「四季」 折々に思いつくまま!

いつも元気で、笑顔で、楽しい 「好々爺」です <ASC23期生>

「23歩こう会」 金華山に登頂  ヽ(^o^)丿

一宮駅 AM8:00 25名 岐阜 金華山に出発です。 上々の晴れです (^O^)/

1567年(永碌10年)織田信長斎藤龍興を倒し、稲葉城を岐阜城に改称し天下統一を

夢見て京に登る足がかりとした金華山(標高329m)、今ではロープウェーで約3分で

山頂です。

登るのは、健脚組の「百曲り」コースと織田信長が馬で通ったと言われる大手道の

「七曲り」コースと分かれて登る。 どちらのコースも1時間もあれば山頂とのこと、

でも、少し楽な「七曲り」をコースを選ぶが、10分も歩いたら噴き出るように汗、息

は切れ、目指す頂上はまだ、まだ遠い、日頃の運動不足がたたる (>_<) 

やっとの思いで頂上につくと、そこには毎日登ると元気な老人が??  

我が班6名は山頂にて解散後「めい想の小道」を無時下山、田楽とビールで乾杯!

川原町まちなみを散策し古民家でのコーヒーに大満足 (^-^) 

                  ほかの班・原田代表に感謝 (^O^)/

 

 1575年、長篠の戦いにおいて織田信長が大量の鉄砲を用いて、武田勝頼の騎馬隊に大勝しましたことは、皆さんが歴史で勉強された通りです。            ここで歴史の裏はなし、、 実は武田軍も大量に鉄砲を持っていたが、初戦で火縄銃に使用する火薬を使いはたし、騎馬軍で応戦するが織田軍の豊富な火薬と火縄銃の三段構えの戦法に敗れた。(>_<)  では、織田軍はなぜ大量の火薬を持っていたか?  それは南蛮貿易の拠点とする「堺商人」を支配し、大量の火薬を輸入していたから「当時の戦い弾薬の量で勝敗が決まる」(>_<) ちなみにタイ産のものが多かったそうです。

日本人が初めて火薬を用いた兵器と遭遇したのは、13世紀後半の元寇に「蒙古襲来絵詞」に書かれている元軍が用いた「てつはう」と呼ばれる火器だと言われています。 日本では、1543年に種子島に漂着したポルトガル人によって、鉄砲(火縄銃)と火薬をつたえと言われています。火薬の原料となる硝石は日本では産出しなく、南蛮貿易で硝石を輸入して火薬を製造していたようです。

日本では、その貴重な火薬の原料となる硝石の製造は?  中国地方の口伝として、ヨモギの根に尿をかけたものを一定の温度で保存すると硝酸ができることを発見。 このことにより、当時は馬の尿とヨモギで量産、このことは厳重な軍事秘密だったそうです。しかし、江戸時代に入り鎖国にて安価な硝石が滞り、当時汲み取り便所の壁、床下の土壌に染み出した窒素に人尿などから生じたアンモニアの作用で亜硝酸・硝酸に変化し硝酸カリウム作り、これを利用して硝石を製造していた。一度掘り返すと20~30年間採取出来ない。この時代の人尿は大切な火薬製造には大切な資源だったようです。(>_<)

                            記 丸井 6/30

追記>

火縄銃とネジ : 1543年」に種子島に漂着したポルトガル人によって火縄銃とネジが伝来したとされています。藩命で刀鍛冶の八板金兵衛が火縄銃を模造するが、銃身の尾栓を溶着して塞ぐが火薬の力が大きく暴発し尾栓が飛び射撃手が大けがをする事故が多発する。 どうしても良い解決策が見つからない!  そこで、八板金兵衛は自分の娘 若狭をポルトガル人に嫁がせてまでも尾栓にネジで塞ぐことを収得したとの伝説が有ります。またネジを収得するまでに八板金兵衛は両眼を失明したとも言われています。苦心の国産火縄銃はこうして製造されました。それまで日本でネジがが使用された証拠は発見されていません (>_<)

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このように、火縄銃と一緒に「ネジ」が伝来したことはあまり知られていませんネ!