「四季」 折々に思いつくまま!

いつも元気で、笑顔で、楽しい 「好々爺」です <ASC23期生>

「民のための政治改革 米沢藩 上杉鷹山公」

今日から師走! 暑かった夏、日本列島を襲った幾つもの台風による大被害、北海道の胆振(いぶり)震度7地震・大停電、竜巻と地球が壊れたかとも思うような異常気象、 政治もアメリカ・トランプ大統領のつぶやき(ツイター)一言で世界の経済も混迷? 日本の政治もどこに向かって行くのか? 平成はあと6カ月で新しい年号に、その10月には消費税 UPとは! (>_<)

 『なさば成る なさねばならぬ 何事も 

        ならぬは人の なさぬなりけり』

J・F ケネディビル・クリントンアメリカ大統領に『もっとも尊敬する日本人政治家』と言われた、江戸時代の米沢藩上杉鷹山公の名言です。

上杉鷹山は、借金にまみれた米沢藩の9代藩主になったのはわずか17歳の時で、一生かけて取り組んだ身を切る緊縮策改革、50年以上かけて16万両のの借金を完済した。しかし家来の反乱などを乗り越え改革が成し遂げられたのは、七十二歳で世を去った後のことだったという。《常に民のための政治、一生かけて取り組んだ身を切る改革へ意志に感服!》

《時代背景》

越後は上杉謙信を祖とする代々上杉家が治めていた。謙信没後、上杉景勝の治世となり120万石を誇っていたが天下分け目・関ヶ原の合戦では徳川家康に降伏すると、出羽国 米沢藩に15万石に減移封される。お家取り潰しは免れたもののあまりにも凋落ぶりであった。上杉家の財政事情は最悪で、借財は16万両(今に換算 160億)に累積する一方、困りはてた8代藩主上杉重定は幕府に領地の返上することを検討する始末、そんななか、第9代藩主に上杉治憲(鷹山)が家督を継ぐことになるが、、、

しかし、上杉家は名門の誇りを捨て切れず、初代藩主 景勝 120万石時代の家臣5000人を召しかかえ人件費だけでも膨大で、贅沢な暮しも改めることなく深刻な状態であった。わずか17歳の9代藩主となった鷹山に破綻寸前の藩の運命を託される。

f:id:marui-hall:20181125162339j:plain 画像はネットより

鷹山は自ら改革に挑む、先代の家老らと厳しい対立の中、江戸仕切料(江戸での生活費)1500両を209両に減額、七分の一に倹約して衣服や食事、本などをまかなう。

そして鷹山自信も米沢での日常生活費は、衣食は下級武士以下の質素さを貫き、日常の食事は一汁一菜、衣服は絹でなく綿で作られたものだけで、奥女中を50人から9人に減らし倹約をした。大名行列の人数も減らす。

民にも「大倹約令」をだす。雪深い米沢藩には特産物もなかったが、米沢織や笹野一刀彫・米沢成島焼などの開発を奨励、また農業生産にも力を注ぎ藩士に対しても「武士も耕せ」と田畑の開発を促す。

江戸時代にあって兵農分離の時代であるが、武士も農業に就かせるという前代未聞の農業改革、下級武士たちも新田開墾に1万3千人の従事動員する。

 こんな逸話が!

ある日、干した稲束の取入れ作業中に夕立雨が降り困っていた老婆を二人の武士が助けてくれた。お礼に後日餅を持参いたいと言ったところ、招かれたのは米沢城であり、渡す相手こそ鷹山であった。《殿様が稲の取入れを手伝うなど普通では考えられないが、これが鷹山という男で、いかに領民に寄り添った姿勢であったが分かりますね!》

上杉家に仕える家臣には財政破綻に近い状況にもかかわらず、鷹山が若く3万石の小藩から来た養子であるこを侮って、倹約どころうか不要なプライドが強く格式ばかりを重るばかりで反鷹山との戦いに苦慮する。まさに「上杉」のプライドを捨て、さらなる改革を進める矢先、

「武士に農業をさせるとはと、鹿と馬とするような鹿馬げた行いだ、、、」と上杉家に仕えてきた名家の7人が訴状にて、改革が性急すぎると中止を迫る「七家騒動」がおきる。

しかし、鷹山が下した処分は、5人を隠居・閉門、2人は切腹、そして裏で策略した儒学者 藁科立沢(わらしな りゅうたく)は斬首とゆう厳しい処分をくだす。23歳の鷹山は断固たる意志で抵抗勢力を一掃する。

さらなる改革のさなか、天明3年には浅間山が噴火し「天明の大飢饉」、 大事業に挑むが失敗が重なり多額の借金がかさみ、16年間の改革の成果はほぼ水泡に帰し責任を負うて藩主を引退し隠居する。 とき35歳であった。

先代の重定の実子治広に譲るが、鷹山の隠居後から5年、藩の借金は鷹山就任時の倍の30万両に膨れ上がる。

鷹山、復帰を願う声にこたえ政治の舞台に戻ることを決意!すべての家臣を城に集め、藩の借金を公開し危機意識を共有し、「上書箱」を設け藩士だけでなく農民や町人すべてての者から意見を受け付けると宣言する。米沢藩の支出を明確にするために帳簿の作成など実行する。

強政策による改革の失敗を踏まえ、無数の意見を元に決めたのが、寒い米沢風土にあった養蚕業・絹糸・絹織物まで一貫して仕上げることであった。織手は武家の女性で、出来あがった織物は藩が買い上げる奨励策を取った。やがて米沢中に機織りの音が溢れ、米沢全体が織物工場となった。

文政6年・鷹山藩主就任から56年、最大30万両もあった借金は完済。全ての領民が力を合わせ藩を救った結果であった。しかし、鷹山逝去の翌年72歳の事であった。

鷹山は生涯をかけ、米沢を豊かな国へと変革した。現在でも米沢市民に尊敬されており、鷹山だけは「公」と敬称を付けて呼ぶことが多いそうです。いかに領民に寄り添った鷹山公であったがわかる話です。

 今の時代にカリスマ リーダー鷹山公がいたらなぁーーと思う (@_@;)  

日本は借金大国! 借金は  1,085兆7537億円 1当たり約867万円 破綻 !   (>_<) 

政治家の汚職、身を削る改革と言いながら私服を肥やすばかり! いったい痛みを伴う改革は! 今でしょ! 

政治家ばかりでない、積水ハウスから、地面師に55億を騙し取られたり・ 日産自動車 代表取締役会長 カロス・ゴーン 有価証券報告書に50億円少なく記載とは、 (>_<)

 今年、最後のボヤキ!*? (__)

最後にあまり語られてない鷹山の正室は、先代の重定の次女 幸姫(よしひめ)で脳障害があり、精神年齢は10歳にも満たなかったと言われています。

しかし、鷹山は幸姫を慈しみ、人形遊びの相手をする鷹山は無邪気な笑顔だったと伝えられています。つまり鷹山の一番深いところを幸姫が支えていたのではとも言われています。そして幸姫の他界後、お豊の方を迎え二人の子供を授かる。

「国家は祖先より子孫に伝え候 国家にして 我私すべき物にはこれなく候」《国家は祖先から子孫に伝えるところの国家であて、 私欲で身勝手にしてはならないものである》 鷹山 

                                  記 12/1