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11月 霜月(しもつき) November

ついこの間まで夏みたいな暑さだったかと思えば、昨今は急に冷え込んできましたね!北海道では10月17日に 初冠雪、通りを歩く人の服装も厚着になり、季節の移り変わりが感じられます。

11月23日 は、祝日  勤労感謝の日です

1948年(昭和23年)に勤労感謝の日として制定されまた。 今から73年ほど前に法律で 「勤労を尊び、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう日」 として祝日になりました。

 実は、「勤労感謝の日」は、もともと働いている方に感謝することを目的にしたわけではなく、新嘗祭(にいなめさい) という五穀豊穣を感謝しお祝いする日 でしたが、戦後のGHQ占領政策により勤労感謝の日」と改められました。

収穫をお祝いする日だった「新嘗祭」が、なぜ「勤労感謝の日」に変わったのでしょうか? それは戦後、GHQの考えにより天皇が関わる「祭日」は、「祝日」として取り扱わなくなり廃止となりました。
ちなみに「勤労感謝の日」という名前になったかは、様々な説があります。
その一つに、アメリカの祝日が関係しているという説があります。
アメリカで11月の第4木曜日に祝われている感謝祭を意味する ”Thanksgiving Day”
アメリカの9月第1月曜労働者の日を意味する ”Labor Day”
この2つを合わせて作られた「Labor Thanksgiving Day」を日本語訳し、「勤労感謝の日」となったのだそうです。

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ホトトギスユリ科ホトトギス属 多年草です。 日本固有の花で、夏の終わりから秋にかけて斑点模様の花を咲かせます。花言葉は「永遠にあなたのもの」「秘めた意思」

新嘗祭」という言葉を聞いたことがありますか?

ひと昔前まで日本人にとって非常に重要な日でした。しかし、戦後は「勤労感謝の日」と名を改められ、昨今は「新嘗祭」についてよく分からないという世代も増えてきていますね !
新嘗祭は、「にいなめさい・しんじょうさい・にいなめのまつり」と読み、「新」は新穀、「嘗」は奉る、舌の上にのせて味をためすという意味で、「新嘗」はその年に収穫された新穀を神様に奉って恵に感謝し、口にすることを表しています。

新嘗祭は、宮中祭祀のひとつで大祭です。また、天皇がその年に収穫された新穀(主に米)などを天神地祇(てんじんちぎ)に供えて農作物に感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとして自らも食する儀式です 。

飛鳥時代皇極天皇以前から行われていました。平安末期には衰え途絶えていましたが、江戸時代、東山天皇のときに復活しました。元々は民間で広く行われていた行事だったようです。人々が、その年の収穫を祝い、感謝したお祭だったのでしょうね。古代に国家が統一されて、祭儀が天皇を中心とする宮中行事へ集約されたため、この新嘗祭も宮中の儀式のひとつになったようです。

新嘗祭の歴史は古く、『日本書記』には飛鳥時代に行ったという記述があり、古くから天皇家に伝わる伝統行事の日です。今日でも、毎年11月23日に宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる 。同じ日に全国の神社でも行われています。

日本書紀』巻第十一   大鷦鷯天皇 

とし、新嘗の月にあたりて、宴会とよのあかりの日を以て、おほみき内外命婦ひめとねたま

とあります。新嘗祭の儀式の中に弥生時代に起源を持つと考えられるものがあるため、その原型は弥生時代に遡るという説もあります。

古くから日本人の暮らしに深く結びついていたお米と稲は、古典文学の世界でも頻繁に登場しています。
平安時代に編まれた、現存する最古の歌集「万葉集」にも稲や農作業を詠んだ歌が多くあります。

万葉集 第八巻 1567 大伴家持

天平8年(736)9月に大伴家持が詠んだ秋の歌(4首)のひとつです
雲隠(くもがく)り 鳴くなる雁(かり)の 行きて居む 秋田の穂立(ほたち) 繁(しげ)くし思ほゆ
雲に隠れて鳴いている雁が降り立った秋の田の稲穂が繁っているように、あのひとのことがしきりに思われます。

第16巻 3848 忌部黒麻呂 (いむべのくろまろ)
あらき田の 鹿猪田(ししだ)の稲を 倉に上げて あなひねひねし 我(あ)が恋ふらくは
新しく開墾した、鹿や猪が荒らす田でとれた稲を、倉に納めましたが、長い年月がたち、お米が古くなるのと同じように私の恋も古くなってしまいました。

万葉集」とは、7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された全20巻・約4500首の日本に現存する最古の歌集です。成立については不明な点も多いのですが、大伴家持が最終的な編集に大きな役割を果たしたと考えられています。主な歌人は、額田王柿本人麻呂山上憶良大伴旅人大伴家持などです。

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秋の風情を感じさせる優雅な花 「シュウメイギク」古い時代に中国から入り、京都の貴船地方に野生化したものが見られ、キブネギク とも言われます。

お米のルーツは?

日頃 気にもしないで、当たり前のように食べてるご飯ですが?

お米(イネ)や 稲作技術の伝播経路には数多くの説があり、原産地はインド、中国、ビルマ、タイで中国の「江准地帯 (長江・准河の間) から朝鮮半島南部を経て伝わった」「長江下流部から直接九州に伝わった」などと言われています。

日本には、紀元前1世紀、弥生時代に伝播して定着します。そして、稲作文化の発展に伴って「定住社会」が始まったとされています。

日本で一般的に食べられているお米は、「アジアイネ」のうち「ジャポニカ米」で、他にアジアイネにはインディカ米があります。短く円形に近い形状と、炊くと粘りとツヤが出るのが特徴です。

ジャポニカ米の起源は中国の「福建米(ふっけんまい)」だったと考えられおり、中国の「長江」の中〜下流域で栽培されていたものが、縄文時代に日本に持ち込まれたとされています。

いずれにせよ、大陸から東シナ海を通じて日本に渡ったことは間違いないと考えられています。

観光客や写真愛好家が「奥播磨かかしの里」にふるさとの原風景を求め、多くの人がが訪れます。 (写真はネットより)

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むかし 田畑に立てた案山子は、鳥獣がその臭気を嫌って近づかぬよう、獣肉や毛髪などを焼いて竹などに付け立てた。「かがせるもの」の意で「かがし・かがせ・おどし」と言われました。

縄文・弥生時代飛鳥時代

約3,000年前、縄文時代後期には大陸から稲作が伝わっていたことが分かっています。その前は、トチ・ナラ・クルミ・クリ・カシなどの堅果類、つまりドングリを食べていました。

さらに数百年後と考えられる、福岡県の板付(いたづけ)遺跡 や 佐賀県唐津市の菜畑(なばたけ)遺跡などから、炭化米や土器に付着したモミの圧痕、水田跡、石包丁、石斧といった農具、用水路、田下駄等が発見されています

これらは日本における水田稲作の証拠と考えられています。

板付遺跡や菜畑遺跡は、きちんと整備された形で水稲耕作が行われていたらしく、同時代の稲作を行った痕跡のない遺跡とは孤立した状態で発見されています。

つまり、大陸で稲作を行っていた集団が稲作技術とともに日本に渡来し、稲作を行っていたと考えられています。この頃は、米を煮て調理していて、今で言う「お粥」が食べられていたようです。

弥生時代になると、稲作技術は急速に日本列島を東へ伝播されていきます。もっとも有名なのは 静岡県登呂遺跡で、田下駄、鍬、鋤、農耕具、堅杵などの農具が発見されました。

北九州〜東海地方にかけて同じような土器文化が見られていますので、200〜300年くらいで急速に稲作技術が普及していったことが推測されます。

弥生時代の中期には、青森県南津軽郡の 垂柳遺跡 でも水田跡が発見されたので、北海道を除く日本列島の広範囲で水田耕作が行われていたと考えられます。

弥生時代に入るとお米を蒸して調理して食べるようになり、これは「強飯(こわめし、こわいい)」と呼ばれ、主食がそれまでの堅果類から米に代わる転換期だったと考えられています。

こうして米の普及と伝播によって、養える人口が増え、日本人の栄養状態も良くなり、体格も良くなった!

米は他のどの栽培植物よりも収穫量が多く、米を持つものは富と権力を非常に早く持つことができ、これにより、古墳時代ごろから徐々に地域国家から中央集権国家へと移行し、このことにより貴族と庶民との格差も開いていきました。

「米」は田に対する税として納められるものになっていった !

奈良時代平安時代

奈良時代になると、白米は一般的な主食となりました。そのことを示す木簡が都跡から出土しています。ただし、これは貴族の間のみのことで、玄米をついて精白した「白米(しらげのよね)」というお米は、身分の高い人の間だけで食べられていました。

庶民はもっぱら「黒米」と呼ばれた精白度の低いうるち米を食べていたようです。時にはアワやヒエと混ぜて食べることもあったが、玄米は食べていませんでした。

現代と同様の主食と副食というスタイルは、1日2食ではあるものの、既に奈良時代に「常食」として確立していました。

ごはん(米)を主食に、汁物とおかずがそれぞれ一品ずつという一汁一菜が基本で、おかずは多くて二〜三菜でしたが、貴族の宴会などでは多くのおかずが並んでいたようです。

平安時代の貴族の食膳は、高杯に高盛りのごはん、まわりにおかずのお皿を並べる「おもの」と「あわせ」というスタイルでした。この「あわせ」の数が多いことから「かずもの」と呼ばれ、やがて「おかず」と呼ばれるようになり、おかずが少量でも種類が多いことに重点を置いていたと考えられます。

逆に、庶民はおかずの品数を少なくする代わりに主食と漬物の量を増やし、味噌汁を添える暮らしでした。この傾向は第二次世界大戦前まで続きます。

平安末期ごろから、鉄や高温で焼いた陶器や瓦器の釜が普及してきて、お米を「炊く」ようになり、炊いたお米は柔らかいので、「強飯」に対して「姫飯(ひめいい)」と呼ばれるようになりました。

鎌倉・室町時代〜江戸時代

鎌倉時代室町時代には、牛馬耕や二毛作の技術、水車などを利用した灌漑施設の整備、肥料の発達などで収穫高がアップします。当然、大量の人手が必要になったことから、村の共同生活が組織化され生活様式に変化が生じていきます。

また用水量が少ない場所でも栽培可能なイネを「陸稲:おかぼ」と呼び、栽培され始めたのは鎌倉時代中期です。

江戸時代中期になると、従来は見られなかった分厚いふたをつけた釜が普及し、美味しい飯の炊き方が定着します。

新米、古米によって水の量を加減し、「初めチョロチョロ、中パッパ、赤子泣いてもふたとるな」という現代まで伝わる美味しいお米の炊き方がこの頃とされています。

そして、1日3食の習慣も定着してかなり現代に近い食生活が定着します。

明治・大正時代〜現代

明治になり税の徴収が米からお金に変わります。 

大正10年(1921)日本で初めて国立農業試験場で、人工交配による品種改良で作られた米・水稲「陸羽132号」が誕生しました。

農学校で教鞭をとっていた詩人宮沢賢治も「陸羽132号」の普及に努めたとされています。

現在、日本でもっとも流通している農林100号「コシヒカリ」は、昭和31年に生まれました。品質や食味に優れ、当時もっとも深刻な病気だった「いもち病」に強かったため、各地で生産が進み、昭和54年以降は30年以上連続で作付け面積第1位を誇っています。

その後もお米の品種改良は進み、2019年現在、国に品種登録されているもので500種類、そのうち主食になるごはん用として作られているものだけでも271種類もの品種があります。

お米は、世界的にみてコムギに次いで生産量が多く、世界人口の約半数が主食とする重要な作物です。脂肪、蛋白質、炭水化物などを含み、日本人は古くから不足しがちな蛋白質をこの お米(イネ)から摂取してきました。

古代を彷彿する棚田風景 ! 「丸山千枚田」日本の棚田百選 (ネットより)

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三重県熊野市紀和町丸山地区の斜面に幾重にも描かれた棚田で、 この棚田がいつ頃造成されたかは不明ですが、西暦1601年(慶長6年)にはすでに2.240枚の田があったという記録があります。しかしながら、昭和40年代半ばから始まった稲作転換対策による杉の植林や昭和50年代以降の過疎・高齢化による耕作放棄地の増加によって、平成初期には530枚までに減少してしまいました。

日々、美味しいお米の品種改良、研究がされていますので、ぜひ自分の好みのお米を見つけ、食文化を豊なものにしてください。

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138タワー コスモスが咲き誇っていました! (10.23撮影)

現代でも、ピクニックや遠足などには「おにぎり」はなくてはならないアイテム、何時からあったんだろう?

1800年弥生時代後期(2世紀後半)の石川県杉谷チャノバタケ遺跡からおにぎりの化石と思われるものが発見されています。

古墳時代後期(6世紀前半)の横浜市の遺跡からは、おにぎり弁当と見られる化石が発見されているので、その歴史はさらに古いと思って差し支えないです。
おにぎりは、日本の稲作の歴史とともに歩んで来ました。

おにぎりの文献上の起源は、平安時代の「頓食(とんじき)」という食べ物とされています。

「頓食(とんじき)」は、宮中や貴族の宴会の時に、庭上で下仕えの者に配られた弁当で、鳥の卵に似ていることから「鳥の子」という別名もあり、『源氏物語』の桐壷の巻などにも登場しています。

戦国時代になると、おにぎりは、武士が戦いには無くてはならない携帯できる「兵糧食」として用いられ、江戸時代と多くの戦争につながって現在においても「おにぎり」の歴史は引き継がれています。

現在のようにおにぎりが海苔で巻かれ始めたのは、江戸時代中期、元禄の頃。加工された四角い板海苔が「浅草海苔」などの名称で、一般的に売られるようになってからといわれています。それまでのおにぎりは、今の塩むすびに近かったようです。

そして、「おにぎり」は、現代と同じように畑仕事に出る際や行楽の弁当、旅のお供の「携帯食」として「おにぎり」は日本人にはかかせない米文化の役割が果たされていますね!

「ねじりほんょ」とは、

宮城県宮城県栗原市地方では、刈り取った 稲 を稲杭(いなぐい)にかけたもので、栗原の雨が降ったり止んだりで稲がなかなか乾かなかった地区では、風通しを良くして早く乾くように稲をずらして干したので、ねじれている。 そのことから ねじり ほんにょ と呼ばれている。

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栗原市のマスコットキャラクター「ねじり ほんにょ」2014年に誕生!

お米屋さんの店頭に新米が並ぶ季節ですね! 

ななつぼし」は北海道 「銀河のしずく」は岩手県 「ひとめぼれ」は福島県 「あいちのかおり」愛知県  、、いずれも各地の農家さんが手塩にかけた、いずれ劣らぬ特Aランクです (^^♪ しかしコメ離れが止まらない日本!

岐阜 飛騨に新種の稲が発見! 2000年秋の昼下がり、稲の生育を確認するためにコシヒカリの田んぼの見回りをしていたとき、とびぬけて背の高い変わった稲があり、 その稲をよく見ると籾(もみ)は他品種の1.5倍ほどの大きさでした。

のちに水稲品種、龍の瞳「いのちの壱」と命名される最高級の新品種の発見でした

コメの消費量はこの六十年でほぼ半減  (>_<) 「青天の霹靂(へきれき)」とは青森県の銘柄ですが! コメ離れ、青天を突如切り裂く稲妻のような名案はないものか ?? コメ文化はどこにへ行くのか??

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マンデビラの花(サマードレス)ブラジルの森林地帯に自生す、夏の暑さに強いです

勤労感謝の日は、本来は「祝日」ではなく「祭日」でした。それでは、祝日と祭日は、一体どこが違うのでしょうか?

「祭日」というのは、その字の通り、神道のお祭りを行う日のことです。一方、「祝日」というのは、法律で決められている「国民の祝日」のことです。

もともとの祭日は、11月23日のほか、1月1日のお正月、2月11日の建国記念の日春分の日秋分の日、そのときの今上天皇の誕生日などが該当します。

戦後、「祭日」という言葉は使われなくなり、「祝日」に統一されています。カレンダーや営業時間の案内などにも、「祝日」とあるはずです。

でも、「祝祭日」といった言葉が使われることもありますね! 祝祭日を単なる休日のひとつとしてしか認識せず、何気なく使用しいている人も多いですね! しかし、祭日には歴史的な由来があります。どのような日なのかを知っておくことで、感じ方も変わるのではないでしょうか ?

今年の勤労感謝の日は、ただなんとなく過ごすのではなく、ぜひ意味を理解した上で充実した1日を過ごしてください。

                                                                                                             11月1日