共有し、「上書箱」を設け藩士だけでなく農民や町人すべてての者から意見を受け付けると宣言する。米沢藩の支出を明確にするために帳簿の作成など実行する。

強政策による改革の失敗を踏まえ、無数の意見を元に決めたのが、寒い米沢風土にあった養蚕業・絹糸・絹織物まで一貫して仕上げることであった。織手は武家の女性で、出来あがった織物は藩が買い上げる奨励策を取った。やがて米沢中に機織りの音が溢れ、米沢全体が織物工場となった。

文政6年・鷹山藩主就任から56年、最大30万両もあった借金は完済。全ての領民が力を合わせ藩を救った結果であった。しかし、鷹山逝去の翌年72歳の事であった。

鷹山は生涯をかけ、米沢を豊かな国へと変革した。現在でも米沢市民に尊敬されており、鷹山だけは「公」と敬称を付けて呼ぶことが多いそうです。いかに領民に寄り添った鷹山公であったがわかる話です。

 今の時代にカリスマ リーダー鷹山公がいたらなぁーーと思う (@_@;)  

日本は借金大国! 借金は  1,085兆7537億円 1当たり約867万円 破綻 !   (>_<) 

政治家の汚職、身を削る改革と言いながら私服を肥やすばかり! いったい痛みを伴う改革は! 今でしょ! 

政治家ばかりでない、積水ハウスから、地面師に55億を騙し取られたり・ 日産自動車 代表取締役会長 カロス・ゴーン 有価証券報告書に50億円少なく記載とは、 (>_<)

 今年、最後のボヤキ!*? (__)

最後にあまり語られてない鷹山の正室は、先代の重定の次女 幸姫(よしひめ)で脳障害があり、精神年齢は10歳にも満たなかったと言われています。

しかし、鷹山は幸姫を慈しみ、人形遊びの相手をする鷹山は無邪気な笑顔だったと伝えられています。つまり鷹山の一番深いところを幸姫が支えていたのではとも言われています。そして幸姫の他界後、お豊の方を迎え二人の子供を授かる。

「国家は祖先より子孫に伝え候 国家にして 我私すべき物にはこれなく候」《国家は祖先から子孫に伝えるところの国家であて、 私欲で身勝手にしてはならないものである》 鷹山 

                                  記 12/1

 

「奥の細道」 むすびの地は??

奥の細道」はどうして大垣で終えたの??

松尾芭蕉は江戸時代に約5ケ月かけて東北・北陸地方を巡る《奥の細道》旅をしました。その道のりはおよそ2,400Kmにも及び8月21日頃に旅を終えた地が大垣でした。

その理由は、俳友・谷木因(たにぼくいん)を訪ねる為だったようです。

当時、大垣藩主戸田公の文教奨励もあって、大垣の俳諧は木因や藩主らを中心に盛んにお行われていて、芭蕉が訪れさらに新風を吹き込み「蕉風」俳諧が美濃一円に広がったそうです (^O^)/

そして、芭蕉は2週間ほど大垣に滞在し、人々と別れ二見ケ浦へ、伊勢の遷宮を拝まんと水門川を舟で下り桑名に旅立ちました。 結びの句に、

「蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋」と詠んでます

別れがたい蛤の蓋と身が別れるように、名残り惜しみながら、蓋身と目指す二見を掛けた句をのこして大垣を後に出発します。

奥の細道の原文》

月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり、船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。 予もいづれの年よりか、、、、

《 解釈 》

月日は旅人である。人生もまた旅人である。古の人たちもたくさん旅に死んできた。私も物につかれたように、旅に出たくてどうしょうもなくなってきた。旅支度をしていると、松島の月が真っ先に脳裏に浮かんでくる。住んでいた家は他人に譲り、「草の戸も 住みかはる代 ぞひなの家」 と面八句(おもてはっく)を柱に掛けおき、旅立ちます。

 

《 旅  程  》

徳川幕府が繁栄を極めた元禄時代に、 芭蕉が崇拝する西行の500回忌に当たる1689年(元禄2年)に、芭蕉(1644-1694)・ 弟子の曽良(1649-1710)とともに、江戸深川のほとりにあった芭蕉庵を引き払い旅立ちます。

東北地方は、西行などが旅をした伝説や歌枕、風光明媚な地が沢山あり、万が一にも旅の途中で死んでも悔いはない。むしろ誇りりになろうと、、

「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」  と詠む!

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とき 3月27日  46歳 ! 深川から舟で隅田川を遡り、千住で舟を降りていよいよみちのくへ、 

「行く春や 鳥啼き 魚の目は涙」 と旅立つ、

そして4月1日 日光にて、 「あらふたと 青葉若葉の 日光」

5月   9日    松島にて、 「松嶋や 鶴に身をかれ ほとゝぎす」 曽良

5月13日 初夏の平泉をおとずれ、「夏草や  兵(つわもの)どもが  夢のあと」

5月27日 山形領  立石寺(山寺)にて、  

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「閑さや  岩にしみ入る  蟬の声」       《 2007年8月 山寺にて 》

5月29日 新庄にて、 「五月雨を   あつめて早し  最上川

6月14日 酒田にて、 「暑き日を 海にいれたり 最上川

7月  4日 越後 出雲崎にて、 「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」

7月13日 不知火の難所を越え市振の宿に泊まり、「わせの香や 分入右は 有磯海 」

7月15日 金沢に、24日まで城下の名士が幾度も句会を設ける。江戸を発ってほぼ4カ月、曽良は体調勝れず、急遽 立花北枝が共となる。「塚も動け 我泣聲は 秋の風」

山中温泉に、7月27日~8月5日 大垣を目前に安堵し八泊 和泉屋に宿す。

「山中や 菊はたおらぬ 湯の匂」 

曽良は腹を病み、伊勢の国長島に先立ちて行く 「行行て たふれ伏とも 萩の原」と書き置きたり、また「今日よりや 書付消さん 笠の露」とも、

8月5日 小松 那谷寺みて、 「石山の 石より白し 秋の風」

8月9日 越前 吉崎 「終宵 嵐に波を 運ばせて 月を垂れたる 汐越の松」西 行 <この一首にて、数景尽きたり>芭蕉記す。

8月14日 丸岡 天竜寺 金沢から共とした立花北枝とここで別れる。

「物書きて 扇引さく 余波哉」

8月15日 敦賀 北国の日和はあいにくで、雨が降り十五夜の名月は見れず。

「名月や 北国日和 定めなき」

8月16日 西行の歌にもある「ますおの小貝」を拾うおうと、船で色ケ浜へ向かう。

「波の間や 小貝にまじる 萩の塵」

8月21日頃 大垣に到着、門人たちが集い労わる。

9月  6日 旅は150日あまりに及び多くの名句を詠み、生涯で最大の旅を終え大垣を後にする。

芭蕉は、生涯「更科紀行」「野ざらし紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」「幼住庵記」など多くの紀行拝文を残しています。東北路への旅を初め諸国を旅し、九州を目指す旅行中、元禄7年(1694)10月121日  旅先の大阪にて51才で歿する。

春に百花あり 秋に月あり 夏に涼風あり 冬に雪あり

すなわちこれ人間の好事節 と格言を残しています。

あの有名な句、「 古池や 蛙飛び込む 水の音 」 は奥の細道で詠まれたと思いきや、そうでなかったです  ! 

この句は、貞享3年 43才 作で、この時代は「人類憐れみの令」5代 将軍 綱吉の時代で蛙を持ち上げ、幕府におもねっての句とか?

また奥の細道に同行した河合曽良は「幕府調査官」だから関所もなんなく通り抜けて旅が出来たとか? そんなことから芭蕉は幕府の隠密とか?

芭蕉の第一の俳士高弟「向井居来」は「洛陽に去来ありて 鎮西に俳諧奉行なり」と称えられた人で、「やま吹や 蛙飛び込む 水の音」との句があり、パクリでないかとか? 

向井去来は、京都の嵯峨野に草庵「落柿舎:らくししゃ」を営なみ、芭蕉も3度訪れて滞在し、48才「嵯峨日記」を著した場所です。 

数年前に訪れた時、小さな石に去来と彫られたお墓が印象的で思い出される。

「凡そ天下に 去来程の小さき墓に 参りけり」 虚子

このように松尾芭蕉について、いろんな俗説?がいっぱい有り「芭蕉隠密説」の書物にも詳しく出ています。小説には「奥の細道殺人事件」斉藤栄 著にも面白く書かれています。

松尾芭蕉」の素晴らしい旅に 感動するも、どうして尾張國 一之宮を舟で通り過ぎて二見に向かうとは!! 一之宮に足あとなし! うむむ、、、残念至極なり   (>_<) 

                               記  10/31 Marui

 

10月 & 「KAKI」

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      俳人 正岡子規の句です

正岡子規は無類の柿好きだったそうで、親友の夏目漱石は小説『三四郎』の中で、子規が「ある時大きな樽柿を十六食つた事があると」書いています (@_@;)

生涯20万以上におよぶ俳句を詠んだ中で、代表作が大好きな「柿」の句で本望といえますネ !

柿  学名が『KAKI』・多くの果樹は「外国 ⇒ 日本」ですが、日本で発達してきた  柿「KAKI」は、16世紀頃に南蛮貿易においてポルトガル人によってヨーロッパに渡り、「KAKI」が世界の果物として広がった。(^O^)/

ちなみに甘柿は突然変異による日本固有の品種です。柿は樹齢400年以上の老木でも実を生らせることができると言われます。

 世界に分布するカキノキ属の植物は約500種に及ぶそうです。柿の主な生産国は、日本・中国・韓国 で、ブラジル・イタリア・フランスでも栽培されています。

またカキノキ属に属する植物には、アメリカ東部原産の小さなアメリカ柿でパーシモンと呼ばれています。また黒檀もそうです。

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  <我が家には柿の木がなく、お隣の柿を盗撮 > (>_<)  これ渋柿!

原産には、諸説あり中国原産で弥生時代以降に大陸からもたらされた説や、大きな品種は少なくとも奈良時代頃に、中国から渡来してきたという説が有力とされています。

古事記」や「日本書記」などには、地名、人名として「柿」は多数記述があります。日本最古の薬物辞典である平安時代本草和名」には果樹として『加岐』と書かれています。 さらに、平安時代の古代法典「延喜式』には、祭礼の菓子類として「熟柿子」及び「干柿子」と記されいることからとして、宮中でも柿が栽培されていたことがわかります。

阪堺市:弥生時代前期の池上・四ツ池遺跡から柿の種の破片が発掘されています。また奈良の藤原宮跡からカキの種子52個が発掘されています。そして「日本歴史大辞典」には室町時代の柿の産地として、美濃・近江・大和の名が記されています。

日本の柿は、現在では、「富有柿」「次郎柿」といった甘柿と「平核無柿」「刀根早生柿」といった渋柿の4種類が主流で、全国には1000以上の品種があるそうです。ちなみに、現在カキの収穫量 1位は和歌山県・2位は奈良県・3位は福岡県・4位は岐阜県で愛知県は7位です。

 「柿が赤くなれば、医者が青くなる」といわれるほど栄養価が高く健康食品と言われています。

塩分を排泄する力があり高血圧の予防に効果が有ります。また長時間の運動による筋肉の痙攣などを防ぐ働きが有ります。

柿1個たべれば、1日のビタミンCの必要量以上を満たし、柑橘類の約2倍の70mg/100g含まれています。ほかにビタミンA・K・B1・B2も含まれています。疲労回復、風邪の予防、老化予防、ガン予防に効果あると言われています。

二日酔いには柿を (^^♪ ビタミンCとタンニンには血液中のアルコール分を外え排出する働きや副腎機能低下を防止する働きがあるそうです。また酵素がアルコールの酸化、分解を促ため、アルコール濃度の上昇を防ぎます。

また、柿の葉にはビタミンCがみかんの30倍も含まれいるそうです。柿の葉寿司・柿の葉茶も有名ですネ!

干し柿にすると、ビタミンCは少なくなりますが βカロチンが増えるそうです。

(^^♪  柿とハムと玉ねぎのサラダ  (^O^)/  意外と美味しいのが柿の天ぷらですが、間違っても1個を素揚げはヤメテ下さい。爆発しますから (>_<) 

飛び上がるほどに渋い柿は、渋柿に竹串などで穴をプチプチと空け、焼酎をかけ何日か置いておくととても甘い柿になります。 これホント (^^♪

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 万葉歌人柿本人麻呂は、わが国最初の歌集「万葉集」の最高の歌人と言われ、和歌の祖(歌聖)と仰がれた人です。柿本の名の由来は「家の門前に、柿の樹が有った」ので、「柿の樹の下」から「柿本」になったとか?

慶長5月15日天下分け目の関ケ原の決戦が起こりました。よく知られていますこの日は旧暦で、新暦に直すと1600年10月21日で、ちょうど今頃の季節ですね!

戦いの結果は皆さんご存知の通り、西軍 石田三成が敗北し、京都六条河原の処刑場に向かう道中で有名なエピソードが有りますネ!  

喉が乾いた三成は、警護の者に水を所望しますと、警護の者が「あいにく、水はないが柿がある」と言いましたところ、「柿は胆の毒だ」と言って断ります。胆の毒とは腹痛の原因になると言います。刑場に向かう三成、最後の最後まで諦めない武士道に感服!東洋医学では、柿は体を冷やすといいますが、柿一個なら大丈夫と思いますが?

こんな話も、関ケ原の合戦の際、徳川家康が当時の呂久川(現在 揖斐川)まで進軍してきた時、地元の農民が大きな柿を献上したところ家康は「戦わずして大柿(大垣)を得り」と喜び全軍を鼓舞したそうです。

戦国時代には、美濃国の柿が名物となり、織田信長がルイスフロイスに贈った逸話も有ります。

昔は嫁ぐに当たり、柿の苗木を持っていたそうです。その嫁が一生を終えると、すでに大木になりその枝を切り火葬の薪やお骨を拾う箸にされたそうです。だから古い農家には今でも、その名残の大きな柿の木があるそうです。

芭蕉の句》

「里古(ふ)りて柿の木持たぬいえもなし」  

「柿なりて街道行けば一里塚」

「旧道を今日も行くかかな柿なりぬ」

最後にもう一つ!《柿の木問答》若い衆「お前の家に柿の木が有るか??」むすめ「有ります」「おれが取ってもよいか?」「どうぞとって下さい」その結果めでたく結婚!

そして洒落な一句!「渋かろうか 知らねど柿の 初ちぎり」

柿は、日本の文化と歴史には欠かせない食べ物であったようですネ! (^O^)/ 

 

台風21号による被害が癒えぬのに、台風24号日本列島に大被害!  何とも遣る瀬無い!

                                   記 10/1

 

「三馬」?

秋の魚といえばサンマ! 漢字で書くと「秋刀魚」、昔の書物には「三摩」と記されています。また夏目漱石・小説「吾輩は猫である」に「三馬」と書かれています? 

吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたかとんと見当がつかなぬ・・・

<主人公の猫がひもじさと寒さを避けるために台所に忍び込もうとしますが、すぐに 下女の「おさん」に見つかり外に放り出されてしまう、そしておさんという者をつくづくいやになり、そのしかえしに>

・・・この間 おさんの三馬を偸(ぬす)でこの返報をしてやってから、胸の痞(つか)えが下りた。吾輩が最後につまみ出されようとしたとき、この家の主人が騒々がしい何だといいながら出て来た・・・」   <1905年(明治38年)著 38歳発表>

f:id:marui-hall:20180905111436j:plain <写真はネットより>

 一般的には1898年頃に現在「秋刀魚」という字が使われる様になったそうです。  江戸時代から、細長い魚を意味する「狭真魚:さまな」とか「祭魚:さいら」などの名で親しまれた大衆魚です。古くは紀伊半島で「佐伊羅魚:サイラ」と呼ばれており、ここから学名「Cololabis  saira」と付けられたそうです。

 

秋刀魚は、北太平洋に広く生息する回遊魚で、日本各地で水揚げされる。東京「目黒のさんま祭り」今年は昨年と違い大漁で岩手県宮古漁港から直送の7000匹の新サンマが振舞われる。9月9日(日)に賑やかにひらかれた。勿論目黒のさんまの寄席も恒例だ! 主催者が異なり、9/16にも開かれる)

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                             <写真はネットより>

産地でもない東京・目黒とサンマが結び付いたのは、ひとえに落語『目黒のさんま』のおかげだろう。お殿様が鷹狩りの帰路、目黒の茶屋でたまたま庶民の食べていた下魚のサンマを味わって感激し!「サンマは目黒に限る」といったとか? この頃は、庶民はサンマを食べていたが、武士は、魚中の下品(げまん)とされ未だ食べていなかった時代です。

裕福な町人のなかにも、サンマを好んで食べる者が出てくるのは、寛政年間(1787年)頃になってからだそうです。しかし旗本などの武家の多くはサンマを下世話な魚とみなして依然として食べることはなかったという。さらに、形が刀に似ているいることもあり武士は口いするのを嫌がったそうです? 庶民がサンマを食べだしたのは、江戸の中期頃からであるそうです。 (^^♪

 

佐藤春夫の名詩に「さんま苦いか 塩っぱいか」と歌われた『秋刀魚の歌』はよく知られています。<大正10年>

あわれ秋風よ 情(こころ)あらば伝えてよ  

ー  ー   男ありて 

今日の夕餉に ひとり

サンマを食(くら)ひて 思いにふける と  

さんま なんま

そが上に 青き密柑の酸をしたたらせて

さんまを食うふは その男がふる里のならいなり

・・・・・・

・・・・・・・さんま苦いか塩つぱいか・・・・・

 

 

北海道 胆振(いぶり)東部地震により被害された皆様、心よりお見舞い 申し上げます。

1900年9月11日 日本で初めて東京の新橋駅と上野駅に公衆電話が、街頭に2か所設置された。それ以来1993年には約93万台に(^O^)/しかし現在は16万台弱に、そのかわりに携帯電話、スマホが普及する。

9月6日 北海道の震度7を観測した地震により大停電、固定電話が使用出来ない、携帯電話の充電もままならない状況、通信手段は公衆電話のみ (>_<) NTT東日本、道内全域で公衆電話 5800台 無料開放すが、どこに設置されているのか分からない人が??

日頃から公衆電話がどこに設置されているか確認しておく必要がありますネ!

かけ方(取扱)が分からない人が多いのにビックリ (@_@;)

地震災害により、道産の乳製品や野菜が品薄で価額高騰、豊漁だったサンマも一転、値上がりし庶民の食卓を直撃 (>_<) 中日新聞掲載による>

                                 記 9/11