何年ぶりの酷暑! 第百回 全国高校野球選手権記念大会 高校球児の熱い、熱い戦い、秋田県勢としては1925年の第1回大会以来、103年ぶりに快進撃を見せた秋田代表 金足農業高校 吉田好輝星投手 881球の熱投に甲子園はさらにフィーバー!
また8月15日は終戦記念日 !(戦没者*軍属230万人 民間人60万人)
「君死にたまふことなかれ!」
与謝野晶子の著作で、明治37年(1904年)9月「明星」に発表されたものです。日露戦争に出征した弟を想いを平和を願って綴った詩で、軍国主義の真っ只中、反戦詩として世間を騒がした。世間の非難に屈することはなかった、晶子26歳!
君死にたもうことなかれ、 末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとおしえしや、
人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや。
また、後に発表される
「 やは肌の あつき血汐に ふれも身で さみしからずや 道を説く君」
女性が恋愛を口にすることすらはばかられた明治時代に、一大センセ-ションを起こした歌集「みだれ髪」の作者も与謝野晶子です。
晶子は明治11年(1878年)に大阪の老舗和菓子商の娘として生まれた。幼少期には漢学熟や琴、三味線などのお稽古事もして、10歳頃には稼業の帳簿付けなども手伝っていたそうです。そんななか家族が寝静まった頃に古典文学、特に源氏物語は数え切れないほど繰り返し読み文学に対する憧れを育んでいったそうです。
21歳のとき、創刊されたばかりの文芸誌 与謝野鉄幹主宰する「明星」に夢中になる。そんなある日、大阪で開かれた歌会で理想を高らかに語る与謝野鉄幹に出会い晶子は恋をする。しかしもう一人の歌人山川登美子も鉄幹に思いを寄せるが、鉄幹は東京に内縁の妻がいた。
晶子は、鉄幹に思いを寄せる歌を次々と「明星」に投稿する。
「春みじかし 何に不滅の命ぞと ちからある乳を 手にさぐらせぬ」
歌を通じてお互いの思いを確認すると、身一つで東京に、、そして結婚する。
<ネットより>
そして、鉄幹に勧められあの有名な情熱的な短歌「みだれ髪」が出版することになる。
若者に絶大なる支持をされるが、文壇、評論家の一部からは酷評され明治の文壇に大論争起がこるが、晶子は歌人として一躍時代の大スターに、一方師匠であった夫鉄幹は自信を失い家をあけるようになるが、見かねた晶子は旅費をくめんし、1912年 鉄幹が兼ねてあこがれていたパリへ送り出す。その後晶子もパリに向かう。パリから帰った晶子は、男女平等の教育の必要性を訴える。
晶子は恋多き歌人? と言われたが、二人には11人の子供に恵まれ鉄幹と終生を共にした。女性解放思想家としても巨大な足跡を残し、波乱万丈の人生、精神的にも、肉体的にも強い明治の女性であったと思われる。
1911年 平塚らいてう 創刊「青踏」に <山の働く日きたる>を発表
1921年 夫鉄幹らと日本初の共学である文化学院を、東京の御茶ノ水に創立
1942年(昭和17年)5月29日 晶子は脳出血により、63歳の人生を閉じる。残した歌は
5万首に及んだ! 一方鉄幹は、1878年(明治11年)12月7月に死亡
日露戦争に出兵した弟は復員後、実家(駿河屋:菓子店)の稼業を継ぐかたわら、死ぬまで晶子の理解者であつたそうです。
衆議院議員で閣僚歴任 与謝野 馨(1938~2017年)は、与謝野鉄幹・晶子の孫に当ります。
『君死にたもうことなかれ』の発表後、激しい非難に対し翌1905年刊行された詩歌集『恋衣』に再度「君死にたもうことなかれ」を掲載し、一歩も引きませんでした。
「歌はまことの心を歌うもの」
「女と申すもの、誰も戦争は嫌いです、当節のやうに死ぬよと申し候こと、
またなにごとにも忠君愛国の文字や、おそれおほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへって危険と申すものに候はずや」
この時代、森本学園の教育や前稲田防衛大臣がいたら、どんな論争が聞けるだろうか ?
記 8/31