「四季」 折々に思いつくまま!

いつも元気で、笑顔で、楽しい 「好々爺」です <ASC23期生>

「奥の細道」 むすびの地は??

奥の細道」はどうして大垣で終えたの??

松尾芭蕉は江戸時代に約5ケ月かけて東北・北陸地方を巡る《奥の細道》旅をしました。その道のりはおよそ2,400Kmにも及び8月21日頃に旅を終えた地が大垣でした。

その理由は、俳友・谷木因(たにぼくいん)を訪ねる為だったようです。

当時、大垣藩主戸田公の文教奨励もあって、大垣の俳諧は木因や藩主らを中心に盛んにお行われていて、芭蕉が訪れさらに新風を吹き込み「蕉風」俳諧が美濃一円に広がったそうです (^O^)/

そして、芭蕉は2週間ほど大垣に滞在し、人々と別れ二見ケ浦へ、伊勢の遷宮を拝まんと水門川を舟で下り桑名に旅立ちました。 結びの句に、

「蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋」と詠んでます

別れがたい蛤の蓋と身が別れるように、名残り惜しみながら、蓋身と目指す二見を掛けた句をのこして大垣を後に出発します。

奥の細道の原文》

月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり、船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。 予もいづれの年よりか、、、、

《 解釈 》

月日は旅人である。人生もまた旅人である。古の人たちもたくさん旅に死んできた。私も物につかれたように、旅に出たくてどうしょうもなくなってきた。旅支度をしていると、松島の月が真っ先に脳裏に浮かんでくる。住んでいた家は他人に譲り、「草の戸も 住みかはる代 ぞひなの家」 と面八句(おもてはっく)を柱に掛けおき、旅立ちます。

 

《 旅  程  》

徳川幕府が繁栄を極めた元禄時代に、 芭蕉が崇拝する西行の500回忌に当たる1689年(元禄2年)に、芭蕉(1644-1694)・ 弟子の曽良(1649-1710)とともに、江戸深川のほとりにあった芭蕉庵を引き払い旅立ちます。

東北地方は、西行などが旅をした伝説や歌枕、風光明媚な地が沢山あり、万が一にも旅の途中で死んでも悔いはない。むしろ誇りりになろうと、、

「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」  と詠む!

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とき 3月27日  46歳 ! 深川から舟で隅田川を遡り、千住で舟を降りていよいよみちのくへ、 

「行く春や 鳥啼き 魚の目は涙」 と旅立つ、

そして4月1日 日光にて、 「あらふたと 青葉若葉の 日光」

5月   9日    松島にて、 「松嶋や 鶴に身をかれ ほとゝぎす」 曽良

5月13日 初夏の平泉をおとずれ、「夏草や  兵(つわもの)どもが  夢のあと」

5月27日 山形領  立石寺(山寺)にて、  

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「閑さや  岩にしみ入る  蟬の声」       《 2007年8月 山寺にて 》

5月29日 新庄にて、 「五月雨を   あつめて早し  最上川

6月14日 酒田にて、 「暑き日を 海にいれたり 最上川

7月  4日 越後 出雲崎にて、 「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」

7月13日 不知火の難所を越え市振の宿に泊まり、「わせの香や 分入右は 有磯海 」

7月15日 金沢に、24日まで城下の名士が幾度も句会を設ける。江戸を発ってほぼ4カ月、曽良は体調勝れず、急遽 立花北枝が共となる。「塚も動け 我泣聲は 秋の風」

山中温泉に、7月27日~8月5日 大垣を目前に安堵し八泊 和泉屋に宿す。

「山中や 菊はたおらぬ 湯の匂」 

曽良は腹を病み、伊勢の国長島に先立ちて行く 「行行て たふれ伏とも 萩の原」と書き置きたり、また「今日よりや 書付消さん 笠の露」とも、

8月5日 小松 那谷寺みて、 「石山の 石より白し 秋の風」

8月9日 越前 吉崎 「終宵 嵐に波を 運ばせて 月を垂れたる 汐越の松」西 行 <この一首にて、数景尽きたり>芭蕉記す。

8月14日 丸岡 天竜寺 金沢から共とした立花北枝とここで別れる。

「物書きて 扇引さく 余波哉」

8月15日 敦賀 北国の日和はあいにくで、雨が降り十五夜の名月は見れず。

「名月や 北国日和 定めなき」

8月16日 西行の歌にもある「ますおの小貝」を拾うおうと、船で色ケ浜へ向かう。

「波の間や 小貝にまじる 萩の塵」

8月21日頃 大垣に到着、門人たちが集い労わる。

9月  6日 旅は150日あまりに及び多くの名句を詠み、生涯で最大の旅を終え大垣を後にする。

芭蕉は、生涯「更科紀行」「野ざらし紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」「幼住庵記」など多くの紀行拝文を残しています。東北路への旅を初め諸国を旅し、九州を目指す旅行中、元禄7年(1694)10月121日  旅先の大阪にて51才で歿する。

春に百花あり 秋に月あり 夏に涼風あり 冬に雪あり

すなわちこれ人間の好事節 と格言を残しています。

あの有名な句、「 古池や 蛙飛び込む 水の音 」 は奥の細道で詠まれたと思いきや、そうでなかったです  ! 

この句は、貞享3年 43才 作で、この時代は「人類憐れみの令」5代 将軍 綱吉の時代で蛙を持ち上げ、幕府におもねっての句とか?

また奥の細道に同行した河合曽良は「幕府調査官」だから関所もなんなく通り抜けて旅が出来たとか? そんなことから芭蕉は幕府の隠密とか?

芭蕉の第一の俳士高弟「向井居来」は「洛陽に去来ありて 鎮西に俳諧奉行なり」と称えられた人で、「やま吹や 蛙飛び込む 水の音」との句があり、パクリでないかとか? 

向井去来は、京都の嵯峨野に草庵「落柿舎:らくししゃ」を営なみ、芭蕉も3度訪れて滞在し、48才「嵯峨日記」を著した場所です。 

数年前に訪れた時、小さな石に去来と彫られたお墓が印象的で思い出される。

「凡そ天下に 去来程の小さき墓に 参りけり」 虚子

このように松尾芭蕉について、いろんな俗説?がいっぱい有り「芭蕉隠密説」の書物にも詳しく出ています。小説には「奥の細道殺人事件」斉藤栄 著にも面白く書かれています。

松尾芭蕉」の素晴らしい旅に 感動するも、どうして尾張國 一之宮を舟で通り過ぎて二見に向かうとは!! 一之宮に足あとなし! うむむ、、、残念至極なり   (>_<) 

                               記  10/31 Marui