「四季」 折々に思いつくまま!

いつも元気で、笑顔で、楽しい 「好々爺」です <ASC23期生>

「遅咲きの花」

青葉から柔らかな光がもれ、心地よい風が吹き気分のいい季節になりました。 中日新聞(5/12)に、伊能忠敬(ただたか)没後200年の記事を読み、小学校で日本地図を歩いて創った偉い人だと記憶している程度で、隠居した五十五歳から実測による日本地図製作に着手し日本地図を完成させたとある。その偉業に、その人生に驚嘆した。(^^♪

f:id:marui-hall:20180517091919j:plain <ネットより>

今なら人生百年時代と言われますが、人生50年と言われた昔に伊能忠敬は五十歳を過ぎて家業(作り酒屋)を離れ、勉強のため家を出ると言いました。周囲から「そんな歳になって測量なんてやめてくれ!」と反対されたが「わしは51歳になったばかりだ」と言い、年下の学者(高橋至時:よしとき :32歳)に弟子入りした。

彼は余生はいらないと言ったそうです。すなわち自分のやりたい事をすると言う意味だと思いますが、スゴイですネ!

寛政12年から文化13年まで、足かけ17年(55歳~72歳)をかけ日本全国を測量して、『大日本沿海興地全図』を完成する。

どのような方法で測量を (?_?)  第一次測は、忠敬 55歳(1800年蝦夷地へ、 弟子2人、下男2人、測量機材を運ぶ人足3人、馬2頭で、測量は一定の歩幅(70Cm)になるよう歩き方を訓練し、複数の人が同じ場所を歩いた平均値から距離を計算する方法で、毎日40Kmを移動したと言われその脚力に驚かされる。蝦夷地帯は117日間を要した。帰宅後に3週間をかけて地図を完成した。

1800年(寛政12)4月19日は、 蝦夷地に出発した日を記念し「地図の日」です 》

翌年(1801年)第二次測量を伊豆から太平洋北端の尻屋崎まで、230日間をかけ一間(180Cm)ごとに印をつけた縄を利用し測量する。

《 自宅を観測所に改造し金星の子午線経過を観測、子午線一度の距離を28.2里と導き出す 》

この後、測量は1815年までに第10次測量まで続き、地球1周分4万キロに相当する距離を歩いたそうです (@_@;)  また測量隊は時に100人以上になることもあったそうです。

* 地図は306,000 /1 の大図が214枚 ・  216,000 / 1 中図が8枚・  432,000 / 1が3枚という、途方もない規模であった。測量日記は51冊に達した。

* 測量が終わった時には、苦労が厳しく自分の歯は1本だけだった。

*測量の時は、刀は「竹光」だった、真剣だと磁石が狂うから!

間宮林蔵が弟子となり、測量に協力しました。

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     千葉県香取市 佐原公園にある伊能忠敬銅像 <ネットより>

今年(2018年) 没後200年(1745~1818年)香取市佐原町では記念行事が、(^^♪

なぜ、地図はすべて北が上なの (?_?) 方角を示す一番正確なのは星をつかって測量することです。どこから見てもほとんど動かない「北極星」を基準に方角を合せて、地図を見ることが出来ることからです。

最近のNHK番組「ブラタモリ」: タモリさんが色んな場所を案内する楽しい番組です。タモリさんは大変地図マニアで「月刊測量」も読み、日本坂道学会の副会長も務められ、地図大好き人間だそうです。

伊能忠敬の格言>

「人間は夢を持ち、前え歩き続ける限り余生はいらない」

                                 5/17 Marui