「四季」 折々に思いつくまま!

いつも元気で、笑顔で、楽しい 「好々爺」です <ASC23期生>

風薫る5月 (^_^) 旅するチョウ!? 

日本唯一の渡り蝶、

驚異的な距離を旅する謎多き「アサギマダラ」

春が訪れ、花々の開花に合わせ、待ってたように蝶たちが可憐に舞い楽しませてくれます。その蝶は、ほぼその周辺において短い生涯を終えます。 

しかし「アサギマダラ」は世界で類を見ない、春と秋に日本列島を縦断し、海を渡り台湾までもの長距離を旅する蝶です。そんな蝶が日本にいるのをご存じでしょうか ?

クレマチスの花が咲いた! テッセンとも呼ばれ中国に自生している6枚の乳白色の花弁をもち、雄しべが花弁化している一つの原種のことです。 クレマチスは、世界にたくさんの野生種、原種があり、これらの交配によって多くの品種が生まれています。

4/4 中日新聞 記事に、

まだら模様の鮮やか羽で長距離移動するチョウ「アサギマダラ」を呼び寄せるフジバカマの株わけが、大府横根町の二ツ池公園で、3月27日に市民約50人が参加して、花壇や通路脇に約1000株が植えられた。 そして、フジバカマの花は 8月頃に咲き始め蜜に誘われ「アサギマダラ」が、 9月~10月上旬に飛来します

蝶「アサギマダラ:浅葱斑タテハチョウ科マダラチョウ亜科の蝶で、翅(はね)を広げた大きさが10センチほどで、アゲハチョウくらいの大きさでです。

学名は「パランティカ・シータ・ニッポニカ」で、日本 “国籍” の蝶です。

翅に淡い浅葱色(あさぎいろ、薄い水色に近い色)のまだら模様があることから、この名前が付けられています。

このまだら模様の部分には鱗粉(りんぷん:はねの模様を形づくる細かい粉)が少ないため、半透明に透き通っています。

浅葱あさぎ色」とは日本古来にいう「青緑色」のことをいいます。
アサギマダラの寿命は羽化後 4 ~ 5 ヶ月と蝶にしてはかなり長く生息しますが、暑さも寒さも苦手で、快適な気温・場所を求め移動します。  (写真はネットより)

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アサギマダラは、体内に毒をもっていますが、人がさわっても問題はないそうです。 毒と言っても誤って食べた鳥が嘔吐(おうと)する程度だそうです。

『アサギマダラ』といえば、『藤袴』の花!

藤袴:フジバカマ 」は、秋の七草の一つで、万葉集で詠まれていたり源氏物語には「藤袴の巻」があるなど日本人に親しまれてきた草花です。

秋の七草」とは、女郎花(オミナエシ)、尾花(ススキ)、桔梗(キキョウ)、撫子(カワラナデシコ)、藤袴(フジバカマ)、葛(クズ)、萩(ハギ)の7種類です。

万葉集に、山上憶良が詠んだ、
「萩の花 尾花 ・葛花・ 瞿麦(なでしこ)の花・ 姫部志(をみなへし) また藤袴・ 朝貌(あさがお)の花」という詩が由来とされています。万葉集では藤袴が登場するのはこの歌のみです。ですから、当時は藤袴はそれほどメジャーではなかったようです。

源氏物語の「藤袴」は、五十四帖の第三十帖に、巻名は夕霧が詠んだ「同じ野の露にやつるる藤袴 あはれはかけよかことばかりも」という和歌に由来します。

藤袴」は、奈良時代に中国から日本に渡来し、かつては本州以南の山野で広く自生していましたが、フジバカマは現在では国のレッドデータブックで準絶滅危惧種に指定されています。

京都では「絶滅寸前種」にも指定されています。1998年に京都の大原野で再発見された野生種の藤袴が増殖に成功し、京都各地の寺社へと広がり美しい花を咲かせアサギマダラはじめ多種多様のチョウがやってきます。

茎と葉にクマリン系の香りがあり、乾燥させたフジバカマの茎や葉っぱには桜の葉のような香りを放ちます。 中国では芳香剤として利用されています。<写真はネットより>

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市販されているフジバカマの多くは「サワフジバカマ」というものです。

令和の典拠となったのは、万葉集
「初春月、気淑風、梅披鏡前之粉、薫珮後之香」
という序文の一節です。
そして、「蘭」とは、今のラン科の植物ではなく藤袴のことという説が最も有力です。
秋の花である藤袴がなぜ初春に? と疑問を持つかもしれませんが、これは藤袴の葉を乾燥させて作った「匂い袋」のことを言います。

2008年 KBS京都が中心となって源氏物語千年紀」を前に「守ろう藤袴プロジェクト」が立ち上げられました。(KBS:京都にあるテレビ・ラジオの放送局)
そして、2010年までの3年間で7,000株もの藤袴を育て、小学校などに分配しました。

京都 梅小路公園の朱雀の庭で毎年開催されている「藤袴と和の花展」も藤袴プロジェクトの一環として2009年から始まりました。(2020年・2021年は中止)
こうした努力が実を結び、今では京都各所で原種の藤袴を見られるようになりました。

京都御所の近く「廬山寺:ろざんじ」は、紫式部の邸宅跡と推定され源氏物語執筆の地として知られています。
紫式部は、この廬山寺の地で、藤袴の花を求めてアサギマダラが飛び交うなか、源氏物語の「藤袴」の巻を書いたのかもしれませんね !

ハナニラ」の花も咲いた! 「別名 ヘツレヘムの星」と言われます

1980年代ごろから、全国各地で集団で集まる「アサギマダラ」の行方を調べる調査が毎年全国で行われています。
その方法は、アサギマダラを捕獲して翅の浅葱色の部分に「日付・場所・捕獲者など」の記号を油性ペンで書き込んで放し、再び捕獲された情報を集約するマーキング調査です。

メモデータは、後日マークした個体が他の場所で捕獲されたときに、そのアサギマダラがどこから飛来したのか、何日かかって移動したのかなどがわかる貴重なデータとなります。

f:id:marui-hall:20220411094557j:plain <写真はネットより>

こうした調査の結果、春には沖縄・台湾から本州・北海道へ北上することや、秋には北海道・本州から沖縄や台湾まで南下をすることが明らかになり、その移動距離が約2000キロを超えるものもあることが分かってきています。

こように「アサギマダラ」蝶の生態を解明したのは、全国に数千人いる蝶の愛好家が捕らえた蝶の羽にマジックで捕獲場所と日付を書いて放し、別の地域で再捕獲した人がインターネットの掲示板にその情報を載せる事で判明しています。今では愛好家のネットワークは国境を越え台湾にも広がっています。

観察組織には、小中学生もマーキングに参加しています。こうした人たちの努力のおかげで近年その幾つものルートが解明されてきています。毎年いろんな記録が更新され驚く結果が分かって来ています。

これまで津軽海峡を越える事がなかったアサギマダラが近年、北海道やサハリンで目撃されるようになりました。 何故かと疑問が??
温度変化に敏感なことから 地球温暖化 との関連が指摘されています。

地上で優雅に飛ぶ「アサギマダラ」は、一度舞い上がると、ワシやタカのように翅をはばたかず、上昇気流にのっている姿から、うまく風に乗っていることで長距離移動を可能にしていると考えられています。

日本列島を縦断、さらに南の沖縄や台湾・香港まで2500キロ以上飛んで行きます。そして、翌年の春に、その逆コースを日本に渡ってきます。

「南下」のルートと「北上」のルートはまったく異なるらしく、暖かい黒潮の上昇気流や上空の季節風などを活用したり、あるいは回避したりと何かしらの自然現象が関係しているのかもしれません。

台湾あたりで多く捕獲されるようですが、さらに遠くの香港などでも発見されており、一説には中国広東省の山奥あたりが最終目的地ではないかともいわれています。

飛行日数が 83 日で、飛行距離はなんと約 2500㎞ も移動 !

この記録は、世界ランキング 第 2 位だとか!
ちなみに 1 位は「オオカバマダラ」で、アメリカ-メキシコ間の 3800㎞ だそうです。

アメリカに「渡り蝶」で有名なオオカバマダラがいます。 マダラチョウの仲間で、8~10センチほどのきれいな黒とオレンジの翅(はね)を持ち「Monarch Butterfly」(王様の蝶)と呼ばれています。アメリカのロッキー山脈を境に、西部個体群と東部個体群に住み分けていて、秋になると西部個体群はカリフォルニア、東部個体群はメキシコに移動し集団で越冬します。

カナダからメキシコまではざっと3800キロメートルで、越冬地で過ごしたオオカバマダラは、春になると今度は北に戻るのです。すごいのは同じチョウです。

まだまだ解明が難しい飛行ルートのようですが、マーキングと捕獲によっていくつものパターンが存在することが分ってきています。

南下する場合を例にあげれば、紀伊半島あたりに集結 ➡ 高知県に移動 ➡ 最適なタイミングを見計らって室戸岬足摺岬などから一斉に出発  いくつかの島々を経由しながら最終目的地に向かうようです。

そして、アサギマダラの中継地として有名なのが、大分県国東半島沖の「姫島」や奄美大島の東にある「喜界島」です。

「姫島」などは、 人気番組 NHK:「クローズアップ現代」 で紹介されて以降、春と秋の一時期にはアサギマダラ目当ての観光客がどっと押し寄せるとのことです ! (>_<)

また、2015年1月11日、NHKの番組でアサギマダラが取り上げられました。ダーウィンが来た!「日本縦断2000キロ!旅するチョウを追え」 という30分番組でも紹介されました。

「アサギマダラ」の生態について、まだまだ分からないことも多いですが、危険を冒してまで長距離移動する目的は、次世代の生活場所を広げるための行動とも考えられ、厳しい自然界でたくましく生きている蝶とも言えます。

市民調査で明らかになってきたアサギマダラの生態!」その「謎」に何かロマンがイッパイですね ! (^^)/~~~

                       <Youthbe より、>

命の危険を冒してまで 何千キロもの大移動をする。何日も大海原上空を過酷な飛行、そしてエネルギーの補給は、鳥でなくチョウがそんなパワーがどこにあるの??  その目的は単に 「快適な気温を求めての移動」など、本当にそれだけのことなのか? 詳しいことはまだわかっていません ?

今後の実態解明に期待したい謎多きアサギマダラの世界ですね!

レッドキャンピオンの花 : ナデシコ科の植物・中央、西部、北部ヨーロッパ全域および南部ヨーロッパの一部に分布している
最近の新聞、テレビも、オミクロン株とウクライナの悲惨な戦場のニュースばかりで、悲しです (>_<) そしてオミクロン株 驚異的な早さで蔓延 !!

米ジョンズ・ホプキンズ大の集計によると、オミクロンが確認された頃は、コロナの世界感染者は2憶6千万人余で有ったのが、4月12日現在累計で5億人を突破、死者618万人超すと報告された。 現在の世界の人口は 79憶人余です !

WHOが、新たな変異株を「オミクロン」と命名したのが昨年11月26日、そして次から次へ新性型が、3回目のワクチン接種が進み重症化率や死亡化率が低くなってきたが、従来型の「BA・1」を上回る感染力の強い新型「BA・2」が確認される。

そして、英保健当局によると、この2種類が交ざった「XE」が確認され、さらに「BA・4」「BA・5」が感染が急速に広がりやすい可能性があるとも言われています。

4回目のワクチン接種の予定が!!

ロシアのウクライナ侵攻は終結の兆しさえ見えない!(@_@) 市街地への爆撃、市民虐殺、、 神よいずこに! 

ウクライナ正教会が独立したのは2019年で、三百年以上にわたりロシヤ正教会管理下にあった。

その独立騒動の発端は、ロシヤによる一方的なクリミア半島併合によるもので、プーチン政権と密接に結びつくロシア正教会は、キリスト教東方正教会 との関係を一方的に断絶宣言、東方正教会は分裂に至る。

国連事務総長東方正教会の復活祭に合わせて一時停戦を呼びかけたが、ロシア正教会のキリル総主教は、難局に際してプーチン政権の下に団結するよう国民に求めている由、、信じられな!「オーマイガー!」 4/21 中日新聞 夕刊 より、

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『花見』 今年は??

『今年は、花見に行きますか? 行きましたか?』

 ユースクが3月22日に行ったアンケートの結果 中日新聞より)

  行く:46%(757人) 行かない:36%(600人)と回答 

新型コロナウイルス感染拡大が始まって3度目の花みシーズンを向かえ、3月21日 まん延防止措置が解除されたと言え、まだまだ気を配りながらの花見! 気兼ねなく花見を楽しむのはいつ来るのだろうか? 元通りの日常は来るのだろうか?

大変な厳しい時勢でも、今年も桜はけなげに咲いてくれました。オミクロン株で花見に出かけるのもチョット気が引けますが、でも遠くに行かなくても桜は身近でも見かけますね !

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一宮市浅井町、長誓寺  樹齢250年の紅しだれ桜 、一宮市の天然記念物指定、本堂は名古屋城三の丸にあった書院を明治7年に下賜されたもので、県文化財指定です  (^_^)

全国津々浦々の桜達は待ってたように咲き誇りピンク色に染り、その美しさに日本人は昔から魅了されてきました。そして桜はいつの世も、その美さを愛でる日本人独自の文化が、感性があり、日本人の心の原点で歴史でもあると思います。

東京の桜の開花を発表 気象庁は3月20日 午後2時の観測で、千代田区靖国神社にある桜の標本木に、5輪以上の花が咲いていることが確認され、気象台の職員がその場で「桜の開花」を発表しました。

東京の桜の開花は、観測史上最も早い開花となった去年とおととしよりも6日遅くなりましたが、平年よりは4日早いということです。

名古屋の開花宣言:3月22日 平年より二日早く、観測史上最も早かった昨年より五日遅かった。31日頃が見頃とのこと (^o^)

岐阜市は21日に開花しており、見頃は28日頃の見込みです。(何れも中日新聞より)

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松任谷由美 「春よ、来い」 歌詞に!

淡き光立つ 俄雨.  いとし面影の沈丁花.  溢るる涙の蕾から.  ひとつ ひとつ香り始める. それは それは 空を越えて. やがて やがて 迎えに来る. 春よ 遠き春よ 瞼閉じれば、、

“春”を沈丁花に例え 、忘れられない想い出を乗り越えて、来て欲しいと心から願い、 別れてしまった恋人を想い出し、また戻ってきてくれる事を待ち望んでいる曲です。

「お花見」のルーツは ?  一体いつ頃から、

桜の木の下で飲食を楽しむのは、世界的に見ても日本にしかない珍しい文化だと言う。「いつ」「どこで」「どのように」お花見の文化は育まれてきたのだろうか。

そして、今でこそ花見といえば『桜』を思い浮かべますが、中国文化の影響が強かった奈良時代ごろまでは、花見と言えば「梅」の花であったようです。

奈良時代、中国に派遣された遣隋使がもたらした梅を見る文化が始まりだと言われています。平安時代になって遣隋使が廃止され、奈良時代天平2年(730年)1月、現在の福岡県太宰府市にある大友旅人の邸宅で、梅の花を題材として和歌を詠む宴会「梅の花の宴」が開かれた。当時「梅」は唐から渡ってきた珍しい植物で、「梅花の宴」は公家や貴族らによる歌会で、花も桜の花でなく梅の花ですが、花を愛でながら宴が開かれ「花見」のルーツの原型と考えられています。

この宴で詠まれた32首の歌は、奈良時代末期の和歌集「万葉集」五巻に収録されています。そしてその序文に、昭和・平成・に続く元号「令和」の語源として有名になりましたね (^_^)

万葉集にはおよそ4200首のうち「梅」の歌は、108首もあり、それに比べて「桜」40首ほどです。梅の人気があったことがわかります。

平安時代になると、日本独自の文化が芽生え始めて、花は梅から『桜』が好まれるようになります。その理由としては、日本人独自の風流、感性が、ぱっと咲き誇った花が、風とともに散る花びらを愛でることが、生命の尊さ、もののあはれさ、いさぎよさが相重なり日本人に好まれたようです。

平安時代に編まれた『古今和歌集』では、梅を詠んだ歌は18首で、桜は70首と逆転しています。以後 花と言えば『桜』が定着したようです。

日本最初の『桜』の花見は、?

花と言えば梅だった奈良時代が終わり、794年「鳴くよウグイス平安京」と中学校の社会科で覚えた平安京《794年~869年》・平安時代になると花見の主役として「桜の花」が登場します。

平安時代嵯峨天皇(在位809~823年)は、地主神社の桜を大変気に入られ毎年さくらを献上させていたそうです。

「日本後記」という書物に、嵯峨天皇が 812年(弘仁3年)3月28日に嵯峨天皇が京都にあるお寺「神仙泉苑」で「花宴之節:かんねんのせち」を催され、対象が梅から桜に変わり、貴族が桜を眺めて楽しむと記録があります。これがもっとも古い「桜の花見」と考えられています。 神泉苑は“お花見発祥の地”として今も親しまれています。

嵯峨天皇は、地主神社の境内に咲く見事な桜の美しさに、牛車を二度、三度と引き返させて眺めたと伝わっています。それ以来、嵯峨天皇は毎年神社から桜を献上させ、梅ではなく桜の花見を催すようになったそうです。   (写真はネットより) 

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地主神社の桜(地主桜): 嵯峨天皇の故事から「御車返しの桜」とも呼ばれる !

これ以降も「桜の花見」を度々開催され貴族の間で「桜の花見」が急速に広まって行きますが、庶民が桜見を楽しむのは、まだまだ縁が遠く江戸時代になります。


平安時代には、天皇や貴族がお花見を楽しんで、「桜」を詠まれた和歌がたくさん残されています。平安時代の貴族で代表的な歌人在原業平(ありわらのなりひら)はこんな歌を詠んでいます。
「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は 

  のどけからまし」
世の中に桜がなかったなら、咲くのを心待ちにしたり、散るのを惜しんだり、こんなに心を煩わせることはないのに…
桜に心ひかれるあまり春をのどかに過ごせないと詠んでいます。桜がいつ咲くかとソワソワしたり、桜が散ってしまうと切なさを感じるのは、現代の私たちにも共通する感覚ですね ! 平安時代から「桜は特別」だったようです。

京都 御所の紫宸殿(ししんでん)の左近桜!

平安京遷都  794年(延暦13)の時に、桓武天皇によって紫宸殿正面の階段から見て左には梅の樹が、右には近橘の樹が植えられていましたが、承和年間(834年~847年)に枯失したため、桜を愛好していた仁明天皇が梅の代わりに、左近桜(さこんのさくら)と呼ばれる桜の樹が植えられた。右には右近橘(うこんのたちばな)の樹があり今日に至っています

831年(天長8年)紫宸殿における花見は天皇主催の定例行事として取り入れられ、梅でなく『桜』の花見となる。

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エイザンスミレの花が咲いた !  葉が深く切れ込み、花は白色からわずかにピンク色を帯びたものがある。葉っぱだけを見てこれがスミレかと驚く方も多い。特徴がはっきりしているので、すぐにエイザンスミレだと分かります。

紫式部源氏物語「花の宴」冒頭に、次のように描かれています。

如月(きさらぎ)の二十日あまり、南殿の桜の宴せさせたまう 后、春宮の御局、左右にして、参う上りたまふ。

二月の二十日余りに、南殿(紫宸殿)の桜の宴が催された。 藤壺中宮東宮の御座所を左右にして、お二人が参内した。

鎌倉時代から室町時代になると、貴族の楽しみから、一部の武士の間でも桜見が広がり始まります。吉田兼好が執筆したとされる「徒然草」に、武士たちが酒を飲みながら大騒ぎをする様子が描写されています。貴族の上品な花見とは対照的な楽しみかたがうかがえます。

桜見が広く一般の武士の間に普及したのは、安土桃山時代だと言われています。豪華絢爛を好んだ豊臣秀吉は桜の花を愛し、贅を尽くした「吉野山の花見」を大名以下5000人を集めた大規模な花見を行っています。 

豊臣秀吉が晩年に、醍醐寺三宝院で花見の宴を催したのはよく知られています。700本もの桜を植樹し、諸大名からその奥方、女中衆まで招待客は1300人を数えたそうです。その5ヶ月後の8月、秀吉は病により生涯を終えています。

やっと庶民にも花見をする楽しみが浸透してきたのが、江戸時代の中頃で三代将軍 家光が上野や隅田河畔に桜を植え、現在、桜の名所となっているJR王子駅近くの「飛鳥山」や隅田川の川沿い、品川区の「御殿山」は、八代将軍 吉宗が桜の名所として整備して、花見を奨励したことが背景にあります。

一般庶民に花見を奨励したワケは、幕府への不満を和らげるため、庶民に楽しみを提供したなどと諸説がありますが、吉宗が桜を植えなければ今の名所もなかったかもしれないですね !

江戸時代の後期には、オオシマサクラとエドヒガンを改良した品種「吉野桜」が誕生し、のちに「ソメイヨシノ」と呼ばれ、桜の代表として今日まで広く親しまれています。

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和名は ムスカリ  耐寒性が強く、原産は地中海沿岸 ~ 中近東・西アジアまで広い範囲に分布花ことば、寛大なる愛・明るい未来、

見ごろが大変短い桜、桜の花や葉は塩漬けにすると糖分が分解されクマリンという物質が生成され、これが良い香りの元(正体)です。材料となるのは食用として育てられている種類で、花の塩漬けは八重桜の種類、葉っぱは大島桜です。

お花見と言えば「花見団子」。ピンク、白、緑の3色が一般的だが、それぞれ意味があって、「ピンク=桜の花で春の息吹」「白=雪で冬の名残」「緑=ヨモギで夏への予兆」を示すそうです。

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スナックエンドウの花 * スナップエンドウでないの ? 実は同じエンドウ豆です。

アメリカから輸入されたスナップエンドウに「サカタのタネ会社」がスナックエンドウと名付け販売、のちにスナップエンドウが正式名称となります。しかし「スナックエンドウ」の名前は現在も使用されていて、「どっちが正しい名前なのか」と迷う!これも本家としての販売戦略か??

ミネラルやビタミンを豊富に含む、栄養価が高い食材です。とくに、日本人のほとんどが不足しているといわれる食物繊維が多く含まれています。

ウクライナ戦火のなか、3月13日 第13回 冬期パラリンオピック北京大会 が閉会された。ロシヤのウクライナの侵略に奔走されながら、ウクライナ勢は同国史上最多29個のメダルを獲得した。選手村で黙とうするなど世界平和を訴え掛けた。

日本選手団も7個のメダルを獲得し、長野大会に次ぐ多い金メダル4個と大活躍でした。

1年遅れで、3月6日「東京マラソン2021」開催された。今回は沿道での応援ができませんでしたが、次回は観戦できるようになるといいですね。(「東京マラソン2022」は中止)

名古屋ウィメンズマラソン、3月13日に開催されました !

日本で唯一の女性限定の市民参加型マラソン大会で、正式に「世界最大の女子マラソン」としてギネス世界記録に認定されているほど大きなマラソン大会です。

優勝賞金は25万ドルで、日本円でおよそ2,750万円で、世界最高額です。(1ドル=110円換算・2022年3月時点) ちなみに東京マラソンの優勝賞金が1,100万円ですから、名古屋ウィメンズマラソン2022の賞金がいかに高額かがわかりますね !2位以下の選手にも賞金が支給されるようですが、具体的な賞金額は明らかになっていません。

オミクロン株蔓延で人類の生命を脅かす事態を収束を願っている矢先に、新聞もテレビも、毎日のようにロシヤ軍がウクライナに侵略、戦火のなかで子供や女性の泣き叫ぶ映像に心が痛む  (/_;)   ロシアの前代未聞行為に驚くニュースが毎日報道されています。

人類は幾たびか戦争の悲惨を知り、人間の愚かさを知りながら、地球環境を破壊する「核」の使用までちらつかせるとは何と愚かなことだろう。チェルノブイ原発事故・福島の原発被害汚染の恐ろしさを繰り返すのか?  平和を願うばかりです!

新型コロナウイルスの流行から2年が経過しました。もう2年なのか!まだ2年なのか !オミクロン蔓延防止が3月21日全面解除されたが、南アフリカなどで発生した「デルタ」と「オミクロン」が混ざった『デルタクロン』出現 ?? もう第七波に向けた議論が? 終息が見えない (@_@)  4/1 アップ !

 

 

オミクロン株に振り回され、もう3月 !

厳しい寒さも少し和らぎ、日ごとに暖かさを感じ春がそこまで! (^o^)

花と言えば桜ですね! 3月「弥生:やよい」の原語は「弥」には「いよいよ」の意味があり、「草木がいよいよ生い茂る月」から3月は「弥生」になったとする説が有力だそうです  (^O^)/

今年は一段と寒く雪も多く、この寒さで「休眠打破」桜の開花時期が例年より早いとの予報があります。

春に咲くサクラの花芽は、前年の夏に形成されますが、花芽はすぐに生長することはなく、一旦「休眠」という状態になります。
休眠した桜の花芽は、秋から冬にかけて一定期間低温にさらされることが重要なポイントで、
春を迎えて気温が上昇しするにしたがって眠りから覚め、開花の準備を始めます。このことを「休眠打破」といいます。

3月を迎えてもオミクロン株感染の衰えは一向に衰えない ! 何もかも予定が狂い中止である。時間があるが、外出には気が引ける ! 桜見はどうなるのかな?? 

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蝋梅(ロウバイ)花の形はなんとなく梅に似てますが、梅の仲間ではないそうです。

昔から花が似ていたり、香りがいいものには梅という和名をつけることが多かったみたいですね ! 原産は中国で、日本に来たのは意外と最近で江戸時代と言われています。

後期高齢の仲間と会うと話題になるのが、  年金、病気、仏壇にお墓、そして最後にいつ死が訪れるのかな? どうしたら苦しみなく死ねるのかな?「安楽死」は? と冗談を言いながら「なるようになるさ!」とケセラセラ、、でおわるのが常である。

舞姫』や『山椒大夫』『阿部一族』などの著作で知られる明治の文豪「森鴎外」(1862−1922)の、代表作の1つに歴史短編小説『高瀬船』がある。

高瀬舟」の舞台になった高瀬川は、江戸時代初期に京都・伏見間の水運の大動脈として重宝されていた運河です。およそ300年の間、京都・伏見間の水運の大動脈として重宝されていたようです。現在では鴨川において京都側と伏見側に分断されています。

徳川幕府の時代、島流しになる京都の罪人はこの川筋を上下する小舟「高瀬舟」で大阪に送られていました。

物語は「高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である」

から始まる、、

京都「知恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕(ゆうべ)」「高瀬舟」に、罪人を護送するため、同心の「庄兵衛」は、弟を殺したという男「喜助」を船に乗せます。庄兵衛は、殺人を犯したはずの喜助が安らかな顔をしているのを不思議に思います。

彼に尋ねるとそこには考えさせられてしまう意外な理由があり、、やむを得なく「殺人犯」になってしまった彼の境遇にどうしても腑に落ちないものを感じます。

「喜助」は年齢は30歳ばかりで、両親を流行り病で亡くした後、弟と2人つつましく生きてきましたが、その弟が病に倒れます。ある夜兄、喜助が食べ物などを買って帰ると、カミソリで首を切って苦しんでいる弟から、「死なせてほしいと」懇願されます。

喜助は、状況に気が混乱しながら苦渋の選択の末「弟の言ったとおりにしてやらなくてはならない」と、カミソリを引き抜き弟を死なせます。

自殺を図るも死にきれなかった弟を殺したことで、罪人として島流しの刑になったと同心「庄兵衛」に自分の罪を正直に語ります。

喜助は自分がにこやかにしているのは、今まで生活が苦しく 辛い仕事を必死に働いても食うに困るぐらいだったのに、牢に入れば食事を食べさせて貰え、そして島流しの刑が決まって、今までに見たこともない二百文の支度金まで頂けてありがたいと話す。

「弟を殺したのは、自殺に失敗して苦しんでいたところを死なせてやったので後悔していない」とも話す・・・・このような物語の流れです。

そして物語の最終は、「次第に更けて行く朧夜(おぼろよ)に、沈黙の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面(おもて)をすべって行った」と終わっています。

高瀬川の流れに任せ同心「庄兵衛」は様々なことを思いますが、人生の哀れみや喜助は人殺しと疑問に思うが、自分では出せない結論をうやむやのままに暗い闇に封じ、時代の流れに問うているように思います。

高瀬舟」1916年1月 中央公論に発表  『 登場人物は2人で、舟の上で交わされる会話のみで進行し、他の人物は回想で登場するのみです』

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今年も「クリスマスローズ」の花が咲きました (^o^)

クリスマスローズが約220鉢が並ぶ展示会が、「フラワーパー江南」で3月6日まで開催されています。百種類以上の品種が展示され最終日の6日には販売会も、中日新聞

「庄兵衛」は、喜助の生活苦でありながら「お金に対する慾(よく)」のないのに感嘆し、そして文豪 森鴎外が、この物語の中で投げかけた「安楽死」についての疑問は、この小説が発表されて100年以上たった今でも、新聞やニュースで繰り返し報じられる大きな社会問題となっています。 <この時代には「安楽死」と言う言葉は無かった>

何が幸せか? 何が不幸か? そして何が正しいのか? 命の尊厳は?

安楽死とは、本人に死を希望する意思がある場合、医師のような第三者が薬物を使って患者の死期を人為的に早める方法です。意図的に死へと向かわせることから安楽死は「積極的安楽死」と言われています。現在、日本では「積極的安楽死」は認められておらず違法です。

尊厳死とは、その名の通り人が人としての尊厳を保ちながら延命処置を断り、自然経過の死に臨んで亡くなる方法を尊厳死と言います。「不治で末期で、治療による回復をまったく見込むことができず、死への進行が止められない状態」で、人為的ではなく自然に死を迎える方法であることから尊厳死は「消極的安楽死」とも呼ばれています。患者本人(家族)の健全な判断が重要となります。

海外では、尊厳死」を合法としている複数の国があります。ただし、海外と日本の尊厳死の定義は異なるため、慎重な判断が必要です。日本でいう尊厳死は、延命措置を行わずに自然に死を迎えることです。

海外の尊厳死の定義は、英語で「Death with Dignity」と表されている積極的安楽死のことを意味します。日本で尊厳死とされている消極的安楽死は海外では「自然死」と定義しているのです。

自分の人生の終末期は、自分らしく生きていたいと誰もが望みますが、あくまでも自分自信健全な意思、判断能力が大切と思慮しますが、安易に判断を下すことは出来ない大変に重い問題ですね!

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「小菊」の花言葉には「元気」「真実」「純情」 小ぶりな菊ですが、大菊や野生菊に劣らない立派な花を咲かせ、次々と枝分かれをして花をたくさん咲かせますので「元気」という花言葉がぴったりですね。

高瀬川 現在は喜助が舟から見た景色とは様変わりしているでしょうが、江戸時代、高瀬舟に乗せて色々な思いやドラマを想像しながら、二条あたりから木屋町通沿いの西側を南下し、川沿いの木屋町通を歩いてみたいですね! 

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京都 二条木屋町のあたりに、高瀬舟が復元されています。(写真はネットより)

森鴎外:本名・森林太郎は、明治から大正にかけての小説家だけで無く、軍医、評論家、翻訳家としても活躍された。

代々医師の家系に生まれ、本人も軍医としてドイツへ4年間 陸軍省派遣留学をしました。帰国後、軍医の仕事をしながら『舞姫』『山椒大夫』そして『高瀬舟』などを執筆をしています。

夏目漱石と並ぶ明治の文豪ですが、本人はその肩書を重荷に感じていたのか、遺言には「余ハ 石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」「墓ハ “森林太郎墓”ノ外 一字モホルベカラズ」

「私は石見(島根県)出身の森林太郎として死ぬのだから、墓には森林太郎墓とだけ書いてほしい」)と書き残しています。

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昨年、岐阜梅林公園にて撮影、今年の冬は寒さ厳しく梅の開花も遅く、やつと梅の便りが聞かれますね !
春なれば宣《うべ》も咲きたる梅の花 君を思ふと夜寐《よい》も寝なくに         詠み人 : 板氏安麻呂 『万葉集』 
春になれば当然のように咲いてきた梅の花よ お前を思うと夜も眠れぬ
万葉集では梅は萩に次いで多く詠まれています。春の訪れを告げるのは今も昔も梅の花と鶯の声とされています。やっと、各地の梅園でも開花を迎えていますね!
2022年2月22日は、にゃんにゃんにゃんと語呂合わ「猫の日」でした。2022年は鎌倉時代以来800年ぶりに「2」が6個もある「スーパー猫の日」だそうです。猫好きのかたはたまらない日で「ネコノミクス」と称されるほど「猫」イベントにお菓子やグツ、経済効果が大きく例年にない盛り上がりを見せそうです。
油断大敵 ! 2020年新型コロナウイルス感染症が瞬く間に広がり、この二年で形も変えオミクロン株は、今年にはいて感染者数が300万人を超え第6波の「ピークアウト」が見えない。  そして、またまた形を変えて感染力がさらに高いとみられる、オミクロン株の一つで「BA.2」変異ウイルスが日本国内で感染が報告された  (/_;) 
いつまで続くのか、「コロナ」と人類との戦い! 新型コロナウイルス累計感染者は世界で1億7314万人を超え、 死者は372万人を上回る。
ロシアがウクライナに侵略?  理由は何んであれ戦争は大反対だ!
尊い命を犠牲にして何が欲しいのか? (>_<)  3/1 Marui

 

 

 

もう二月です !

松立てず しめ飾りせず 餅つかずかかる家にも 春は来にけり
                                  伝 元政上人(1623-1668)
門松も立てず、しめ飾りもせず、餅もつかない 、 そんな家にも春は来るのだ

早や2月です! 紅白歌合戦を見ずとも、除夜の鐘を聞かずともわが家にもお正月がやって来ました。今年こそ明るく楽しい普通の年になりますようにと願っての寝正月でしたが、オミクロン株 感染拡大でまだまだ油断大敵! でもお屠蘇だけは忘れずに頂きました (^^♪

日本の家庭では、お正月には「お神酒」をいただく習慣があります。これは古くから「日本の神々と共に暮らす」ために必要な存在であったようです。ですから「楽しむため・酔うため」だけのお酒ではなく神聖なものです。 

例えば、神社で行われるお祭りではお供え物として日本酒が捧げられ、ご神事が終わると「おさがり」として私たちも神様のご相伴にあずかりますね !

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水仙スイセン古代ギリシャ時代の壁画にも描かれています。地中海から中近東を経てシルクロードを渡り、日本には室町時代に中国から渡来、中国では水の仙人と呼ばれています

神話の中にお酒の話がよく出てきますが、 

日本酒の起源は、

日本酒の原料はお米ですから、当然、稲作が伝来してからということになると思いますが、実は日本酒がいつ誕生したかに関しては、はっきりとわかってないそうです。

日本に稲作が伝わったとされているのは弥生時代で、今から2000年位前にさかのぼります。しかし、近年縄文時代にはすでに中国伝来の稲作が行われていた可能性が高いとも言われています。

《 日本の稲作は、縄文晩期(約2600年前)に中国から九州北部に伝わったという説もあります》

縄文後期 ~ 弥生前期には水田が広がり、米を原料とする酒らしきものが造られていたとも推測されています。

遺跡から推測されるお酒は?

日本でお酒が飲まれていたと思われる最も古い痕跡が、縄文時代青森県三内丸山遺跡 や 長野県の池内遺跡などから見つかったエゾニワトコを中心にサルナシ・クワ・キイチゴなどを発酵させたお酒が作られていたのではないかと言われています。
大量の種とともに発酵したものに集まるショウジョウバエのサナギも出土したことが、その裏付けだそうです。日本で最初に作られたお酒は、日本酒ではなく果実酒の可能性があります。

書物に登場するお酒は?

日本にお酒が存在することを示す中国の歴史書魏志倭人伝』には、
「喪主哭泣、他人就歌舞飲酒」 喪主は大声をあげて泣き叫び、ほかの人たちはお酒を飲んで歌い踊る。
「父子男女無別、人性嗜酒」 親子男女の差別がなく、お酒をたしなむ。
とあり、卑弥呼の時代からお酒をたしなみ、歌い踊っていたということが書かれています。しかし、どんなお酒を飲んでいたかについては記載がなく不明だそです。
日本でお米を原料にお酒を作ったとわかる文献上の初見は、713年以降で『大隅国風土記」に、「口噛みノ酒」という米を原料とした酒の最古なのではと考えられる記述が有ります。
これは、加熱した米を口の中でよく噛んで、唾液に含まれる酵素で糖化させ、酒専用の容器に吐き入れておくと、野生酵母によって発酵が進み、お酒になるというものです。

日本酒は、神のために造られ始めたといわれ、口噛みの作業を行うのは、神社の巫女のみに限られていました。

巫女が口の中で醸す酒は、とても神聖なもであり、お酒の香りがしたころが飲みごろだったそうす。

お酒造りを「醸(かも)す」というのは、この「噛む」が語源だと言われています

奈良時代に編纂された『古事記:712年』や『日本書記:720年』には!

日本の最古の歴史書である『日本書紀』には、「木花咲耶比売命(このはなさくやひめ)が狭名田の稲で天坩酒を醸造した」という記述があります。

酒は神がもたらすもので、酒で酔うことは神の恵みだったようです (^^♪

そして、酒造りの起源をうかがえる古い記述も、

素戔嗚尊スサノオノミコト)が、ヤマタノオロチをお酒  (八塩折之酒:やしおりのさけ) で眠らせ退治する場面や、崇神天皇の記事の中には“ミキ”“ミワ”“ウマザケ”などの記述があります。

八塩折之酒の「八」は「たくさん」という意味で、八百万の神と同じ意味合いになります。「しお」は日本酒でいう熟成したもろみを搾った汁のことで、「おり」は何度も繰り返すという意味です。それぞれの意味から、八塩折之酒とはもろみを造っては絞り、また新しくもろみを造っては絞るということを何度も繰り返して造ったお酒ということになります。

八塩折之酒の原料は米ではなく、木の実や果実などを使用したのではないかともいわれています。米が使われる前から醸造の技術があったのか、その発祥地も謎のままです。

また応神天皇の記事の中には、大陸から酒造りのプロフェッショナルがやってきたというような内容の記述があります。

万葉集』では次のような歌もみられます。

この神酒は  わが神酒ならず  倭なす大物主の醸みし神酒 幾久幾久

この神酒はわたしが造った酒ではないく、倭の国を創られた大物主という神の醸された神酒で、幾世までも久しく栄えよ !

お酒を造ると、お酒は神前にそなえて祈り、その後村人たち全員で分けあって飲みました。神が愛でた酒を相伴することで、神と人、人と人との結びつきを強きした。

これは「神人共食(直会:なおらい)」と呼ばれ、現代でも地鎮祭などで見られる風習、現代でもこのような風習が残っている国は世界でも珍しいそうですよ。

奈良時代平安時代は、酒作りも朝廷の仕事であった !

稲作の定着とともに歩んできた日本酒の歴史は、奈良時代になると、原始的な方法から徐々に醸造技術が発達し、神々や天皇に捧げるため、日本文化を象徴する「国酒」として、日本酒が本格的に造られ始めたようです。
朝廷には宮内省の直属の部署として、お酒造り専門の部署『造酒所:みきのつかさ』が設けられています。
実際に平城宮跡の東側に井戸があり、この井戸周辺から発掘された木簡にはお酒に関する内容が多く記されています。また、長屋王の邸宅跡からも何種類かのお酒のレシピが書かれた木簡が出土しています。
すでに当時は、貴族たちが嗜むためや儀式などで使用するお酒は事前に必要な量が計画的に造られていたようです。

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冬の女王、クリスマスローズが顔を出した (^_^) 今年も受験シーズンが来ました!「合格の花」としても人気があります。

お酒は、古代より日本の祭りでは神に供えられ、神と共に人々が食する神饌の中で、神酒(みき)は欠かせないものであり大切な供物でした。

現代においても、お正月や、節分、お花見に、お月見と、季節の節目を祝ったり、結婚式の三々九度などの行事においも日本酒をいただくことは、特別な習慣でなく「当たり前の風景」で欠かせない存在となっています。

日本人とともに文化や歴史を育んできた日本酒、時には古代のロマンに想いを馳せ、日本酒をじっくりと味わってみるのも良いかもしれませんね。

11月23日 の勤労感謝の日に、宮中で行われる新嘗祭(にいなめさい)では、収穫されたばかりの新米を使って醸造した白酒(しろき)と黒酒(くろき)が供えられます。白酒は白濁した酒。黒酒は久佐木という植物を蒸し焼きして炭化させ、粉末にした灰を白酒に加えた黒灰色の酒です。

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冬の花 オキザリスの花 : 花壇の隅に咲く小さな花で、南アフリカ原産で乾燥に強い多年草です。
世界の酒は、いつ頃から、、

世界のあらゆるお酒の中で、最も古いとされるものが果実酒で、ワインは紀元前4,000年頃にはメソポタミア地方のシュメール人によって飲まれていたようです。

次に古いとされるのは、ビール。こちらも同じくメソポタミアで、紀元前3,000年頃にはつくられていたという記録が残っています。

そして、ウイスキーやスピリッツなどの蒸溜酒の登場は、これらに比べるとずっと遅くなります。最初の記録は、11世紀初めの南イタリアで、なんとそれは、医師の手によってつくられた医薬品用のアルコールだったそうです。

わが国固有の日本酒は、8世紀頃(奈良時代)に製造方法が確立されていました。しかし、当時は庶民が自由に飲めるものではなく、祭礼・正月・慶事などの際に飲むもでした。

ワインは16世紀中ごろ、ビールは18世紀初めごろ、ウイスキーが19世紀中ごろに日本へ伝わったとされています。

日本で初めてビールを飲んだとされる人の感想が「和蘭問答(1724年)」という書物に載っています。

そこには「麦酒給見(たべみ)申候処、殊外悪敷物にて、何のあぢはひも無御座候・・「ビールを飲ませていただきましたが、思いのほかまずく、まったくおいしいものではありませんでした」と記されており、ビールの苦さは不評であったようです。

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寒い季節を彩る パンジー花言葉は色により違いがあり、紫は「誠実」「思慮深い」 USAでは「You  occupy  my  thoughts」:「あなたのことで、頭がいっぱい」 

日本には、酒の神様が、、

酒神神社の中でも、大神神社(奈良)・梅宮神社(京都)・松尾神社(京都)の3つが「日本三大酒神神社」として全国的に有名です。

大神神社(おおみわじんじゃ、奈良県)、松尾大社京都市西京区)、梅宮神社(京都市右京区)は、特に酒造家から尊崇される酒の神様として知られています。

毎年11月初旬には、新酒の仕込みを前に醸造安全を祈願し、4月には醸造完了感謝のお礼参りに蔵元関係者や杜氏らが打ち揃って詣で、玉串を捧げます。

新しい年になり、何にか変わったことは ? ? うーーん 体重がふえたことかな !   高齢になると、体力とともにお酒の量も減り、年相応の適量を心がけることが、お酒と長く付き合う秘訣ですかな ?

皆さんは、何にか変わりましたか??

依然として、オミクロン株の感染力が強く (>_<) またまた何もかも中止、中止ばかりで悲しいく寂しい  (@_@)

今年こそは、普通の生活を取り戻し、平穏無事にと思い願っていましたが、先行きが見えない  (>_<) (>_<) ストレスがたまりますね (@_@) 

気象庁によると、今年は例年よりも冷え込みが厳しいく、桜はこの冷え込みにより、「休眠打破」今季は桜の開花は早く名古屋は3月18日と予想も、、併せてこんな予報も、2月中にはスギ花粉の飛散が始まるとも、春を待つのも悩ましい (@_@)

                              2月1日

 

初春 謹賀新年

新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の 

いやしけ吉事(よごと)

「初春の今日、この降る雪のように、良いことよ、いっぱい積もっておくれ……」  と『万葉集』20巻ある最終巻に、大伴家持が詠んだ、正月らしい歌です。

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南天は、平安時代に薬用、観賞用として中国から伝来し、難を転ずる→難転→なんてん、魔除けや火災よけの効果があり、鬼門と呼ばれる南西の方角に植えるとよいとされています。

他にも、難を転ずるという意味合いから、昔は、お年寄りが転ぶときに寄りかかることができる木として、トイレの近くに植えられていたようです。    <2021.12.27.撮影>

お正月は、家族がそろい過ごすことから「相睦び月(あいむつびつき)」「睦び月(むつびつき)」と呼ばれ、1月を「睦月(むつき)」と言われます。

ほかにも「寅月(いんげつ)」「元月(げんげつ・もとつき)」「霞初月(かすみそめづき)」「太郎月」など多くの異名があります。

f:id:marui-hall:20211215103732j:plain冬牡丹》

「わらぼっち」に包まれた「冬牡丹」

「冬牡丹」は春に咲く品種を冬に咲かせているので、寒さに弱く、「わらぼっち」などで覆われています。

「冬牡丹」と「寒牡丹」の違い

本来、牡丹は4月下旬~5月が見ごろですが、寒い今この時期に咲いている牡丹は「冬牡丹」や「寒牡丹」と呼ばれています。
青々とした葉を携えているのが「冬牡丹」で、春に咲く牡丹を温度管理などにより“春だよ” と思わせて冬に咲かせ茎や枝も青々としています。
(寒牡丹)
「寒牡丹」は、葉はなく花だけです。春と冬に咲く品種で、この時期に咲く寒牡丹は必要のないところには養分は送らなく花を咲かせることに全集中するので、葉がほとんどないそうです。

牡丹には、「百花の王」「花王」「冨貴草」「名取草」「二十日草」「深見草」など多くの別名があります。 日本が原産地だと思っている人も多いのではないでしょうか? 実は、牡丹の原産地は中国で中国の国花でもあります。

日本には「聖武天皇の時代に渡来した」とも、「7~8世紀に薬用として遣唐使空海が持ち帰った」とも言われています。 時期に関しては定かでないようです。 

しかし、清少納言の『枕草子』や藤原道綱母の『蜻蛉日記』などに登場することから、平安時代にはすでに牡丹の花を観賞していただろうと言われています。

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シクラメン花言葉: 白い花は「清純」 ピンクは「憧れ」 赤い花は「嫉妬」

ちょっと、お酒の話し、、 (^^♪

ビールのモダンさを好んだ 早逝の天才歌人 石川啄木 (1886 ~1921)

盛岡、北海道、東京を中心に、各地に建立された啄木の歌碑は100を超えるそうです。どんな環境においても短歌を詠み、呼吸をするかのごとく口からこぼれ出たそうです。そして、残した短歌の中にアルコールを詠んだ歌は71首もあります。

 しっとりと
  酒のかをりにひたりける
  脳の重みを感じて帰る   

                  『悲しき玩具』より

 酒のめば悲しみ一時湧きくるを
    寝て夢みぬを
    うれしとはせし    

                  『一握の砂』より

啄木が生涯愛し続けたのは日本酒ではなく、ビールだったそうです。 明治後期のことで庶民にはビールがまだ普及していなかった時代です。しかし政府高官など富裕層の間では、よくビールが嗜まれていたようです。
キリンホールディングス」のホームページにば、小松帯刀榎本武揚福沢諭吉大久保利通の他、幕末から明治にかけて活躍した人物が好んで飲んでいたことが記されています。
江戸後期の蘭学者高野長英は彼の著書『救荒二物考』の中でビールの醸造法が記載があります。
《 ビール広告に触発された啄木、評論「食ふべき詩」》

啄木は、終焉の地となる東京の電車内で「食(くら)ふべきビール」と記された「キリンビール」の広告を目にし、この文句に触発された啄木は、1909(明治42)年12月、「食(くら)ふべき詩」と題した評論を『東京毎日新聞』に発表する。しかし創作活動を全うすることなく、発表から3年後の1912年(明治45年)4月、啄木は26年のあまりにも短すぎる生涯に幕を降ろす。

今年はどんな夏になるのだろうか?  ビヤガーデンがオープンし、仲間と夜空の下で、カンパーイ! と盛り上ったりしたいですね!  大声もだめ !  ダメ !ダメ ?? 
今年こそ仲間と豪快にジョッキーで飲みたいね !カンパイー~~ (呑み助の初夢
 
新しい年を迎え、 一度は収束に向かいつつあったコロナ感染、しかし、新たな変異株「オミクロン株」により、今しばらく「忍耐のとき」が続き、どんな年になるのか予測ができないですね?

しかし、時は悠久に流れすぎ待ってはくれません! どんな年に成るかでなく、どんな年にしようかが大切ですね! 

普通の生活を取り戻し、、今年こそ 中日ドラゴンズが優勝! コロナが収束! そん「夢」をかなえたいですね ! 

本年も宜しくお願い致します  2022.1.1.  Marui
 
 
                                 
 
 
 
 

12月 師走

かくしつつ今年もくれぬと思ふより  まづ歎かるる冬は来にけり

  詠み人 藤原定家
こんなことをしながら今年も暮れてゆくのかと思うが、それよりもまず嘆きたいのは冬がやってきたことだよ !

坊さんも走る「師走」!  大掃除など大変に忙しい12月ですね (^^)/ 

この1年間コロナで始まり色んな事がありました! 東京2020 五輪・パラリンピック開催、コロナ感染拡大 無観客の中で、アスリートは素晴らしい大活躍に感動し!それを支えるボランティアの笑顔も素晴らしかったですね  (^^♪ 国の舵取りを託す衆議院解散選挙、結果は自民の派閥抗争が表面化しいつもと変わらなく残念 ! 

コロナ禍、岸田内閣が船出、日本のリーダーとして舵取りを期待しましょう (^^♪

11/24 中日新聞に、黒人として初めて米軍制服組トップの統合参謀本部議長になった、コリン・パウエル国務長官が亡くなられた。誤った情報でイラン戦争開戦に導く国連で演説し、それを悔やんで正直に告白をしましたことは、よく知られています。

明治の初めに来日した外国人が、日本人の正直さに驚いたと有りますが、最近の日本の政治家をどうでしょうか??  日本も正直な国であってほしいですと投稿が !

国民を裏切る政治家、偽りの政治は無くしたいですね!  (@_@)

信楽焼で知られる滋賀県 甲賀市 で、来年の干支「寅」の置きもの作りが最盛期、新型コロナウイルスを吹き飛ばす厄除けとして、来年こそ良い年と願い  (^^)/  年末までに 1万個を作るそうです! 中日新聞・11/10に>

皆さんどんな1年だったですか ?

コロナ禍で「不要不急」自宅でテレビ観戦ばかり? 

NHK 大河ドラマ「青天を衝け」コロナ感染拡大で放送開始が2月14日でした。

そして東京2020五輪で 5 回分休止もありました

12月に入りドラマは、いよいよクライマックスを迎えますね!

武蔵国 血洗島村で養蚕と藍玉作りを営む農家の長男として生まれた渋沢栄一実業界へと⾶び込んだ官と⺠、国と国、すべての⼈が⼿を取り合うため、挑戦を続け新政府を辞め、実業界の先頭をひた走る!「日本を守る」という強い意志を胸に世界へ飛び出していきます、、、

幕末から明治を駆け抜け日本資本主義の礎を築いた渋沢栄一の生涯を描いたドラマ ! いよいよ12月26日に全41回で最終回です。

渋沢栄一は、銀行はじめ約5000もの企業を育て、また鉄道・電機・ガスなど約600の公共事業にも関わった明治の偉人です。

2021年9月1日 に渋沢栄一肖像の新一万円札の印刷が始まりました。裏には東京駅舎が描かれています。 2024年(令6年)前期に発行予定です。

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 ツワブキの名の由来は、艶葉蕗(つやはぶき)艶のある葉を持ったフキから転じた説、また、厚葉蕗(あつはぶき)厚い葉を持ったフキからとの説も、地方により、ツワイ・シブキ・ツワンポ・オカバス・オバコと言われ、沖縄では「ちぃぱっぱ」とも!

来年のNHK 大河ドラマは、「鎌倉殿の13人」

2022年の大河ドラマの舞台は鎌倉時代。華やかな源平合戦後、鎌倉幕府誕生を背景に権力の座を巡る男たち女たちが、鎌倉を舞台に駆け引きをめぐり繰り広げられる!

三谷幸喜脚本・「新しい大河を作りたいとの思いで、こんなタイトルは今ままにないだろうとの思いで付けました!

f:id:marui-hall:20211122085800j:plain <画像はネットより>

鎌倉殿とは、鎌倉幕府の将軍を意味します。他にも、鎌倉幕府の棟梁(とうりょう*軍事貴族のこと)や、平家物語では源頼朝鎌倉幕府自体を意味する場合もあります。

そして13人とは、鎌倉幕府の将軍を補佐する家臣のことです。

ドラマは、

初代鎌倉殿 将軍、源頼朝が天下を取りになれた背景に、13人の家臣たちの支えがありましたが、源頼朝が突然死んだため、息子の源頼家が18才という若さで2代将軍 鎌倉殿に就任します。父が残した有能な幕府吏僚を率いて、武家の棟梁として、「親父を超えるぞ!」と今までの習慣を無視し傍若無人に独裁的な振舞いで暴走する。

それを止めるために13人の家臣たちは「これからは合議制で全てを進めよう」と、日本の歴史上初の合議制で政治を動かす十三人の合議制が誕生します。合議制成立の3年後に源頼家は将軍職を剥奪され伊豆 修善寺に幽閉された後、暗殺される。享年23歳であった。

そして、13人は激しい内部抗争を繰り返し、最後まで生き残って権力を手中に収めたのが、十三人中で最年少だった北条義時です。(役・小栗旬さんです)頼家死去により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握る事になる。

そして物語は、北条義時がいかにして武士の頂点に上り詰めたかを描がかれます!

平家隆盛の世、北条義時は伊豆の弱小豪族の次男坊に過ぎなかった。だが流罪人・源頼朝と姉・政子の結婚をきっかけに、運命の歯車は回り始める、、

いよいよ、2022年 1月 9日 午後8時からの放送です !

三谷幸喜 脚本 どんなドラマになるか楽しみですね !

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まっかな実をつけた千両! 正月の縁起物として人気の高い植物です。センリョウは千両の意味で、万両や、百両も、そして十両(やぶこうじ)も有ります (^^♪

源頼家が18才という若さで、二代将軍 鎌倉殿 となるが 吾妻鏡によれば、有力御家人に権限を制約されて政治に関与できず蹴鞠(けまり)に没頭し、遊興にふけり家来の愛妾を寝取るなど、傍若無人な振舞いで母政子の怒りを買い、挙句の果てに将軍職を追われ伊豆の修善寺に幽閉されて暗殺される。そのため「暗君」として描かれている。

吾妻鏡」が作った「暗君」説と、11月15日 中日新聞 夕刊に!

「暗君」とは、北条全盛期の鎌倉後期に編纂された「吾妻鏡」によるもので、北条氏の立場から事実に潤色・改ざんが加えられたことは判明している歴史書・「吾妻鏡」の描く人物像であり、近年その矛盾など頼家像をみなおす研究が進んでいると記載!

源頼家は、鎌倉時代の1182年8月12日に生まれで幼名は源万寿と言いました。父は鎌倉幕府を開いた初代鎌倉殿 将軍 源頼朝で、母は北条正子です。

「鎌倉殿13人」ではどう描かれるか、源頼家を演じるのは金子大地さんです。

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ジンジャの花も咲きました (^^)/ ジンジャーいうと食用の生姜の方が馴染みがあると思いますが、切り花でジンジャーというとショウガ科 ヘディキウム属の植物です。
もう少し源頼家について、
伊豆 修善寺には、頼家の伝承が数多くあります。
修善寺に幽閉され、妻子を想い月夜の晩に物思いに耽った場所であり、近隣の子供たちと付近の山々を走り回って遊んであげていたそうです。村の子どもたちとの交流など、北条氏の影響多大とされる歴史書吾妻鏡』からは想像できないような、繊細で心優しい好青年と思われる。
しかし、その生活は一年も持たず、元久元(1204)年7月18日に、北条氏が送りっ込んだ刺客と壮絶な戦いを繰り広げた末、享年23歳(満21歳)の若さで暗殺される
頼家の悲惨な最後
吾妻鏡」には源頼家の最期が書かれていませんが、「愚管抄ぐかんしょうという史料には頼家の最後の様子がバッチリ描かれています。 7月18日、修善寺に北条氏の刺客が送られ源頼家を襲撃。ちょうど頼家は入浴中で必死の抵抗をしますが、首を絞められ、金○を切り取られた後、首をはねられた・・・・と言われています。 悲惨 (>_<)
頼家の死後に、地元の有志で将軍愛童地蔵尊が立てられています。
修禅寺には、頼家のものと言われる木彫りの面が伝わっていて、世間ではその壮絶な最期が伝承として語られるようになったようです。

f:id:marui-hall:20211124114155j:plain画像はネットより

悲劇的な死を遂げた源頼家は、静岡県伊豆市修善寺にある曹洞宗の寺院・修禅寺に眠っています。修善寺温泉街では、毎年7月には頼家祭りが行われています。

幽閉の地でこれだけ愛されているのを考えると、吾妻鏡の記述は頼家を陥れたことの正当性を持たせるための誇張も多分にあるのかもしれません ?  
修禅寺物語とは、

禅寺を訪れた小説家・劇作家の岡本綺堂氏(おかもときどう氏*872~1939年)は、源頼家の面(おもて)だという木彫の仮面を目にします。 作人も知れず、由来も知れない、古色蒼然(そうぜん)たるもので一種の詩趣を覚え、当時を追懐して書いた戯曲が『修禅寺物語』です。

1911年(明治44年)、東京明治座で、二世市川左団次の主役(夜叉王)で初演され、映画にもなり好評を得た。

歴史には真実があります。時として色んな見方があり 歴史書・「吾妻鏡には「暗君  頼家」と記述! まさに時代により正反対に成り得る評価も、これも事実か!

12月、、この時期になると訃報で新年の挨拶を辞退とのハガキが届き、驚いたり!悲しくなったり! 特に仲間の訃報は、何か人生を追立られるようで寂しく感じます。 

中日新聞に、1962年に単独無寄港の太平洋横断に挑み成功した堀江健一さん、83歳になった「太平洋ひとりぼっち」は 60年前の快挙です。

そして今新たな挑戦に! 米サンフランシスコから兵庫県 西宮市ヨットハーバーを目指す!「嵐をのりこえ また次の嵐を受けると だんだんと強くなっていく自分がいる」人間は目標を持つことで充実した人生が送れると、冒険心の帆は降ろさないと!

また、来年こそ「笑門」と伊勢志摩でしめ縄つくりが最盛期!マスク姿で疫病を除き福を招くとされる「蘇民将来子孫家門」「笑門」と書いた木札、ヒイラギの葉を飾りのしめ縄作りなど、25種類 2万5千個・蘇民の札でこのままコロナ ウイルス追い払いたいと願い作成に! 中日新聞11/23 記事に!

                              12月1日 Marui

 

11月 霜月(しもつき) November

ついこの間まで夏みたいな暑さだったかと思えば、昨今は急に冷え込んできましたね!北海道では10月17日に 初冠雪、通りを歩く人の服装も厚着になり、季節の移り変わりが感じられます。

11月23日 は、祝日  勤労感謝の日です

1948年(昭和23年)に勤労感謝の日として制定されまた。 今から73年ほど前に法律で 「勤労を尊び、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう日」 として祝日になりました。

 実は、「勤労感謝の日」は、もともと働いている方に感謝することを目的にしたわけではなく、新嘗祭(にいなめさい) という五穀豊穣を感謝しお祝いする日 でしたが、戦後のGHQ占領政策により勤労感謝の日」と改められました。

収穫をお祝いする日だった「新嘗祭」が、なぜ「勤労感謝の日」に変わったのでしょうか? それは戦後、GHQの考えにより天皇が関わる「祭日」は、「祝日」として取り扱わなくなり廃止となりました。
ちなみに「勤労感謝の日」という名前になったかは、様々な説があります。
その一つに、アメリカの祝日が関係しているという説があります。
アメリカで11月の第4木曜日に祝われている感謝祭を意味する ”Thanksgiving Day”
アメリカの9月第1月曜労働者の日を意味する ”Labor Day”
この2つを合わせて作られた「Labor Thanksgiving Day」を日本語訳し、「勤労感謝の日」となったのだそうです。

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ホトトギスユリ科ホトトギス属 多年草です。 日本固有の花で、夏の終わりから秋にかけて斑点模様の花を咲かせます。花言葉は「永遠にあなたのもの」「秘めた意思」

新嘗祭」という言葉を聞いたことがありますか?

ひと昔前まで日本人にとって非常に重要な日でした。しかし、戦後は「勤労感謝の日」と名を改められ、昨今は「新嘗祭」についてよく分からないという世代も増えてきていますね !
新嘗祭は、「にいなめさい・しんじょうさい・にいなめのまつり」と読み、「新」は新穀、「嘗」は奉る、舌の上にのせて味をためすという意味で、「新嘗」はその年に収穫された新穀を神様に奉って恵に感謝し、口にすることを表しています。

新嘗祭は、宮中祭祀のひとつで大祭です。また、天皇がその年に収穫された新穀(主に米)などを天神地祇(てんじんちぎ)に供えて農作物に感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとして自らも食する儀式です 。

飛鳥時代皇極天皇以前から行われていました。平安末期には衰え途絶えていましたが、江戸時代、東山天皇のときに復活しました。元々は民間で広く行われていた行事だったようです。人々が、その年の収穫を祝い、感謝したお祭だったのでしょうね。古代に国家が統一されて、祭儀が天皇を中心とする宮中行事へ集約されたため、この新嘗祭も宮中の儀式のひとつになったようです。

新嘗祭の歴史は古く、『日本書記』には飛鳥時代に行ったという記述があり、古くから天皇家に伝わる伝統行事の日です。今日でも、毎年11月23日に宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる 。同じ日に全国の神社でも行われています。

日本書紀』巻第十一   大鷦鷯天皇 

とし、新嘗の月にあたりて、宴会とよのあかりの日を以て、おほみき内外命婦ひめとねたま

とあります。新嘗祭の儀式の中に弥生時代に起源を持つと考えられるものがあるため、その原型は弥生時代に遡るという説もあります。

古くから日本人の暮らしに深く結びついていたお米と稲は、古典文学の世界でも頻繁に登場しています。
平安時代に編まれた、現存する最古の歌集「万葉集」にも稲や農作業を詠んだ歌が多くあります。

万葉集 第八巻 1567 大伴家持

天平8年(736)9月に大伴家持が詠んだ秋の歌(4首)のひとつです
雲隠(くもがく)り 鳴くなる雁(かり)の 行きて居む 秋田の穂立(ほたち) 繁(しげ)くし思ほゆ
雲に隠れて鳴いている雁が降り立った秋の田の稲穂が繁っているように、あのひとのことがしきりに思われます。

第16巻 3848 忌部黒麻呂 (いむべのくろまろ)
あらき田の 鹿猪田(ししだ)の稲を 倉に上げて あなひねひねし 我(あ)が恋ふらくは
新しく開墾した、鹿や猪が荒らす田でとれた稲を、倉に納めましたが、長い年月がたち、お米が古くなるのと同じように私の恋も古くなってしまいました。

万葉集」とは、7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された全20巻・約4500首の日本に現存する最古の歌集です。成立については不明な点も多いのですが、大伴家持が最終的な編集に大きな役割を果たしたと考えられています。主な歌人は、額田王柿本人麻呂山上憶良大伴旅人大伴家持などです。

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秋の風情を感じさせる優雅な花 「シュウメイギク」古い時代に中国から入り、京都の貴船地方に野生化したものが見られ、キブネギク とも言われます。

お米のルーツは?

日頃 気にもしないで、当たり前のように食べてるご飯ですが?

お米(イネ)や 稲作技術の伝播経路には数多くの説があり、原産地はインド、中国、ビルマ、タイで中国の「江准地帯 (長江・准河の間) から朝鮮半島南部を経て伝わった」「長江下流部から直接九州に伝わった」などと言われています。

日本には、紀元前1世紀、弥生時代に伝播して定着します。そして、稲作文化の発展に伴って「定住社会」が始まったとされています。

日本で一般的に食べられているお米は、「アジアイネ」のうち「ジャポニカ米」で、他にアジアイネにはインディカ米があります。短く円形に近い形状と、炊くと粘りとツヤが出るのが特徴です。

ジャポニカ米の起源は中国の「福建米(ふっけんまい)」だったと考えられおり、中国の「長江」の中〜下流域で栽培されていたものが、縄文時代に日本に持ち込まれたとされています。

いずれにせよ、大陸から東シナ海を通じて日本に渡ったことは間違いないと考えられています。

観光客や写真愛好家が「奥播磨かかしの里」にふるさとの原風景を求め、多くの人がが訪れます。 (写真はネットより)

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むかし 田畑に立てた案山子は、鳥獣がその臭気を嫌って近づかぬよう、獣肉や毛髪などを焼いて竹などに付け立てた。「かがせるもの」の意で「かがし・かがせ・おどし」と言われました。

縄文・弥生時代飛鳥時代

約3,000年前、縄文時代後期には大陸から稲作が伝わっていたことが分かっています。その前は、トチ・ナラ・クルミ・クリ・カシなどの堅果類、つまりドングリを食べていました。

さらに数百年後と考えられる、福岡県の板付(いたづけ)遺跡 や 佐賀県唐津市の菜畑(なばたけ)遺跡などから、炭化米や土器に付着したモミの圧痕、水田跡、石包丁、石斧といった農具、用水路、田下駄等が発見されています

これらは日本における水田稲作の証拠と考えられています。

板付遺跡や菜畑遺跡は、きちんと整備された形で水稲耕作が行われていたらしく、同時代の稲作を行った痕跡のない遺跡とは孤立した状態で発見されています。

つまり、大陸で稲作を行っていた集団が稲作技術とともに日本に渡来し、稲作を行っていたと考えられています。この頃は、米を煮て調理していて、今で言う「お粥」が食べられていたようです。

弥生時代になると、稲作技術は急速に日本列島を東へ伝播されていきます。もっとも有名なのは 静岡県登呂遺跡で、田下駄、鍬、鋤、農耕具、堅杵などの農具が発見されました。

北九州〜東海地方にかけて同じような土器文化が見られていますので、200〜300年くらいで急速に稲作技術が普及していったことが推測されます。

弥生時代の中期には、青森県南津軽郡の 垂柳遺跡 でも水田跡が発見されたので、北海道を除く日本列島の広範囲で水田耕作が行われていたと考えられます。

弥生時代に入るとお米を蒸して調理して食べるようになり、これは「強飯(こわめし、こわいい)」と呼ばれ、主食がそれまでの堅果類から米に代わる転換期だったと考えられています。

こうして米の普及と伝播によって、養える人口が増え、日本人の栄養状態も良くなり、体格も良くなった!

米は他のどの栽培植物よりも収穫量が多く、米を持つものは富と権力を非常に早く持つことができ、これにより、古墳時代ごろから徐々に地域国家から中央集権国家へと移行し、このことにより貴族と庶民との格差も開いていきました。

「米」は田に対する税として納められるものになっていった !

奈良時代平安時代

奈良時代になると、白米は一般的な主食となりました。そのことを示す木簡が都跡から出土しています。ただし、これは貴族の間のみのことで、玄米をついて精白した「白米(しらげのよね)」というお米は、身分の高い人の間だけで食べられていました。

庶民はもっぱら「黒米」と呼ばれた精白度の低いうるち米を食べていたようです。時にはアワやヒエと混ぜて食べることもあったが、玄米は食べていませんでした。

現代と同様の主食と副食というスタイルは、1日2食ではあるものの、既に奈良時代に「常食」として確立していました。

ごはん(米)を主食に、汁物とおかずがそれぞれ一品ずつという一汁一菜が基本で、おかずは多くて二〜三菜でしたが、貴族の宴会などでは多くのおかずが並んでいたようです。

平安時代の貴族の食膳は、高杯に高盛りのごはん、まわりにおかずのお皿を並べる「おもの」と「あわせ」というスタイルでした。この「あわせ」の数が多いことから「かずもの」と呼ばれ、やがて「おかず」と呼ばれるようになり、おかずが少量でも種類が多いことに重点を置いていたと考えられます。

逆に、庶民はおかずの品数を少なくする代わりに主食と漬物の量を増やし、味噌汁を添える暮らしでした。この傾向は第二次世界大戦前まで続きます。

平安末期ごろから、鉄や高温で焼いた陶器や瓦器の釜が普及してきて、お米を「炊く」ようになり、炊いたお米は柔らかいので、「強飯」に対して「姫飯(ひめいい)」と呼ばれるようになりました。

鎌倉・室町時代〜江戸時代

鎌倉時代室町時代には、牛馬耕や二毛作の技術、水車などを利用した灌漑施設の整備、肥料の発達などで収穫高がアップします。当然、大量の人手が必要になったことから、村の共同生活が組織化され生活様式に変化が生じていきます。

また用水量が少ない場所でも栽培可能なイネを「陸稲:おかぼ」と呼び、栽培され始めたのは鎌倉時代中期です。

江戸時代中期になると、従来は見られなかった分厚いふたをつけた釜が普及し、美味しい飯の炊き方が定着します。

新米、古米によって水の量を加減し、「初めチョロチョロ、中パッパ、赤子泣いてもふたとるな」という現代まで伝わる美味しいお米の炊き方がこの頃とされています。

そして、1日3食の習慣も定着してかなり現代に近い食生活が定着します。

明治・大正時代〜現代

明治になり税の徴収が米からお金に変わります。 

大正10年(1921)日本で初めて国立農業試験場で、人工交配による品種改良で作られた米・水稲「陸羽132号」が誕生しました。

農学校で教鞭をとっていた詩人宮沢賢治も「陸羽132号」の普及に努めたとされています。

現在、日本でもっとも流通している農林100号「コシヒカリ」は、昭和31年に生まれました。品質や食味に優れ、当時もっとも深刻な病気だった「いもち病」に強かったため、各地で生産が進み、昭和54年以降は30年以上連続で作付け面積第1位を誇っています。

その後もお米の品種改良は進み、2019年現在、国に品種登録されているもので500種類、そのうち主食になるごはん用として作られているものだけでも271種類もの品種があります。

お米は、世界的にみてコムギに次いで生産量が多く、世界人口の約半数が主食とする重要な作物です。脂肪、蛋白質、炭水化物などを含み、日本人は古くから不足しがちな蛋白質をこの お米(イネ)から摂取してきました。

古代を彷彿する棚田風景 ! 「丸山千枚田」日本の棚田百選 (ネットより)

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三重県熊野市紀和町丸山地区の斜面に幾重にも描かれた棚田で、 この棚田がいつ頃造成されたかは不明ですが、西暦1601年(慶長6年)にはすでに2.240枚の田があったという記録があります。しかしながら、昭和40年代半ばから始まった稲作転換対策による杉の植林や昭和50年代以降の過疎・高齢化による耕作放棄地の増加によって、平成初期には530枚までに減少してしまいました。

日々、美味しいお米の品種改良、研究がされていますので、ぜひ自分の好みのお米を見つけ、食文化を豊なものにしてください。

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138タワー コスモスが咲き誇っていました! (10.23撮影)

現代でも、ピクニックや遠足などには「おにぎり」はなくてはならないアイテム、何時からあったんだろう?

1800年弥生時代後期(2世紀後半)の石川県杉谷チャノバタケ遺跡からおにぎりの化石と思われるものが発見されています。

古墳時代後期(6世紀前半)の横浜市の遺跡からは、おにぎり弁当と見られる化石が発見されているので、その歴史はさらに古いと思って差し支えないです。
おにぎりは、日本の稲作の歴史とともに歩んで来ました。

おにぎりの文献上の起源は、平安時代の「頓食(とんじき)」という食べ物とされています。

「頓食(とんじき)」は、宮中や貴族の宴会の時に、庭上で下仕えの者に配られた弁当で、鳥の卵に似ていることから「鳥の子」という別名もあり、『源氏物語』の桐壷の巻などにも登場しています。

戦国時代になると、おにぎりは、武士が戦いには無くてはならない携帯できる「兵糧食」として用いられ、江戸時代と多くの戦争につながって現在においても「おにぎり」の歴史は引き継がれています。

現在のようにおにぎりが海苔で巻かれ始めたのは、江戸時代中期、元禄の頃。加工された四角い板海苔が「浅草海苔」などの名称で、一般的に売られるようになってからといわれています。それまでのおにぎりは、今の塩むすびに近かったようです。

そして、「おにぎり」は、現代と同じように畑仕事に出る際や行楽の弁当、旅のお供の「携帯食」として「おにぎり」は日本人にはかかせない米文化の役割が果たされていますね!

「ねじりほんょ」とは、

宮城県宮城県栗原市地方では、刈り取った 稲 を稲杭(いなぐい)にかけたもので、栗原の雨が降ったり止んだりで稲がなかなか乾かなかった地区では、風通しを良くして早く乾くように稲をずらして干したので、ねじれている。 そのことから ねじり ほんにょ と呼ばれている。

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栗原市のマスコットキャラクター「ねじり ほんにょ」2014年に誕生!

お米屋さんの店頭に新米が並ぶ季節ですね! 

ななつぼし」は北海道 「銀河のしずく」は岩手県 「ひとめぼれ」は福島県 「あいちのかおり」愛知県  、、いずれも各地の農家さんが手塩にかけた、いずれ劣らぬ特Aランクです (^^♪ しかしコメ離れが止まらない日本!

岐阜 飛騨に新種の稲が発見! 2000年秋の昼下がり、稲の生育を確認するためにコシヒカリの田んぼの見回りをしていたとき、とびぬけて背の高い変わった稲があり、 その稲をよく見ると籾(もみ)は他品種の1.5倍ほどの大きさでした。

のちに水稲品種、龍の瞳「いのちの壱」と命名される最高級の新品種の発見でした

コメの消費量はこの六十年でほぼ半減  (>_<) 「青天の霹靂(へきれき)」とは青森県の銘柄ですが! コメ離れ、青天を突如切り裂く稲妻のような名案はないものか ?? コメ文化はどこにへ行くのか??

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マンデビラの花(サマードレス)ブラジルの森林地帯に自生す、夏の暑さに強いです

勤労感謝の日は、本来は「祝日」ではなく「祭日」でした。それでは、祝日と祭日は、一体どこが違うのでしょうか?

「祭日」というのは、その字の通り、神道のお祭りを行う日のことです。一方、「祝日」というのは、法律で決められている「国民の祝日」のことです。

もともとの祭日は、11月23日のほか、1月1日のお正月、2月11日の建国記念の日春分の日秋分の日、そのときの今上天皇の誕生日などが該当します。

戦後、「祭日」という言葉は使われなくなり、「祝日」に統一されています。カレンダーや営業時間の案内などにも、「祝日」とあるはずです。

でも、「祝祭日」といった言葉が使われることもありますね! 祝祭日を単なる休日のひとつとしてしか認識せず、何気なく使用しいている人も多いですね! しかし、祭日には歴史的な由来があります。どのような日なのかを知っておくことで、感じ方も変わるのではないでしょうか ?

今年の勤労感謝の日は、ただなんとなく過ごすのではなく、ぜひ意味を理解した上で充実した1日を過ごしてください。

                                                                                                             11月1日