厳しい寒さも少し和らぎ、日ごとに暖かさを感じ春がそこまで! (^o^)
花と言えば桜ですね! 3月「弥生:やよい」の原語は「弥」には「いよいよ」の意味があり、「草木がいよいよ生い茂る月」から3月は「弥生」になったとする説が有力だそうです (^O^)/
今年は一段と寒く雪も多く、この寒さで「休眠打破」桜の開花時期が例年より早いとの予報があります。
春に咲くサクラの花芽は、前年の夏に形成されますが、花芽はすぐに生長することはなく、一旦「休眠」という状態になります。
休眠した桜の花芽は、秋から冬にかけて一定期間低温にさらされることが重要なポイントで、春を迎えて気温が上昇しするにしたがって眠りから覚め、開花の準備を始めます。このことを「休眠打破」といいます。
3月を迎えてもオミクロン株感染の衰えは一向に衰えない ! 何もかも予定が狂い中止である。時間があるが、外出には気が引ける ! 桜見はどうなるのかな??
蝋梅(ロウバイ)花の形はなんとなく梅に似てますが、梅の仲間ではないそうです。
昔から花が似ていたり、香りがいいものには梅という和名をつけることが多かったみたいですね ! 原産は中国で、日本に来たのは意外と最近で江戸時代と言われています。
後期高齢の仲間と会うと話題になるのが、 年金、病気、仏壇にお墓、そして最後にいつ死が訪れるのかな? どうしたら苦しみなく死ねるのかな?「安楽死」は? と冗談を言いながら「なるようになるさ!」とケセラセラ、、でおわるのが常である。
『舞姫』や『山椒大夫』『阿部一族』などの著作で知られる明治の文豪「森鴎外」(1862−1922)の、代表作の1つに歴史短編小説『高瀬船』がある。
「高瀬舟」の舞台になった高瀬川は、江戸時代初期に京都・伏見間の水運の大動脈として重宝されていた運河です。およそ300年の間、京都・伏見間の水運の大動脈として重宝されていたようです。現在では鴨川において京都側と伏見側に分断されています。
徳川幕府の時代、島流しになる京都の罪人はこの川筋を上下する小舟「高瀬舟」で大阪に送られていました。
から始まる、、
京都「知恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕(ゆうべ)」「高瀬舟」に、罪人を護送するため、同心の「庄兵衛」は、弟を殺したという男「喜助」を船に乗せます。庄兵衛は、殺人を犯したはずの喜助が安らかな顔をしているのを不思議に思います。
彼に尋ねるとそこには考えさせられてしまう意外な理由があり、、やむを得なく「殺人犯」になってしまった彼の境遇にどうしても腑に落ちないものを感じます。
「喜助」は年齢は30歳ばかりで、両親を流行り病で亡くした後、弟と2人つつましく生きてきましたが、その弟が病に倒れます。ある夜兄、喜助が食べ物などを買って帰ると、カミソリで首を切って苦しんでいる弟から、「死なせてほしいと」懇願されます。
喜助は、状況に気が混乱しながら苦渋の選択の末「弟の言ったとおりにしてやらなくてはならない」と、カミソリを引き抜き弟を死なせます。
自殺を図るも死にきれなかった弟を殺したことで、罪人として島流しの刑になったと同心「庄兵衛」に自分の罪を正直に語ります。
喜助は自分がにこやかにしているのは、今まで生活が苦しく 辛い仕事を必死に働いても食うに困るぐらいだったのに、牢に入れば食事を食べさせて貰え、そして島流しの刑が決まって、今までに見たこともない二百文の支度金まで頂けてありがたいと話す。
「弟を殺したのは、自殺に失敗して苦しんでいたところを死なせてやったので後悔していない」とも話す・・・・このような物語の流れです。
そして物語の最終は、「次第に更けて行く朧夜(おぼろよ)に、沈黙の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面(おもて)をすべって行った」と終わっています。
高瀬川の流れに任せ同心「庄兵衛」は様々なことを思いますが、人生の哀れみや喜助は人殺しと疑問に思うが、自分では出せない結論をうやむやのままに暗い闇に封じ、時代の流れに問うているように思います。
「高瀬舟」1916年1月 中央公論に発表 『 登場人物は2人で、舟の上で交わされる会話のみで進行し、他の人物は回想で登場するのみです』
今年も「クリスマスローズ」の花が咲きました (^o^)
クリスマスローズが約220鉢が並ぶ展示会が、「フラワーパー江南」で3月6日まで開催されています。百種類以上の品種が展示され最終日の6日には販売会も、(中日新聞)
「庄兵衛」は、喜助の生活苦でありながら「お金に対する慾(よく)」のないのに感嘆し、そして文豪 森鴎外が、この物語の中で投げかけた「安楽死」についての疑問は、この小説が発表されて100年以上たった今でも、新聞やニュースで繰り返し報じられる大きな社会問題となっています。 <この時代には「安楽死」と言う言葉は無かった>
何が幸せか? 何が不幸か? そして何が正しいのか? 命の尊厳は?
安楽死とは、本人に死を希望する意思がある場合、医師のような第三者が薬物を使って患者の死期を人為的に早める方法です。意図的に死へと向かわせることから安楽死は「積極的安楽死」と言われています。現在、日本では「積極的安楽死」は認められておらず違法です。
尊厳死とは、その名の通り人が人としての尊厳を保ちながら延命処置を断り、自然経過の死に臨んで亡くなる方法を尊厳死と言います。「不治で末期で、治療による回復をまったく見込むことができず、死への進行が止められない状態」で、人為的ではなく自然に死を迎える方法であることから尊厳死は「消極的安楽死」とも呼ばれています。患者本人(家族)の健全な判断が重要となります。
海外では、「尊厳死」を合法としている複数の国があります。ただし、海外と日本の尊厳死の定義は異なるため、慎重な判断が必要です。日本でいう尊厳死は、延命措置を行わずに自然に死を迎えることです。
海外の尊厳死の定義は、英語で「Death with Dignity」と表されている積極的安楽死のことを意味します。日本で尊厳死とされている消極的安楽死は海外では「自然死」と定義しているのです。
自分の人生の終末期は、自分らしく生きていたいと誰もが望みますが、あくまでも自分自信健全な意思、判断能力が大切と思慮しますが、安易に判断を下すことは出来ない大変に重い問題ですね!
「小菊」の花言葉には「元気」「真実」「純情」 小ぶりな菊ですが、大菊や野生菊に劣らない立派な花を咲かせ、次々と枝分かれをして花をたくさん咲かせますので「元気」という花言葉がぴったりですね。
高瀬川 現在は喜助が舟から見た景色とは様変わりしているでしょうが、江戸時代、高瀬舟に乗せて色々な思いやドラマを想像しながら、二条あたりから木屋町通沿いの西側を南下し、川沿いの木屋町通を歩いてみたいですね!
京都 二条木屋町のあたりに、高瀬舟が復元されています。(写真はネットより)
森鴎外:本名・森林太郎は、明治から大正にかけての小説家だけで無く、軍医、評論家、翻訳家としても活躍された。
代々医師の家系に生まれ、本人も軍医としてドイツへ4年間 陸軍省派遣留学をしました。帰国後、軍医の仕事をしながら『舞姫』『山椒大夫』そして『高瀬舟』などを執筆をしています。
夏目漱石と並ぶ明治の文豪ですが、本人はその肩書を重荷に感じていたのか、遺言には「余ハ 石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」「墓ハ “森林太郎墓”ノ外 一字モホルベカラズ」
「私は石見(島根県)出身の森林太郎として死ぬのだから、墓には森林太郎墓とだけ書いてほしい」)と書き残しています。