「四季」 折々に思いつくまま!

いつも元気で、笑顔で、楽しい 「好々爺」です <ASC23期生>

9月 長月

どことなく季節の移り変わりを感じますが、まだまだ暑い日が続く気配が、でも 暦の上では9月は「秋」です。

日本では、9月を長月(ながつき)と呼び、詠月(ながめつき)・菊月(きくつき)・晩秋(ばんしゅう)・玄月くろずき)と色々と呼ばれ、その名からして「秋らしさ」を感じますね!

日本は学校年度や会計年度は大半が4月始まりですが、世界に目を向けると9月を採用している国が多く、アメリカ合衆国、カナダ、ヨーロッパ、中華人民共和国等が有ります。

今年の夏は、長雨が続き、また雷を伴ったゲリラ豪雨に猛暑と、ロシアがウクライナに侵略が半年が過ぎても戦火はいまだに続き平和はいつ ! 小麦の輸出や天然ガスが滞り、そして中国と台湾との悪化などなど世界情勢、経済の悪化が進むばかり、コロナウイルス感染も依然と拡大の一途、でも入国旅行者など緩和対応?? 安心できない!

7月27日は「スイカの日」でした !

イカは夏の果物を代表するスイカの縞模様を「横綱」の綱に見立て、「な(7)つのつ(2)な(7)」『夏の綱』と読み、上から読んでも「なつのつな」下から読んでも「なつのつな」と語呂合わせから制定されたそうです。

テレビで、名古屋市がスイカの購買額が日本一と !

日本で一番 スイカにお金を使っているのが名古屋市民とのニュースです。

総務省が発表した「スイカの購入額ランキング」 なんと年間1940円で名古屋市が1位!

こんな証言が!ステーキのあさくまのサラダ バーコーナーにスイカを出すと、アットゆう間になくなるそうです!

証言その2・全国に展開するスーパー「アピタ」のスイカコーナーで、お客が手に取っていたのは金額が割高のカットされたスイカで、それが購入額を押し上げているかも ?

証言その3・江戸時代にスイカが広まった産地は三河紀州で、特に三河は江戸時代からのスイカの名産地で食文化DNAがどっぷりと根付いているからとも?

今ではスイカの販売方法も多様化して、スイカは1個買いが当たり前と思っていたのですが、色々なサイズにカットされたものが有り、1口で食べられるよう細かくカットされた物もありますね!   (写真はネットより)

中身をスプーンなどを使ってくり抜きます (^^)/ 

イカとは、ウリ科スイカ属に分類される植物の果実です。 苗を植えて1年で収穫される一年草のため、本来は野菜に分類される植物ですが、一般的には果物として扱われているため農林水産省では 「果実的野菜」 として取り扱われています。 いちごやメロンも、スイカと同じ果実的野菜です。

イカの原産地はアフリカと言われており、日本には平安時代に伝わったとされています。中国より西から伝わってきた瓜(うり)のため、「西瓜(すいか)」と書きますが、これは中国で西域(さいいき)から伝わった瓜の意味です。

「西瓜」は、明治時代には品種改良が進み、現在のようなスイカが栽培されるようになったと言われています。

英語ではウォーターメロン(Watermelon)といい、    水分(すいぶん)の多い瓜(うり)という意味です。江戸時代には「水瓜(みずうり)」とも書かれました。果肉の水分が90%もあるジューシーな果物で、シーグァの文字と読みがそのまま伝わり名前がついた。

イカは、世界中で年間 117,204,081トンのスイカが生産されています。

世界の70% のスイカを消費するスイカ大国『中国』

中国は世界で最大のスイカ生産国で、約60%と半分以上を占め年間79,244,271トンの生産量を誇っています。 2位は トルコで、1桁減って年間生産量は3,928,892トンです。3位はインドと続きます。そしてイラン、ブラジル、エジプトと続き、寒暖差が激しい地域が突出しています。  日本は 344,800で30位です。

国連食糧農業機関(FAO)によるデータによると、2016年に中国が輸出したスイカの量は約2万9900トン、逆に同年に生産された量は1億1700万トンだとされています。

これを裏を返せば、大量に生産されたスイカのほとんどを中国は国内で消費しているということになります。

1人当たりのスイカ消費量をざっくと試算すると !

2021年5月にNHKが発表した人口統計によると、中国は約14億1000万人で、世界一位の人口です。

まず、確認出来る2019年のトータル生産量である約6000万トンはキロに直すと、 60000000000キロで、 その重さなんと約600億キロ!

これを単純に人口で割ると!600億を14億1000万で割ると、

およそ42.5キロとなります。

平均的なスイカの重さを、約6キロほどだとすると、

1人当たり、1年でスイカを消費する量は 7個 となりますね !

中国の国内のスイカ消費量がいかに多いかが分かりす。

多く生産量があることから、輸出量も多いんだろう と想定しますが !  ほとんどが国内で消費されているということに驚きを隠せません! (@_@)

中国人とスイカの歴史は長く、南京農業大学で農業史を研究している李昕升准教授によると、

中国 1991年に西安市の東部郊外にある唐時代の墓から、唐時代の有名な陶器「唐三彩」の中にスイカの作品がが発掘されている。この時代にはスイカは既に原産地のアフリカから中国に伝わってきたことが分かります。

南宋朝の中期には、スイカは江南地域に広く植えられ、元朝の時期には数十種類のスイカの品種の記録が残っていて、中国人には1000年にわたる「スイカを食べる伝統」があると指摘しています。

2011年に中国で起きた、【スイカ爆発事件】?

中国江蘇省丹陽のスイカ畑で事件は起きました ! スイカ畑で育つスイカがある日突然、何のきっかけもなしに爆発した。スイカは1つではなく次々と割れて爆発し、最終的に 50ha もある畑のスイカがほぼすべて爆発してしまったそうです。

イカは成長過程の後半、高温や降雨量が多いなどの天候によって、スイカの外側(皮)よりも実の部分の成長度合いが勝り、スイカの内圧が高まることで破裂してしまうという事が起こることで、じつはスイカの爆発そのものはそう珍しいことではないそうです。

簡単にいえば、外側よりも中身のほうが大きくなってしまったり、収穫後にイカ内部の腐敗によってガスが発生し、破裂することがあるそうです。

しかし、爆発の引き金となったのは、

 農薬『ホルクロルフェニュロン』だった!

メロン・スイカ・カボチャなどの栽培時、着果(実をつける工程)を促進させるために散布する植物成長促進剤の『ホルクロルフェニュロン』という農薬が原因だった!

農薬が原因でスイカが爆発するなんて想像できませんが、【天候条件】と【化学物質の作用】によって引き起こしたと言われています。

やはり自然の摂理に逆らって、薬品などで食物を育てるとどこかしらに問題が起きてしまうかもしれない危険性がありますね !

農薬が危険とは言っても、植物を害虫から守るための薬品などがなければ、それはそれで植物に有害なので、農薬すべてが悪いという訳ではありませんが、なるべく植物の自然な流れを崩すことなく育てていけば、美味しい実をつけてくれると思います。

植物や食物などを自家栽培(家庭菜園)する方も増えてきた昨今、すう株であれば害虫などに気を付け、無農薬で愛情をかけて育てれば大きなスイカが収穫間違い  (^o^)

農薬『ホルクロルフェニュロン』は、以前日本でも使用されていたこともあるそうですが、今現在では使用している農家はないとのこと。

  

イカの生態は非常に奥が深く、その歴史は遥か5000年もさかのぼることが出来るほど世界中で愛されているフルーツの1つです。

イカの原産地については、様々な説がありますが、1857年にイギリス医療伝道者リビングストンがアフリカ探検の際に、南アフリカ中央部、カラハリ砂漠、サバンナ地帯でいろいろなスイカの野生種を発見し、以来、南アフリカがスイカの原産地とされています。

栽培の歴史は、原産地に近く、古くから文化の開けたエジプト、インド、ギリシャに始まり、 4000年以前の壁画から、スイカ栽培が実証されております。

特にエジプトではスイカの種は、ツタンカーメン王の墓など 3000〜4000年以上前に作られたエジプトの墓でも発見されております。壁画にもスイカが描かれ絵の中には、楕円形のスイカが大皿に載せられているものが描かれている。

旅の必需品だった !

イカは日陰の涼しい場所に置いておけば数週間から数カ月間保存が効くため、エジプト人は水分を貯蔵するためにスイカを栽培するようになったと考えらています。

「エジプトの王たちが没した後、死後の長旅の道中で水分が必要だろうと供えられたのがスイカだった」とも推察されています。

紀元前400年〜紀元500年頃の文献からは、スイカがアフリカ北東部から地中海へ広まっていった様子が読み取れる。こうしたスイカの普及には、交易品として利用されたことのほか、長旅の水分補給源として重宝されたと考えられます。

ギリシャでは、西暦紀元初期、ヨーロッパ中部からインドまで分布し、中央アジア、中近東などの内陸乾燥地帯を中心に発達しました。

そして、11世紀頃に中国にウイグルから伝来してきたと言われています。『五雑俎』に「西瓜 (スイカ)、宋浩晧より、始めて携えて中国にかえる」とあります。

 スピッツ (砂漠の花)

日本のスイカの起源  についての正しい時代考証がむずかしく、、

古い記録では、室町時代の五山僧文学者である 南禅寺の住職 義堂周信 ( 1389年4月没 64歳 )が書いた『空華集』のなかに「和西瓜詩:西瓜を和む詩 」と題して「西瓜今見生東海剖破含紅玉露濃」とあり、すでにスイカが存在していたことが判ります。

しかし、鳥羽僧正 :平安時代(1053~1140 )の『鳥獣戯画』にウサギが持っている果物の中に縞皮スイカらしいものが絵が描かれています。 (画像はネットより)

はっきりとした作者なども不明瞭なため正確な判断は難しく、鳥獣人物戯画が制作されたのは平安時代から鎌倉時代にかけてだと言われている。

  <鳥獣人物戯画=西暦1053~1140年頃 室町時代=1300年頃 ~>         

もし、スイカであるかどうかによって100年以上の空白が出来ます

仮にこのシマシマの物体がスイカであれば、平安時代にはすでにスイカは日本にあったことになります。

その起源は非常に古く、中国にスイカが入ってすぐ、日本に渡来したことになります。平安時代の日本と唐の間で交流の盛んであった年代から推しても、当時、中国からスイカが渡来していたであろう事が推察される。

イカが一般に知られるようになったのは江戸時代に入ってからで、『江戸砂子』に『 西瓜は寛永中 (1624~1644) に初めて渡り、薩摩にうゆるによりて薩摩の種子を上品とす。そして、京・江戸へ来るは延宝 (1673~1681) の頃なり』とあります。

また、『本朝世事談綺』にも『 承応中(1652~1655)、藤堂家の呉服所菱屋某、長崎において此の種をもとめ、勢州津 (三重県津市) にいたって太守 (藩主・藤堂家 )にささぐ』とあります。

『その者の邸宅に植えしむ。 甚だ出来たり。 この種、祖にして近国にありといえども、いまだ狭し。 人またあやしみて食せず。 寛文・延宝のあいだ、長崎より大阪につたえ、京・江戸に広まり、いま盛んなり 』とある。

日本に伝来した時期については、確実に存在を見られるのは江戸時代に入ってからですね ! スイカ栽培を生業としていた方々がいたからこそ、現代の我々も美味しいスイカが食べられると考えると、やはり感慨深い気持ちになります。

江戸時代の『農業全書』(1696)に「たねに色々あり。じゃがたらと云うあり。肉赤く味勝れたり」と記述があります。

元禄15年(1702)に著された『摂津名所図会』のなかに、津の国に古くから名産のスイカがあり、「鳴尾西瓜」と呼ばれて味豊かな一品と言われている。

徳川中期以降『重修本綱目啓蒙』に、「蛾蝟子」や「南京」と呼ばれる品種で外皮黒緑色、円形、赤肉種であると書いてある。これが後年になって俗に言われた黒皮スイカであろうか?

『津木六部耕種法』のなかに、「反当利益が、稲一両二分に対して西瓜十両」とあり、徳川時代には、スイカはすでに一般販売され、品種意識もかなり進んでいたように思われる。

明治に入ると、アメリカ合衆国から「アイスクリーム」等の品種が導入され、明治末期にはロシアから「スイートサイベリアン」、大正時代には中国から「嘉宝」、アメリカから「甘露」が導入され、日本におけるスイカの品種改良が盛に行われる。

その結果、特に奈良県では、商品性の高い「権次」や「アイスクリーム」が奈良の風土に順化し、大正12年奈良県農業試験場が、自然交雑系「大和」を県内24ヵ所から収集し、優良系を選抜、純系淘汰を行い、大正15年に「大和2号」、「大和3号」、「大和4号」を育成し、近代的スイカ品種の基礎を築いた。

さらに昭和3年には、この「大和3号」と「甘露」を組合わせた一代交配、「新大和」を育成した。さらに一代交配「新大和」の後代から「新大和1号」、「新大和2号」、「新大和3号」、「旭大和」が育成された。

千葉においても、千葉県農事試験場が大正13年から品種改良を開始し、「大和」から「千葉1号」を分系し、「甘露」との交雑育種を行い、昭和6年からいわゆる「都系」といわれる「都1号」、「都2号」、「都3号」の品種育成に成功し、関東地方の近代品種の基礎となった。

現在は、アメリカや中国から導入されたものと、日本で育成したものをあわせると150種以上の品種があります。大きく分けると紅肉、黄肉、白色種の3つがあるが、紅肉種が 90パーセントを占めます。

「タネ無しスイカ」は、京都帝大の木原均博士が昭和17年より研究を始め、23年5月に栽培に成功したものです。

また、家庭用冷蔵庫で冷やしやすいことを目標にして、昭和34年に小玉スイカが誕生しました。時代が変わり、大きいことがいいことではなくなった。(>_<)

イカは庶民の生活と共に変化を遂げてきたといえますね !

ねずみ大根の花、おろして和そば汁に入れて食すると最高 !

<8/16 中日新聞より >

愛知県内 最高年齢 者は、 

名古屋市瑞穂区 女性が老衰により、112歳にて死去と発表される。これに伴い常滑市の女性 111歳が最高齢となる。

8月11日から始まった「踊るあほうに見るあほう」 !

徳島のお盆の風物詩「阿波踊り」が15日に最終日を迎えた ! 2020年から中止や期間の短縮でしたが、3年ぶりに熱気に包まれ「チュウド連」などといろんな「連」グループが登場し、迫力ある男踊りと華麗な女踊りが披露された。

また誰でも参加出来る「にわか連」も登場し約100人も練り踊られた! 

 

平和の俳句『踊った叫んだ!走り出した終戦の日 

                      敦賀市 立石さん(87歳)

1945年8月15日 終戦を知らされた日をよ詠んだ句です。 

小生(80歳)が叔父から後に聞いた話です。 近所の人々がお寺に集まりラジオで玉音放送をきいたが雑音がひどく聞き取れにくく、はっきりと理解が出来なかったが、どうも日本が負けたようだと話ながらゾロゾロとi家に帰った。 大変に複雑な気持ちでこれから何をして良いのか分からなかったと聞きました。

8月26日で、ウクライナ侵攻半年」 戦火絶えず 平和はいつ !

ウクライナにも、『踊って、叫んで走りだす』日が早く来ますように !

 

第104回 全国高校野球選手権大会 8月22日  勝戦 仙台育英高(宮地)が 8ー1 で下関国際を下す ! ついに深紅の優勝旗が、東北勢の悲願白河の関」を越えた。 甲子園球児たちの熱い、熱い戦いが終わりを告げた !

 (画像はネットより)

福島県白川市の国定史「白河関」近くの白川神社では、1997年から東北6県の出場校に「通行手形」を送り続け、悲願「東北は弱い」というイメージの払拭が出来た!と西田宮司は百年超しの歴史的優勝に感慨深い とテレビで話す。

日本には、季節ごとに古くから受け継がれてきた言葉や、習慣や行事がありす。 

食欲の秋・味覚の秋・紅葉の秋・読書の秋・芸術の秋など沢山の言葉が有ります。

しばし、コロナを忘れ「いろんな秋」を楽しみたいですね !   (^o^) 

                            9/1  Marui