塩は、人間にとって最も重要なものです !
きまった濃さで血液などに溶け込むことで、からだの中の水分の量を調整する働きをしています。
塩分が不足すると、元気がなくなったり、健康に保つことができなくなってしまいます。しかかし、あまり取りすぎると、からだのバランスをくずし、病気の原因にもなりますが、健康な人なら、少しぐらい取りすぎても、おしっこや汗といっしょに、排出されてしまいます。
野生の 動物はどうして塩を取るの ?
ウガンダとケニが国境にあるエルゴン山に、キタム洞窟(キツム洞窟)標高3000mを超え 幅40mの洞窟があり、深夜に象が列をなし訪れる不思議な光景が見られるそうです。 それも、何百万年も続いていると言われています。 (写真はネットより)
アフリカ象は餌や水を求めて季節ごとにエサを求め、群れを作り草原や沼地などを数百キロも移動し、そうして必ず「キツム洞窟」を訪れるそうです?
ゾウが苦労してここまで登るその理由は、この洞窟にある岩塩を食べるためで、入り口から150mの所で巨大な岩石を牙で掘って、粗い塊を削り取り土を食べ3時間後には帰っていくそうです。
他の草食動物の ブッシュバックやアフリカ水牛たちも貴重なミネラルの補給場所と知って集まって来るそうです。 チータ—やライオンは、この洞窟がある標高までは登ってくることは無いそうですが、ヒョウなどの肉食動物は草食動物を狙ってやってきます。
草食動物は草には塩分がないので洞窟から塩分を取りますが、肉食動物は草食動物を捕らえ内臓から塩分を摂るそうです。
今も動物たちに継承されている「塩の道」ですね !
自然界の動物たちは、長い間に本能的に生きるために必要なミネラルを得るため「キツム洞窟」に恵みを受け取りにやって来くる訳ですね !
タイでも、「カオヤイの森」で象は地面の穴に鼻を入れて土を食べます。何カ所か土を食べる場所があり、ミネラルが豊富に含んだ土があり、象は普段の食べ物から得ることの出来ないミネラル源を取っていると考えられています。
ゾウは水のありかを探すのも上手で、200km先の雨雲も察知できるほどだと言われています。乾季のサバンナでも、ゾウは水場を探すのが上手くて、他の動物たちはゾウの動きを見ながら水を探すとも言われています。
今年も咲いてくれた、天空のひまわり ! (^o^)
塩の化学式は NaCl、塩化ナトリウムです。
英語は salt 、漢字では「塩」ですが、旧字体は「鹽」と書きます。
11世紀に中国で作られた『集韻:しゅういん』という字書には、下図のように「鹽」の異体字が並んでいて、さらに「世間一般では「塩」とも書く」という記述があります。
おそらく、「鹽」はあまりにも字画が多く書くのが面倒なので、省略されて「塩」となったのではないか ?
中国最古の医術書物『黄帝内経:こうていだいけい』紀元前200年ごろに書かれた医学書で、塩が存在していたことが記載されています。
人類は、いつごろから塩を使っていたの?
日本史上で塩が登場するのは、今からおよそ2000年前の縄文時代後期から弥生時代初期と言われています。
それまでは狩猟により動物の肉や内臓、骨の髄などの中の塩分で、自然に塩分を補給することができ、わざわざ塩として食べる必要があまりなかった。
しかし、米づくりが始まり、農耕・定住生活へと移り変わり食生活も大きく変わり塩を作ることが始まります。最初は、焼いた海藻の灰(灰塩)そのものを使用したと考えられています。
次に、灰塩(はいじお)に海水をまぜて濃い塩水(かん水)を採り、土器が考案されこれを煮つめて塩を作るようになります。さらに干した海藻に付着した塩分を海水で洗い出してかん水を採り、これを土器で煮つめて塩をつくる。いわゆる藻塩焼き(もしおやき)の製塩法へと発達しました。
こうして、塩を作るために造られた土器を「製塩土器」と言われ、弥生・古墳時代を中心に九州から東北まで、全国各地の海岸部で、多量の塩が浸みこんだ土器が発見されています。
「製塩土器」 (写真はネットより)
紀元前 500年、今から2500年前(高さ 33.7㎝) 宮城県 里浜 貝塚 出土
塩田が出て来るのはずっと年代が下がって、室町時代頃からです。
世界を見ますと、古代四大文明発祥の地のメソポタミア、インダス、エジプト、中国では、いずれもすぐ近くに大きな塩の産地がありすでに塩は使われていた。
また、死海などの塩湖があった地域では古代オリエント文明が栄え、塩がヨーロッパ文明の礎になったともいわれています。
古代エジプトでは、塩は保存食などに広く使われていました。そして、塩の持つ防腐作用を利用してミイラをつくるときに利用された。
ミイラにする死体は、約70日間濃い塩水につけたのち、薬で処理したといいます。
古代ローマでは、給料は「塩」だった !
古くから,塩は生活の必需品のために交換の媒介をする一種の貨幣の役目を果たすようになり,ときには塩を固めたものが貨幣として使用されていた。
ローマ時代には役人や軍人の給料は 塩 sal が支給されいた、帝政時代にはこの塩の代りに貨幣が支給されるようになります。
現代の給料をもらう人をサラリーマンといいますが、サラリーマンの語源と言われる給与を意味する英語の salary サラリー は、、ラテン語の sal(塩)といわれ、塩の支給を意味するラテン語の サラリウム salarium に由来しているそうです。
チベットでも13世紀ころに塩が貨幣として使用されていたことがマルコ・ポーロによって報告されています。
地球上で塩のとれる源として、5億年以上前に形成されたといわれる地下の岩塩堆積層が人々の目にふれるようになったのは比較的近代のことです。
当然のことながら人々が塩や鹹(から)い水をみつけたのは海、乾燥地域の表面被覆層や塩湖にみられた塩であり、鹹い塩水泉であったと考えられます。また人々の知恵によってそれらから塩をつくるという製塩法も世界各地で色々と工夫されています。
世界で生産される塩の約60%が、岩塩が占めるそうです!
日本にも、世界のさまざまな産地で採れた岩塩が輸入されていますが、正直、産地を気にして購入している人は少ないのではないでしょうか?
日本には、岩塩は存在しない !
四方を海に囲まれた日本は、海塩がそもそも主流だったから岩塩がないのではなく、日本の古代からの気候風土が岩塩のもととなる、塩湖を形成しにくいものだったからだそうです。
珍しい、山から塩が採れる温泉があります。
山塩として、古来から塩が作られてきた長野県大鹿村にある鹿塩温泉と福島県の会津山塩企業組合です。
現在も、山塩を商品として売られています。 値段は数百円です !
この塩は「二万年前」のお塩だって! しょっぱさは少ないなめらかな塩味で、塩分は海の水と同じくらいだが、ミネラル分が豊富でしょっぱく感じないそうです。
世界には、数多くの岩塩が採れる産地があります !
その一つに、2002年に冬季オリンピックが開催された、アメリカ合衆国ユタ州にある「ソルトレイクシティー」は、その名の通り岩塩の産地でです。
街の北西部にある「グレートソルトレイク」と呼ばれる大塩湖には水の出口がなく、山や川から流れついたミネラルと塩が濃縮されるため、塩分濃度は海水の8倍で、なんと27%にもなります。そのため、「北米最大の死海」ともいわれています。
グレートソルトレイクは、もともと海と繋がっていた湖「ボンヌビル湖」の名残りで、地殻変動で隆起し今の姿になりました。
このあたりには、ジュラ紀(紀元前)の海底が隆起した岩塩層もあり、「ジュラシックソルト」という名で販売されています。塩味とほどよい苦味があるため、レモンをかけて食べるようなメニューと相性抜群だそうです。
大名古屋ビル 5階 屋上 テラスにも、ひまわりがイッパイです (^o^)
日本における塩は、欧州や中東のように岩塩が採れないので、海岸地域からの供給に頼らざるをえず、古来、各地に内陸と海岸部を結ぶ「塩の道」が造られてきました。
そして、「塩の道」では、海からは塩だけでなく海産物などの「海の幸」が、そして山からは山菜などの産物のほかに木材、黒曜石などの鉱物といった広い意味での「山の幸」が相互に行き来し、文字通り重要なライフラインとなりました。
このように、歴史的な山と海を結ぶ「塩の道」は 島国ならではの重要な「交易の道」でもあっりました。
この「塩の道」の中には、越後の上杉謙信が「敵(信州の武田信玄)に塩を送った」という故事の舞台ともなった千国街道(ちくにかいどう:糸魚川~松本)や千葉産の塩の運搬路だった中山道のほか、甲州街道、三州街道など、現在も主要国道として地域のライフラインとなっている道も多くあります。
また、太平洋側の遠州と信州を結ぶ秋葉街道の終着点の「塩尻」(長野県)の地名の由来「塩の道の尻」や千国街道の「塩買坂」(静岡県菊川市)、「塩町」(静岡県掛川市)といった地名は、「塩の道」としての歴史の名残を今に留めています。
今では海塩の生産技術が発達し、旅行に行けばその土地、土地のオリジナルの海塩を手にすることができすね !
海塩でも”まろやか”と表現されるお塩がたくさんあります。ぜひ、岩塩の”まろやか”とどう違うのか、食べ比べしてみてください!
キウリの花、野菜の花は鮮やかで綺麗ですネ !
(^_^) 敵に塩を送る !
およそ450年前に、武田信玄に同盟を破棄されて激怒した今川氏が、北条氏と結んで、武田の領地(甲斐・信濃)に塩を送ることを禁止しました。
松の廊下で吉良上野介に切りつけた浅野内匠の領地だった赤穂には、1645年に広い干潟を整備して「入浜式塩田」と呼ばれる大規模な塩田をひらき、赤穂の塩は品質も良く、江戸や大坂を中心に多く売られて有名でした。
一方、吉良家の領地の三河でも、塩づくりがおこなわれていましたが、吉良家は赤穂の進んだ製塩技術を教えてくれるよう頼みましたが、浅野家は塩づくりの技術は秘伝であるとして断られ、吉良家は、ひそかに赤穂の技術を盗むため、間者(スパイ)を送りこみましたが、とらえられて牢屋につながれたともいいます。
このように浅野家と吉良家は、塩づくりの技術をめぐって、以前から仲が悪く、このことが忠臣蔵事件の隠れた原因と言われています。
(^o^) お店先などでよく 見かける「盛り塩」て、!
日本では奈良・平安時代に、その風習があったとされていますが、 由来については諸説あります。
中国の故事に、秦の始皇帝が中国を統一したころ、始皇帝には大勢の女性が仕え、誰もが王の寵愛を独り占めしようと画策していました。
当時、始皇帝は牛車を愛用していましたので、「牛が止まれば始皇帝も止まる」と考えたひとりの女性が、自分の部屋の前に牛の好きな塩を置き、牛とともに王を招き寄せることにしたのです。そして、功を奏し、この女性は始皇帝の寵愛を一身に集めることができたというお話です。 同じような話は晋の武帝という王の時代にも残っています。
このことから「盛り塩」は客を招く、福を招くというように考えられるようになった。日本では、神事で用いられる清めの意思も相まって、習慣化していったという説もあります。
(^o^) この世で一番うまいものは何か ?
古老諸談(ころうしょうだん)に、江戸幕府の初代将軍、徳川家康はある日、側に仕える阿茶局に「この世で一番うまいものは何か」とたずねると、すると局は「それは塩」です。山海の珍味も塩の味つけ次第です。
そして「一番まずいのも塩」です。 どんなにうまいものでも、塩味が過ぎると食べられなくなりますと答えた !
塩のさじ加減ひとつで、長所も短所も引き出すことが出来ます。指導者もまた、過信の心を巧みにとらえ能力を引き出すことが肝要肝と、家康は局の言葉に深く感銘し、以後、教訓にしたと伝えられています。
家康はこれを聞き、「男子であれば良い大将として活躍するのに惜しいことだ」と嘆いたとも言われています。
(^o^)「海の道」?
日本にとって有史以来初めての国難だった室町時代の元寇(げんこう)は、元の初代皇帝クビライ・ハーンが、東シナ海、南シナ海からジャワ湾、インド洋を結ぶ「海の道」の制海権を握るために起こした戦争と言われ、大国の野望に我が国も翻弄されました。
近年のお隣の大国の不穏な動向「一帯一路」政策を眺めていると、我が国の位置づけはいつの時代も基本的には変わらないようですね !
中国の一帯一路政策は、習近平国家主席が 2013年に打ち出した構想で、アジア、アフリカ、中東、さらには欧州にわたる約60カ国を対象に2,000億米ドルにのぼるインフラ投資が行われています。
(^o^) 塩が無いとロケットも飛ばない !?
日本の塩づくりは大きく進歩しました。昭和47年から、国内のすべての塩がイオン交換膜と真空式蒸発装置を使ってつくられるようになりました。
現在、日本では「食べる塩」は、全消費量の20%たらずにすぎません。
「食べない塩」として、80%が ガラス製品や漂白剤、接着剤、アルミホイル、合成繊維、飼料、医薬品など広範囲に使われるソーダ工業などに使われています。またロケット燃料やコンピュータなど、未来をささえる最新技術にも利用されています。
インドと中国の人口を合わせると、来年には地球上の80億人のうち30億人近くを占めるようになるという。
現在、インドの人口14億1000万人は中国の14億2000万人より少し低い。しかし、インドは 2050年には 16億6000万人を記録し、巨大なアジアの隣人中国は 13億1000万人と推定されて人員で遅れをとるだろう、と国連は世界人口デーの発表で述べた。