3月は弥生(やよい)と言われ、草木がいよいよ生い茂るという意味が有ります。
万葉集は、7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集です。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌が、なんと4500首以上も集められています。
中でも梅を詠んだ歌は萩に次いで多く、なんと118首もあるそうです。昔は、花と言えばまず「梅」を指していたほど、万葉の人々から愛されていました。
美しい梅の花は、昔から人々の心をとらえ歌にも愛され詠まれてきました。
東風(こち)吹かば にほいおこせよ梅の花
主なしとて春な忘れぞ
この歌は菅原道真が、無実の罪で京都から九州の大宰府に左遷されたとき、京に残してきた梅を懐かしんで詠んだものといわれています。後に、この梅が道真を追って大宰府へ飛んできたという「飛梅伝説」があります。
彼の死後、京の都では天災や疫病が相次ぎ、道真の怨念ではないかと恐れられました。これがきっかけで北野天満宮が建立され、今も命日の2月25日には梅花祭が盛大に催されています。
太宰府天満宮の境内には 約6000本の梅があり、梅の名所で本殿の前、向かって右にあるのが「飛梅」で、京都から飛んできたという伝説の梅があります。
日本の梅は、古くから日本(九州北部)に自生していたという説もありますが、奈良時代以前に、中国文化と共に遣唐使が 薬木として、中国(湖北省・四川省)から日本に持ち帰ったものといわれています。文献・学者の多くは中国原産地説をとっています。
日本では花がまず人々の関心をひき、果実の利用はその後になったのに対し、中国では果実の利用が先であったようです。
蝋梅(ロウバイ)です (^^♪ 甘い香りがします。中国原産で唐梅とも言われます。
日本では、梅の実が古代から菓子や薬に、時には縁起物として重宝されるだけでなく、歴史や食文化に深く寄り添ってきました。
奈良時代「梅実の生菓子」
梅は奈良時代に、中国から薬木として渡来したとされています。そして、貴族は観賞用、薬用に競って自邸に植樹しました。
当初は、実は生菓子にして食べていたようです。「貞丈雑記:ていじょうざっき」には【菓子は、蒸菓子や干菓子のことではなく、果物を菓子という】と書かれています。
また、「和名抄:わみょうしょう」にも梅は木の実・果物に分類され、桃・ビワ・ナシなどと共に梅を生菓子として食べていたと記されています。
古事記が成立(712年)した、200年余り前の「斉民要術」に梅の塩漬けが記録されています。
平安時代の「医心方(いしんほう)」に、
日本最古の医学書「医心方」は、平安中期の医師 丹波康頼 (たんばのやすより) が 984(永観2)年に著したもので、六朝(りくちょう)・隋・唐 時代の中国や朝鮮の医薬書から引用し、医学全般にわたって説き書かれた著書で、次のように、
食養編には、すでに梅の実は「梅干」として登場し、効用が「味は酸、平、無毒。気を下し、熱と煩懣を除き、心臓を鎮め、四肢身体の痛みや手足の麻痺なども治し、皮膚のあれ、萎縮を治すのに用いられる。下痢を止め、口の渇きを止める」と記述されております。
村上天皇(在位946〜967年)が疫病にかかったとき、梅干しと昆布を入れたお茶を飲んで回復されたという記録もあり、これが元旦に飲む縁起物として今に受け継がれている「大福茶」の起源とされています。この年が申年であったことから、以来、申年の梅干しは特別なものとして珍重されるようになった。
『 “日本一高価な梅干し”とされている「丙申年の梅 五福」がテレビ番組で紹介された! 12年に一度しか販売されない限定品で、最近では2016年に発売されました。 値段は1.8kgだと10万8000円、たった1粒だけでも3240円です。実食したMCさん「結構な塩味やね!」と驚いていた』(日本テレビ系)
青梅をかまどの上でカラスのように真っ黒に燻製(くんせい)にし、乾燥させた「烏梅(うばい)」を、解毒や下痢止めなどに利用したそうで、現在でも漢方薬のひとつになっています。
御所の梅の木が枯死したので代わりの木を探し求めさせたところ、歌人・紀貫之の娘の屋敷の梅が名梅であるとして御所に移植されることになりました。
別れを惜しんだ娘は「勅なればいともかしこき鶯の 宿はととはばいかがこたへむ」(帝の御命令でございますこと、贈呈致します。しかし、毎年この庭に来てこの梅の枝に宿る鴬が我が宿は如何したかと尋ねられたならば、さてどう答えたらよいのでございましょう)という一首を詠んだところ、哀れに思った村上天皇の命で梅の木は娘の元に戻されました。 この逸話の梅を「鶯宿梅」と称します。
鎌倉時代は「縁起物」
「世俗立要集」という文献には、「梅干ハ僧家ノ肴」と書かれています。つまり、梅干しはお坊さんの酒のさかなとして利用され、また、禅宗の僧は点心や茶菓子として、梅干を用いた。
この風潮はやがて、武家の食膳にも広がり、武士の出陣時には、兵糧(ひょうりょう)として戦陣の携帯用食料として、また凱旋(がいせん)時に縁起がいい食物として梅の実が用いられるようになったそうです。
気前がいいことを「大盤振舞」といいますが、この語源にも梅がかかわっています。 この時代の大切な儀式のひとつとして、元日より数日にわたり有力な御家人が将軍に対して「椀飯振:おうばんふり」を奉る。というものがありました。
献立は椀飯とクラゲ・打ちアワビ・梅干の3品に酢と塩を添えたもので、折敷に載せて出したといわれています。
「椀飯振」がのちの「大盤振舞」という言葉の語源となったそうです。
そして、室町時代に入りやっと武家の食膳にも梅干しがのぼるようになります。
戦国時代の「梅干丸」?
江戸時代にされた「雑兵 物語』には、戦に明け暮れる武士は、食料袋に「梅干丸:うめぼしがん」を常に携帯していたと書かれています。
「梅干丸」は、梅干の果肉と米の粉、氷砂糖の粉末を練ったもので、激しい戦闘や長い行軍での息切れを調える「息合の薬」として、生水を飲んだ時の殺菌用としておおいに役立ったり、また、梅干のスッパさを思い、口にたまるツバで喉の渇きを癒(いや)したそうです。
このように、梅干しは戦国時代に万病の妙薬として重宝されたそうです。
江戸庶民の梅干を食べる習慣が全国に広がるにつれ、梅干の需要は益々多くなります。
紀州の梅干は「田辺印(たなべじるし)」として、特に評判を呼び、田辺・南部周辺の梅が樽詰めされ、江戸に向け田辺港から盛んに出荷された。
ある春のこと、豊臣秀吉が床の間に置いた水を張った大きな鉢の傍に、紅梅一枝だけを添え、千利休に「この鉢に、この梅を入れてみよ」と命じました。側近たちが「これは難題だ」とハラハラして見守っている中、利休は平然として紅梅の枝を手に取ると、紅梅の花とつぼみだけをさらりと鉢に入れたのです。水面に浮かんだ紅梅の花の風情に、秀吉は上機嫌になったといいます。さすが利休さん (^^♪
江戸時代の「庶民の楽しみ」
一部の人しか食べられていなかった梅干も、江戸時代になると庶民の家庭にも登場するようになり、うどんやそばの薬味などに使われ次第に庶民の食卓へ普及していきました。
そして、大晦日や節分の夜に、梅干に熱いお茶を注いだ「福茶:ふくちゃ」を飲み、正月には、黒豆と梅干のおせち「喰い積み :くいづみ」を祝物として食べられました。
幕府が梅を植えることを奨励し、江戸中期には冬が近づくと梅ぼし売りが、納豆売りや豆腐売りと同じように、街を呼び歩き冬を告げる風物となった。
徳川家康が晩年を過ごした駿府城には美しい梅の木があり、熟すと種が二つに割れる大変珍しい木で、実割梅と呼ばれていました。当時、駿府城ではこの実割梅から梅干を漬け、東照宮に納めるしきたりだったそうです。この木は、徳川家康公が自ら植えたものと言われており、その後、駿府城から東照宮の境内、唐門下に移植されました。
明治時代「薬効・殺菌力」を実践!
明治11年、和歌山でコレラが発生し、翌年にかけ 1768人の死者が出た。この時、梅干しが予防・治療に用いられ、梅干の殺菌力が見直され需要が急増します。
また日清戦争の頃、軍医の築田多吉 (つきだたきち) が、外地で伝染病にかかった兵士に梅肉 (ばいにく) エキスを与えて完治させ、梅干の薬効を実践された。
以来、梅干しの需要が大きくなるとともに、現在では梅酒や梅ジャム・梅エキスなど、梅製品が数々生まれてきました。
梅の花は、他の花に先がけて春を告げ人々を魅了し、平安時代に入ると貴族の紋章として梅の花がつかわれ、梅鉢・裏梅・ねじり梅など多数の意匠が多くみられます。着物文様、器物に、絵画の題材となり、日本文化には欠かせない豊かな彩を添えています。
「梅」 豆知識
◆ 名前 の由来「うむみ(熟実)」の約転。薬用として渡来した燻し梅「烏梅(うばい)」に由来。 中国音「メイ」の転訛。・・・など、いろいろな説があります。 日本では、奈良時代「万葉集」では "ウメ" 平安時代以後は "ムメ" 現在は "ウメ" と言っている。
◆ 花言葉 は、忠実、気品
◆ 梅はバラ科の植物 で、スモモ亜属 に「ウメ」は属している。
◆ 料理の塩加減や、物事の具合を表すときに「あんばい」といいます。これは調味料の乏しかった古い時代に重宝された塩と梅、つまり「塩梅(えんばい)」に由来し、のちに現在の「あんばい」となる。
◆ 花も実もある! 春に先がけて花が咲き香り、実っては健康食品として役立つことから、「梅」を指す言葉ではないかと言われています。外観も美しく、内容も充実していて、筋も通り、情味も備わっていて、手落ちのない人物をたとえ「花も実もある」と言いますネ。
◆ 「 梅根性」 梅は、梅干にしても梅肉エキスにしても、煮ても焼いてもまだスッパイことから、頑固でなかなか変わらない性質を、いい意味での頑張り屋さんのことを「梅根性(うめこんじょう)」と言います。
◆「 うなぎと梅干は食べ合わせが悪い」と言われますが、実際に、この食べ合わせを信じて避けている人も多いようですが、本当にこの説は正しいのだろうか?
医学的には、梅干しは胃酸を濃くして、うなぎの油性の消化を助けるので一緒に食しても良い。食べ合わせの言い伝えには根拠なし、 (^^♪
もう一つ、
「桃栗三年 柿八年 柚(ゆず)の馬鹿野郎十八年 梅はすいすい十六年」
物事は簡単にうまくいくものでない、何ごとも成し遂げるまでには相応の年月が必要、人生地道に努力と忍耐が必要との諺です。
桃栗三年 柿八年、、この後に続くフレーズがあったとは???
3月3日は桃の節句です! 女の子の節句「おひなさま」を飾り、女児の成長や幸せを家族の皆さんで願います ヽ(^o^)丿
ひな祭りは、もともと古来中国において三月の最初の上巳(じょうし)の日に、災いを祓う行事が起源と考えられています。
日本に伝わったのは、7世紀頃に平安時代中期(約1000年前)までさかのぼります。そして、お祝いとして宮中の年中行事となり、江戸時代の初期の寛永6年(1629年)御所でも盛んに「ひなまつり」が催されて以降、庶民にも定着していったと言われます。
その頃の人々は、三月の初めの巳の日に、上巳(じょうし、じょうみ)の節句といって、無病息災を願う祓いの行事が起源と考えられています。
陰陽師(おんみょうじ)を呼んで天地の神に祈り、季節の食物を供え、また人形(ひとがた)に自分の災厄を托して海や川に流しました。
また、上流の少女たちの間では “ひいな遊び” という紙などで作った人形と、御殿や、身の回りの道具をまねた玩具で遊ぶもので、いまの “ままごと遊び” がされていた。 このことは紫式部の『源氏物語』や、清少納言の『枕草子』にも見られます。
◆ 上巳の節句が三月三日に定まったのは、わが国では室町時代(約600年前)頃のことと思われます。しかし、この頃から安土・桃山時代にかけては、まだひな人形を飾って遊ぶ今のひな祭りとはかけはなれた、祓いの行事の日でした。そして華やかな女性のお祭りとなるのは、戦国の世が終り、世の中が平和になった江戸時代からのことです。
◆ 江戸初期の寛永6年(1629)、京都御所で盛大なひな祭りが催されました。この頃から、幕府の大奥でもひな祭りを行うようになり、やがてこの習慣は上流から町民へ、大都市から地方へと大きく広がっていったのです。
そして江戸中期には、女性たちばかりでなく、女の赤ちゃん誕生を祝う初節句の風習も生まれて、ひな祭りはますます盛んとなります。
◆ 江戸市中には雛市(ひないち)が、日本橋十軒店(じゅっけんだな・いまの室町)や浅草茅町(かやちょう・いまの浅草橋)など各所に立って大変にぎわいました。またこの頃から附属のひな人形やひな道具の種類も多くなり、かなり贅沢なものが作られるようになりました。幕府はひな人形の華美を禁じるお触れを再三出しています。
◆ 明治に入ると、新政府は従来の節句行事を廃止して新しく祝祭日を定めますが、節句行事は一時衰えますが、しかし、長い間人々の生活に根を下ろした行事は簡単になくなるものではなく、やがて復活します。こうして上巳、端午、七夕など子どもに関係深いお節句は、いまも民間行事として盛んに行われています。
いつの時代も子供を大切に育て、お祝いするのは (^^♪ 今も変わらないですね!
お内裏様 と お雛様の左右はどっちが正しいの?
現在一般に広く売られている雛人形は「関東雛」で向かって左側がお内裏さまです。またその逆で向かって右側にお内裏さまの場合は「京雛」 と言われいます。
日本ではもともと位の高いひとが左側だったので、男雛が左、その右側に女雛を飾るのが当然で明治まで全国的でした。
しかし明治時代に西洋の流れを受け、国際礼儀である「右が上位」の考えから大正天皇が即位の礼で、大正天皇の右側に皇后が立たれた事からこの風習が広まり、関東雛が主流になった。 ちなみに結婚式も記念写真も常に新朗が右で新婦は左ですネ!
(^^♪ さねかつら(実葛・核葛)が 実を付けた (^^♪
鳥が実を運んだのか、ひとりばえ!
モクレン科 サネカズラ属の常緑つる性の真葛(さねかずら)です。花は夏に咲き、秋に赤く丸い実をつけます。枝に粘液があり、暋(びん)付け油の原料として使われるので、江戸時代には美男葛(びなんかずら)とも呼ばれたそうです。
さね葛(かづら) 後 (のち) も逢はむと 夢 (いめ) のみに
うけひわたりて 年は経 (へ) につつ
柿本人麻呂歌(万葉集)
さね葛が伸び、あとで絡まり合うように、後にでも逢おうと夢の中ばかりで祈り続けているうちに、年はいたずらに過ぎて行きます。
2月末で、新型コロナ「緊急事態宣言」が解除されました。しかし何も状況が大きく改善もなく心配は依然解消されないのに (?_?) コロナワクチンを受けた方は医療従事者のみで、まだまだ一般の方にはいつか不透明ですネ! いつになったらと思うと溜息が、、、、(>_<)
日中は春の陽気を感じられる日が少しずつ増えてきました。ただ朝晩はまだ冷え込む日が続きますので、寒暖差で体調を崩さないよう気を付けたいですね!
春を探しに出かけるのも、今しばらく我慢 !
2021.3.1. Marui