「四季」 折々に思いつくまま!

いつも元気で、笑顔で、楽しい 「好々爺」です <ASC23期生>

梅が咲いたか、桜はまだかいな、、、!

江戸時代後期から幕末にかけて大流行した「梅は咲いたか 桜はまだかいな」歌われた『端歌:はうた』 <梅は咲いたか>の一節です。

「端唄」は、各地の流行歌が江戸化したもので、庶民が自分で作って、歌い楽しんだのが始まりと言われています。しかし、次第に「小唄」の出現によって衰退しますが、実際には殆ど同じで江戸の俗謡と言えば間違いないそうです。

 ~  梅は咲いたか  ~ 《端 唄》

梅は咲いたか 桜はまだかいな

 柳ャ なよなよ 風しだい

山吹きャ 浮気で 色ばっかり

 ションガナイ ションガナイ

あさり取れたか はまぐりャ まだかいな

   あわびャ くよくよ 片想い

サザエは悋気(りんき)で 角(つの)ばっかり

 ションガナイ ションガナイ

柳橋から 小舟をいそがせ

   舟はゆらゆら 波しだい

舟から上がって 土手八丁 吉原へご案内

 ションガナイ ションガナイ

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お座敷唄の中では、知名度の高い人気曲ですが、意味までご存知の方はあまりないのでは? 梅に、桜に山吹は春らしい花で、楽しい唄と思いませんでしたか! (^^♪

実はこの唄、意味を知ると、と~っても色っぽい唄なんですヨ!  (@_@;) 花柳界のお姐さん達をお花にたとえて、、

梅・桜・柳・山吹は花柳界の芸妓たちを暗示したもので、梅の花は若い芸妓、桜は上のお姐さん、柳はゆらゆらと移り気な芸妓、そして山吹は「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」と詠まれた歌が有りますように、実を結ばない浮気性で見持ちの悪いお姐さんとして唄われています。

あさり・はまぐりといった野暮な部分は割愛するが、悋気(りんき)は嫉妬の意味です。そして、あわびは二枚貝ではないため相手がいない片思いの意味で、いわゆる「磯の  あわびの片思い」ですね。

神田川に掛かる柳橋の周辺は、花街で船着き場でもあり、まず「柳橋の芸者さん」と遊んで、遊びたらない旦那衆が小舟を仕立て山谷堀へ、そして土手を八丁ほど歩けば吉原へとお遊びする旦那様方がいたそうです。

どんだけ遊んだらいいのだ!! ほんまにうらまやしい~~ (>_<)

庶民から生まれた端歌は、小唄より庶民に愛好されましたが、代々受け継がれていく家元制度もなく衰退していったようですが、別バージョンや替え唄も多くあります。  今でもお座敷唄として「深川」「奴さん」など親しまれ唄いつがれています。

《追記》「梅は咲いたか」の出だしの「梅」は「うめ」ではなく「んめ」と唄うそうです。日本語の「ん」には  m 音 と n 音とがあり、この場合は m 音 から始める。古文にも「梅」は「むめ」とあります。

                                                                                           二月も後わずか! 2/25 記 

 

 

 

 

 

 

インフルエンザ 猛威に注意 (>_<)

今年は、例年にも増してインフルエンザが大流行、風邪の症状に似ているが、それよりもはるか重篤化し死に至る。また感染力が強いため集団感染のリスクが高いので注意しましょう!

インフルエンザには、A香港型、Aソ連型、B型の三種類があり、年により流行のパタンが変わり、ひとつの型だけが流行するとは限りません。一昨年のシーズンはB型の割合が高かった、そして昨シーズンはAソ連型が主に流行しました。だから型の違ったワクチンを注射すると効かなかったという話を聞ますネ !

でも、インフルエンザにかかってしまったとき、肺炎などの重い合併症になるのを軽減してくれます。お年寄り、妊婦さんはワクチンを打っておいたほうがいいそうです。

いつ頃、注射をしたらいいの? インフルエンザは毎年12月から3月ごろに流行するから、11月中に打ったらいいみたい  (^O^)/

では、インフルエンザの効果はどのくらい続くのかな? ワクチンは、注射を打ったあと2週間ぐらいから効果が出始めて、5カ月くらいは大丈夫だそうです。

ワクチンでインフルエンザにならないの? ワクチンはインフルエンザ ウイルスの働きをなくしてあるから発症することはないそうです。 これ本当!

ちょっと疑問?? どうして病院によってワクチン予防注射の料金がちがうのかな? 

1回¥2,000.-というところもあれば、1回目¥2,000.-  2回目は¥3,000.-  という病院もあったりしますが?

インフルエンザのワクチンは保険適用外の自由診療で、お医者が好きな料金が設定出来るそうです。だから保険証はいらない (>_<) ワクチンは厚生省が選定したウイルスで医療品メーカーが製造するもので、基本的に中身は同じだそうです。 

医療専門誌によると、¥2,000.- ~ ¥6,000.- まで幅があるとのこと (@_@;)   価額が安いところは人気があり、メチャ  混んでいて待たせるかも、あなたは¥6,000.-にしますか (?_?)

昔の人はどうしたのかな? 江戸時代の落語に「風の神送り」という演目が有ります。 江戸時代の風習で風邪が流行したとき、風邪の疫病神に見立てたわら人形を作り 町内総出で「風の神送り」をしたそうです。

わら人形に疫病を取りこめて、鉦(かね)や太鼓、三味線ではやし立てながら町の外まで運んで、皆で「そーれ、風の神送れ」「風の神送れ」と声をあわせ川にほりなげ、後を見ず逃げて帰ったそうです。すると、そのかげで「お名残惜しい」と小声で町の医者がつぶやいたとか  (>_<)

今のお医者さんは無論そんな不謹慎なことは言わないはずですが、 (?_?) 

f:id:marui-hall:20190209103859j:plain 《オトコ神とオンナ神》 ネットより
その夜、川下で魚を獲っていた漁師の四ッ手網に何か重い物がかかった。引き上げて見ると、張りぼての「風の神送り人形」だった。大勢の人の精が入ったものか、網の中からズーツと立ち上った。

漁師「何や、お前は」 すると人形は、「わしは、風の神ヤー」 漁師「ああ、それで夜網(弱身)につけ込んだナ」  と落ちが! (>_<)

今季すでに医療機関を受診したインフルエンザ患者が、週2百万人を超えたそうです。「風の神送り」をして、風邪の神を追い出せねばならない!    

今冬も57万人余の若人がセンター試験に挑戦した。桜もチューリップも厳しい寒さを経て綺麗な花をつける。 受験生! 雪にも!寒さにも! インフルエンザにも負けるな! 健闘を祈る!           

                                   2/9 記

 

 

 

 

 

もう、1月も終わりです!

 


今年の干支は「亥」ですね! 誰がきめたの?

「干支」は、紀元前」1600年ごろから中国で生まれたと言われています。日本には

553年に伝来したと言われています。

十二支は、『子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥』と12種類の動物からなっていますが、その順番とその由来は?

日本に古くから伝わる民話として語り継がれている話によると、むかしむかし大昔!  神様が、歳の暮れに動物たちに「元旦の朝、新年の挨拶にきたものから十二番目まで、順にそれぞれ一年間動物の大将にしてやる」とお触れを出しました。 動物たちは自分こそ一番になろうと元旦になるのを待っていましたところ、

ネコはいつ神様の所に行けばいいのか忘れてしまいネズミに尋ねたところ、ネズミはわざと一日遅れの1月2日と嘘ついて教えたそうです。

ウシは「自分は歩くのが遅いから早めに出発しよう」と暗いうちに出発しました。それをウシ小屋の天井で見ていたネズミはウシの背中に飛び乗り、ウシが神様の御殿に到着するすんぜんにネズミはピョンと降りチャッカリ一番になりました。ウシは「モウモウ」と悔しがったそうです。

その後、トラ・ウサギ・龍・ヘビ・ウマ・ヒツジ・サル・トリ・イヌ・イノシシの順で神様の神殿に到着しました。

途中、サルとイヌが大喧嘩をはじめ、トリはそんな二匹の上を飛んで追い抜いたそうですが、ギリギリのところでサルが先に到着し、サル、トリ、イヌとなりました。イヌはサルを憎み今でも「犬猿の仲」と言われているそうです。

 13番になったカエルは、「もうカエル」とがっかりして帰ったそうです。そして1月2日の朝に到着した、ネコはネズミに騙されたと知ったネコは怒り、いまでもネズミを追い掛けるよになったとか?  ネズミに騙されなかったらネコが十二支に入ってたかも?

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中国には昔、猫がいなかったからという説も有ります。猫はもともとエジプトの動物で、古代エジプトではスフィンクス(神様)として崇拝された動物でした。しかし古代エジプトは強大な帝国であり、象徴でもある猫は他国からは嫌われ紀元前30年頃まで他国で飼育されることがなかったそうです。干支が作られた頃の中国では、猫は馴染みがうすい動物だったようですネ!

しかし、ベトナムではネズミから米を守ってくれるネコが、ウサギの代わりにネコが入っています。

その他にも、ブルガリアではトラでなくネコが仲間入りしています。

このように干支も、その国々の歴史文化よって動物達が違います。他にも干支にまっわる話も沢山あるようです。

キリンや象も入ってると、もっと違った話になり楽しかったよネ (^^♪

 

2月3日は恵方巻きを「東北東」を向いて、ガブリと食べて下さい (^O^)/   きっと福がきます!

恵方巻きとは、「福を巻き込む」を意味する「巻きずし」で縁を切らないよう包丁をいれずに1本のまま食べる。七福神にあやかって7種類の具が入った太巻きが望ましいらしい! 願いごとをしながら黙々と食べること  (^O^)/

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 恵方巻きの起源は、江戸時代末期の大阪の船場で商売繁盛の祈願をする風習として始まったとも言われていますが、正確な起源は未詳!

恵方とは、陰陽道おんみょうどう)でその年の干支によつて定められふた、最も良いとされる方向のことで、その方向に福をつかそどる神様「歳徳神:さいとくしん」がいると言われています。 歳徳神のいらっしゃる方向に向かって事を行えば万事に吉だそうです。       

陰陽道は、中国古代の宇宙観を起源とし、日本独自に発展した占いの体系のひとっで、立春(2/4)から運勢の始まりとしている場合が多いようです。

皆さん、宝くじを買うときは自宅からみて「東北東」にある売り場で買うと、大当たり間違いないとか (?_?) 旅行も「東北東」にある観光地に行けば、楽しい旅になりますョ!!

尾張四観音《笠寺観音甚目寺観音・荒子観音龍泉寺観音》とは、およそ400年前に徳川家康公が尾張の国の中心として名古屋城を築き、名古屋城から見て鬼門の方角にあたる寺院を鎮護と定めました。この四っの観音寺は千年以上の歴史があり、ご本尊は観音様で尾張を守護とし信仰を集め、その年の惠方にもっとも近い寺を「尾張恵方観音様」として福を求める参拝者でにぎわいます (^^♪  今年は「東北東」の龍泉寺観音です (^O^)/  1/27

 

あけまして おめでとう御座います

      謹んで 初春の お慶びを申し上げます  

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                     《  Itimia City 138 Tower 》

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正月とは? 1月の別称です。また1月は「睦月」と呼び、正月一家揃って睦みあう様子を表すとも言われています。

また昔から、元旦には新年の神様「年神様」が1年の幸福をもたらすため、各家庭に降臨するといわれ「子孫繁栄」「五穀豊穣」、人々に「健康や幸福」を授けるとされています。「正月様」「歳徳神」とも言います。

正月を迎える行事、しきたりなど地方により異なりますが、常緑樹に宿る神を迎える「門松」、不浄の区域と神聖な場所を区別するための「注蓮飾り:しめかざり」そして歳神様へお供えとして床の間に飾る「鏡餅」、一年の無事を神仏にお参りする「初詣」と次第にその意味もうすれがちですが、新しい年を迎えるのを機に日本の風習を見直してみるのも楽しいと思いますね!

例えば、日本の伝統食として受け継がれる「お節料理」、重箱に美しく詰められた「黒豆」は、健康でまめに暮らせるように、子孫繁栄を願う「カズノコ」・喜こぶの語呂合せで「昆布巻き」、金運上昇を願う「きんとん」・田を耕し豊作を願う「たつくり」・「エビ料理」は腰が曲がるくらい長寿で長生き出来ますようにと料理一つ一つに健康と繁栄への思いが込められています。 そこに込められた日本文化を理解するとまた違った思いで一年を迎えられるかもしれませんね (^^♪ 

皆様、今年も健康で幸多き一年となりますよう、心から

お祈り致します。 ヽ(^o^)丿 

本年も宜しくお願い申しあげます 

                                                                                                  2019.元旦  Marui 

 

 


       

 

「年越し蕎麦」 & 「年明けうどん」

「年越し蕎麦」が日本の文化として行われるようになったのは、遅くとも1814年にはすでに大阪では定着していたと言われています。起源は、江戸時代中期には商家に月の末日に蕎麦を食べる三十日蕎麦(みそかそば)とゆう習慣があったそうで、これが転じて大晦日だけになったと考えられるそうです。ほかにも!

世の中にめでたきものは蕎麦の種

     花咲きみのりみかどおさまる

「みかど」はそばの実の三角と帝との掛けことばである

そばのめでたさをたたえるこの歌は、室町時代の関東の三長者の一人増淵民部の作と言い伝えられていて、大晦日にはそばがきが振る舞われ、家中はもちろん出入りの者みな「福そば」をたべた。この家の繁盛を見た人々は次々とみならったとゆうのが、「年越しそば」の由来伝説の一つだそうだ。

一般には江戸時代の大晦日の商家で夜明けまで働く使用人に振る舞われた出前そばが起源とされているとも言われている。

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めでたい由来や歌には「細く長く」という縁起をかついだものが多くあります。逆に蕎麦は切れやすい事から、一年間の苦労や、借金が切れるように、また蕎麦には五臓の毒を取ると信じられていたので、、そんな年越しそばを食べてもらおうとそば屋さんが仕掛けたとか?

こんな話も、鎌倉時代の僧が、困窮した民にあたえたそば餅が「世直しの気運そば」とたたえられたとの由来もあります。

一方、「年明けうどん」の由来ははっきりしています。「うどん県」として有名な香川県は、古くから祭りなど年中行事などの「ハレの日」にうどんを食べる習慣があり、お正月にも全国で食べてもらおうと思い、香川県讃岐うどん振興協議会が2009年に登録申請し認められた商標です。協議会は製麺業界や流通業界、食品メーカーの協力を求めて、元旦から15日までうどん食を定着させようとキャンペーンをし、少しずつ全国に広がったようです。

昔からうどんは、太くて長いので健康長寿を願い、白いことで縁起がいいと言われています。 

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年明けうどんの定義は、純白のうどん1点に新春を祝う「紅」を用いるとされています。「紅」とは、梅干しや金時人参の天ぷら・海老の天ぷら・赤いかまぼこなど赤く見える具材のことです。そうすることで「紅白」となり、とてもおめでたい食べ物になるからです。

うどんは手軽にでき、胃腸にも優しい食べ物で年末年始の暴飲暴食で胃腸が疲れている時などには「年あけうどん」が最適ですネ!

 

よく似たお話が! そうです「バレンタインデーのチョコ」「節分の恵方巻き」古きは平賀源内の「土用のうなぎ」も、 食べ物ではありませんが「6月のジュンブライトに結婚式」も商業ペースで仕掛けられた? 庶民はいつも「あちむいてホイ」?? (>_<) そうだねー!

 今年もあと10日ばかり、皆さん師走をむかえ、大掃除に忙しい日々と思いますが、「年越しそば」「年あけうどん」も忘れずに準備して下さいネ!          

                                 12/21 Marui

 

 

 

「民のための政治改革 米沢藩 上杉鷹山公」

今日から師走! 暑かった夏、日本列島を襲った幾つもの台風による大被害、北海道の胆振(いぶり)震度7地震・大停電、竜巻と地球が壊れたかとも思うような異常気象、 政治もアメリカ・トランプ大統領のつぶやき(ツイター)一言で世界の経済も混迷? 日本の政治もどこに向かって行くのか? 平成はあと6カ月で新しい年号に、その10月には消費税 UPとは! (>_<)

 『なさば成る なさねばならぬ 何事も 

        ならぬは人の なさぬなりけり』

J・F ケネディビル・クリントンアメリカ大統領に『もっとも尊敬する日本人政治家』と言われた、江戸時代の米沢藩上杉鷹山公の名言です。

上杉鷹山は、借金にまみれた米沢藩の9代藩主になったのはわずか17歳の時で、一生かけて取り組んだ身を切る緊縮策改革、50年以上かけて16万両のの借金を完済した。しかし家来の反乱などを乗り越え改革が成し遂げられたのは、七十二歳で世を去った後のことだったという。《常に民のための政治、一生かけて取り組んだ身を切る改革へ意志に感服!》

《時代背景》

越後は上杉謙信を祖とする代々上杉家が治めていた。謙信没後、上杉景勝の治世となり120万石を誇っていたが天下分け目・関ヶ原の合戦では徳川家康に降伏すると、出羽国 米沢藩に15万石に減移封される。お家取り潰しは免れたもののあまりにも凋落ぶりであった。上杉家の財政事情は最悪で、借財は16万両(今に換算 160億)に累積する一方、困りはてた8代藩主上杉重定は幕府に領地の返上することを検討する始末、そんななか、第9代藩主に上杉治憲(鷹山)が家督を継ぐことになるが、、、

しかし、上杉家は名門の誇りを捨て切れず、初代藩主 景勝 120万石時代の家臣5000人を召しかかえ人件費だけでも膨大で、贅沢な暮しも改めることなく深刻な状態であった。わずか17歳の9代藩主となった鷹山に破綻寸前の藩の運命を託される。

f:id:marui-hall:20181125162339j:plain 画像はネットより

鷹山は自ら改革に挑む、先代の家老らと厳しい対立の中、江戸仕切料(江戸での生活費)1500両を209両に減額、七分の一に倹約して衣服や食事、本などをまかなう。

そして鷹山自信も米沢での日常生活費は、衣食は下級武士以下の質素さを貫き、日常の食事は一汁一菜、衣服は絹でなく綿で作られたものだけで、奥女中を50人から9人に減らし倹約をした。大名行列の人数も減らす。

民にも「大倹約令」をだす。雪深い米沢藩には特産物もなかったが、米沢織や笹野一刀彫・米沢成島焼などの開発を奨励、また農業生産にも力を注ぎ藩士に対しても「武士も耕せ」と田畑の開発を促す。

江戸時代にあって兵農分離の時代であるが、武士も農業に就かせるという前代未聞の農業改革、下級武士たちも新田開墾に1万3千人の従事動員する。

 こんな逸話が!

ある日、干した稲束の取入れ作業中に夕立雨が降り困っていた老婆を二人の武士が助けてくれた。お礼に後日餅を持参いたいと言ったところ、招かれたのは米沢城であり、渡す相手こそ鷹山であった。《殿様が稲の取入れを手伝うなど普通では考えられないが、これが鷹山という男で、いかに領民に寄り添った姿勢であったが分かりますね!》

上杉家に仕える家臣には財政破綻に近い状況にもかかわらず、鷹山が若く3万石の小藩から来た養子であるこを侮って、倹約どころうか不要なプライドが強く格式ばかりを重るばかりで反鷹山との戦いに苦慮する。まさに「上杉」のプライドを捨て、さらなる改革を進める矢先、

「武士に農業をさせるとはと、鹿と馬とするような鹿馬げた行いだ、、、」と上杉家に仕えてきた名家の7人が訴状にて、改革が性急すぎると中止を迫る「七家騒動」がおきる。

しかし、鷹山が下した処分は、5人を隠居・閉門、2人は切腹、そして裏で策略した儒学者 藁科立沢(わらしな りゅうたく)は斬首とゆう厳しい処分をくだす。23歳の鷹山は断固たる意志で抵抗勢力を一掃する。

さらなる改革のさなか、天明3年には浅間山が噴火し「天明の大飢饉」、 大事業に挑むが失敗が重なり多額の借金がかさみ、16年間の改革の成果はほぼ水泡に帰し責任を負うて藩主を引退し隠居する。 とき35歳であった。

先代の重定の実子治広に譲るが、鷹山の隠居後から5年、藩の借金は鷹山就任時の倍の30万両に膨れ上がる。

鷹山、復帰を願う声にこたえ政治の舞台に戻ることを決意!すべての家臣を城に集め、藩の借金を公開し危機意識を共有し、「上書箱」を設け藩士だけでなく農民や町人すべてての者から意見を受け付けると宣言する。米沢藩の支出を明確にするために帳簿の作成など実行する。

強政策による改革の失敗を踏まえ、無数の意見を元に決めたのが、寒い米沢風土にあった養蚕業・絹糸・絹織物まで一貫して仕上げることであった。織手は武家の女性で、出来あがった織物は藩が買い上げる奨励策を取った。やがて米沢中に機織りの音が溢れ、米沢全体が織物工場となった。

文政6年・鷹山藩主就任から56年、最大30万両もあった借金は完済。全ての領民が力を合わせ藩を救った結果であった。しかし、鷹山逝去の翌年72歳の事であった。

鷹山は生涯をかけ、米沢を豊かな国へと変革した。現在でも米沢市民に尊敬されており、鷹山だけは「公」と敬称を付けて呼ぶことが多いそうです。いかに領民に寄り添った鷹山公であったがわかる話です。

 今の時代にカリスマ リーダー鷹山公がいたらなぁーーと思う (@_@;)  

日本は借金大国! 借金は  1,085兆7537億円 1当たり約867万円 破綻 !   (>_<) 

政治家の汚職、身を削る改革と言いながら私服を肥やすばかり! いったい痛みを伴う改革は! 今でしょ! 

政治家ばかりでない、積水ハウスから、地面師に55億を騙し取られたり・ 日産自動車 代表取締役会長 カロス・ゴーン 有価証券報告書に50億円少なく記載とは、 (>_<)

 今年、最後のボヤキ!*? (__)

最後にあまり語られてない鷹山の正室は、先代の重定の次女 幸姫(よしひめ)で脳障害があり、精神年齢は10歳にも満たなかったと言われています。

しかし、鷹山は幸姫を慈しみ、人形遊びの相手をする鷹山は無邪気な笑顔だったと伝えられています。つまり鷹山の一番深いところを幸姫が支えていたのではとも言われています。そして幸姫の他界後、お豊の方を迎え二人の子供を授かる。

「国家は祖先より子孫に伝え候 国家にして 我私すべき物にはこれなく候」《国家は祖先から子孫に伝えるところの国家であて、 私欲で身勝手にしてはならないものである》 鷹山 

                                  記 12/1

 

「奥の細道」 むすびの地は??

奥の細道」はどうして大垣で終えたの??

松尾芭蕉は江戸時代に約5ケ月かけて東北・北陸地方を巡る《奥の細道》旅をしました。その道のりはおよそ2,400Kmにも及び8月21日頃に旅を終えた地が大垣でした。

その理由は、俳友・谷木因(たにぼくいん)を訪ねる為だったようです。

当時、大垣藩主戸田公の文教奨励もあって、大垣の俳諧は木因や藩主らを中心に盛んにお行われていて、芭蕉が訪れさらに新風を吹き込み「蕉風」俳諧が美濃一円に広がったそうです (^O^)/

そして、芭蕉は2週間ほど大垣に滞在し、人々と別れ二見ケ浦へ、伊勢の遷宮を拝まんと水門川を舟で下り桑名に旅立ちました。 結びの句に、

「蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋」と詠んでます

別れがたい蛤の蓋と身が別れるように、名残り惜しみながら、蓋身と目指す二見を掛けた句をのこして大垣を後に出発します。

奥の細道の原文》

月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり、船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。 予もいづれの年よりか、、、、

《 解釈 》

月日は旅人である。人生もまた旅人である。古の人たちもたくさん旅に死んできた。私も物につかれたように、旅に出たくてどうしょうもなくなってきた。旅支度をしていると、松島の月が真っ先に脳裏に浮かんでくる。住んでいた家は他人に譲り、「草の戸も 住みかはる代 ぞひなの家」 と面八句(おもてはっく)を柱に掛けおき、旅立ちます。

 

《 旅  程  》

徳川幕府が繁栄を極めた元禄時代に、 芭蕉が崇拝する西行の500回忌に当たる1689年(元禄2年)に、芭蕉(1644-1694)・ 弟子の曽良(1649-1710)とともに、江戸深川のほとりにあった芭蕉庵を引き払い旅立ちます。

東北地方は、西行などが旅をした伝説や歌枕、風光明媚な地が沢山あり、万が一にも旅の途中で死んでも悔いはない。むしろ誇りりになろうと、、

「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」  と詠む!

f:id:marui-hall:20181027143110j:plain ネットより、

とき 3月27日  46歳 ! 深川から舟で隅田川を遡り、千住で舟を降りていよいよみちのくへ、 

「行く春や 鳥啼き 魚の目は涙」 と旅立つ、

そして4月1日 日光にて、 「あらふたと 青葉若葉の 日光」

5月   9日    松島にて、 「松嶋や 鶴に身をかれ ほとゝぎす」 曽良

5月13日 初夏の平泉をおとずれ、「夏草や  兵(つわもの)どもが  夢のあと」

5月27日 山形領  立石寺(山寺)にて、  

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「閑さや  岩にしみ入る  蟬の声」       《 2007年8月 山寺にて 》

5月29日 新庄にて、 「五月雨を   あつめて早し  最上川

6月14日 酒田にて、 「暑き日を 海にいれたり 最上川

7月  4日 越後 出雲崎にて、 「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」

7月13日 不知火の難所を越え市振の宿に泊まり、「わせの香や 分入右は 有磯海 」

7月15日 金沢に、24日まで城下の名士が幾度も句会を設ける。江戸を発ってほぼ4カ月、曽良は体調勝れず、急遽 立花北枝が共となる。「塚も動け 我泣聲は 秋の風」

山中温泉に、7月27日~8月5日 大垣を目前に安堵し八泊 和泉屋に宿す。

「山中や 菊はたおらぬ 湯の匂」 

曽良は腹を病み、伊勢の国長島に先立ちて行く 「行行て たふれ伏とも 萩の原」と書き置きたり、また「今日よりや 書付消さん 笠の露」とも、

8月5日 小松 那谷寺みて、 「石山の 石より白し 秋の風」

8月9日 越前 吉崎 「終宵 嵐に波を 運ばせて 月を垂れたる 汐越の松」西 行 <この一首にて、数景尽きたり>芭蕉記す。

8月14日 丸岡 天竜寺 金沢から共とした立花北枝とここで別れる。

「物書きて 扇引さく 余波哉」

8月15日 敦賀 北国の日和はあいにくで、雨が降り十五夜の名月は見れず。

「名月や 北国日和 定めなき」

8月16日 西行の歌にもある「ますおの小貝」を拾うおうと、船で色ケ浜へ向かう。

「波の間や 小貝にまじる 萩の塵」

8月21日頃 大垣に到着、門人たちが集い労わる。

9月  6日 旅は150日あまりに及び多くの名句を詠み、生涯で最大の旅を終え大垣を後にする。

芭蕉は、生涯「更科紀行」「野ざらし紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」「幼住庵記」など多くの紀行拝文を残しています。東北路への旅を初め諸国を旅し、九州を目指す旅行中、元禄7年(1694)10月121日  旅先の大阪にて51才で歿する。

春に百花あり 秋に月あり 夏に涼風あり 冬に雪あり

すなわちこれ人間の好事節 と格言を残しています。

あの有名な句、「 古池や 蛙飛び込む 水の音 」 は奥の細道で詠まれたと思いきや、そうでなかったです  ! 

この句は、貞享3年 43才 作で、この時代は「人類憐れみの令」5代 将軍 綱吉の時代で蛙を持ち上げ、幕府におもねっての句とか?

また奥の細道に同行した河合曽良は「幕府調査官」だから関所もなんなく通り抜けて旅が出来たとか? そんなことから芭蕉は幕府の隠密とか?

芭蕉の第一の俳士高弟「向井居来」は「洛陽に去来ありて 鎮西に俳諧奉行なり」と称えられた人で、「やま吹や 蛙飛び込む 水の音」との句があり、パクリでないかとか? 

向井去来は、京都の嵯峨野に草庵「落柿舎:らくししゃ」を営なみ、芭蕉も3度訪れて滞在し、48才「嵯峨日記」を著した場所です。 

数年前に訪れた時、小さな石に去来と彫られたお墓が印象的で思い出される。

「凡そ天下に 去来程の小さき墓に 参りけり」 虚子

このように松尾芭蕉について、いろんな俗説?がいっぱい有り「芭蕉隠密説」の書物にも詳しく出ています。小説には「奥の細道殺人事件」斉藤栄 著にも面白く書かれています。

松尾芭蕉」の素晴らしい旅に 感動するも、どうして尾張國 一之宮を舟で通り過ぎて二見に向かうとは!! 一之宮に足あとなし! うむむ、、、残念至極なり   (>_<) 

                               記  10/31 Marui