「四季」 折々に思いつくまま!

いつも元気で、笑顔で、楽しい 「好々爺」です <ASC23期生>

3月  やよい

3月は弥生(やよい)と言われ、草木がいよいよ生い茂るという意味が有ります。

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万葉集は、7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集です。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌が、なんと4500首以上も集められています。

中でも梅を詠んだ歌は萩に次いで多く、なんと118首もあるそうです。昔は、花と言えばまず「梅」を指していたほど、万葉の人々から愛されていました。

美しい梅の花は、昔から人々の心をとらえ歌にも愛され詠まれてきました。

 東風(こち)吹かば にほいおこせよ梅の花

                                                主なしとて春な忘れぞ

この歌は菅原道真が、無実の罪で京都から九州の大宰府に左遷されたとき、京に残してきた梅を懐かしんで詠んだものといわれています。後に、この梅が道真を追って大宰府へ飛んできたという「飛梅伝説」があります。

彼の死後、京の都では天災や疫病が相次ぎ、道真の怨念ではないかと恐れられました。これがきっかけで北野天満宮が建立され、今も命日の2月25日には梅花祭が盛大に催されています。

太宰府天満宮の境内には 約6000本の梅があり、梅の名所で本殿の前、向かって右にあるのが「飛梅」で、京都から飛んできたという伝説の梅があります。

日本の梅は、古くから日本(九州北部)に自生していたという説もありますが、奈良時代以前に、中国文化と共に遣唐使が 薬木として、中国(湖北省四川省)から日本に持ち帰ったものといわれています。文献・学者の多くは中国原産地説をとっています。

日本では花がまず人々の関心をひき、果実の利用はその後になったのに対し、中国では果実の利用が先であったようです。

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蝋梅(ロウバイ)です (^^♪ 甘い香りがします。中国原産で唐梅とも言われます。

日本では、梅の実が古代から菓子や薬に、時には縁起物として重宝されるだけでなく、歴史や食文化に深く寄り添ってきました。

奈良時代「梅実の生菓子」

梅は奈良時代に、中国から薬木として渡来したとされています。そして、貴族は観賞用、薬用に競って自邸に植樹しました。

当初は、実は生菓子にして食べていたようです。「貞丈雑記:ていじょうざっき」には【菓子は、蒸菓子や干菓子のことではなく、果物を菓子という】と書かれています。 

また、「和名抄:わみょうしょう」にも梅は木の実・果物に分類され、桃・ビワ・ナシなどと共に梅を生菓子として食べていたと記されています。

古事記が成立(712年)した、200年余り前の「斉民要術」に梅の塩漬けが記録されています。

平安時代の「医心方(いしんほう)」に、

日本最古の医学書「医心方」は、平安中期の医師 丹波康頼 (たんばのやすより)  が 984(永観2)年に著したもので、六朝(りくちょう)・隋・唐 時代の中国や朝鮮の医薬書から引用し、医学全般にわたって説き書かれた著書で、次のように、

食養編には、すでに梅の実は「梅干」として登場し、効用が「味は酸、平、無毒。気を下し、熱と煩懣を除き、心臓を鎮め、四肢身体の痛みや手足の麻痺なども治し、皮膚のあれ、萎縮を治すのに用いられる。下痢を止め、口の渇きを止める」と記述されております。

村上天皇(在位946〜967年)が疫病にかかったとき、梅干しと昆布を入れたお茶を飲んで回復されたという記録もあり、これが元旦に飲む縁起物として今に受け継がれている「大福茶」の起源とされています。この年が申年であったことから、以来、申年の梅干しは特別なものとして珍重されるようになった。

『  “日本一高価な梅干し”とされている「丙申年の梅 五福」がテレビ番組で紹介された! 12年に一度しか販売されない限定品で、最近では2016年に発売されました。 値段は1.8kgだと10万8000円、たった1粒だけでも3240円です。実食したMCさん「結構な塩味やね!」と驚いていた』日本テレビ系)

青梅をかまどの上でカラスのように真っ黒に燻製(くんせい)にし、乾燥させた「烏梅(うばい)」を、解毒や下痢止めなどに利用したそうで、現在でも漢方薬のひとつになっています。

御所の梅の木が枯死したので代わりの木を探し求めさせたところ、歌人紀貫之の娘の屋敷の梅が名梅であるとして御所に移植されることになりました。

別れを惜しんだ娘は「勅なればいともかしこき鶯の 宿はととはばいかがこたへむ」(帝の御命令でございますこと、贈呈致します。しかし、毎年この庭に来てこの梅の枝に宿る鴬が我が宿は如何したかと尋ねられたならば、さてどう答えたらよいのでございましょう)という一首を詠んだところ、哀れに思った村上天皇の命で梅の木は娘の元に戻されました。 この逸話の梅を「鶯宿梅」と称します。

鎌倉時代は「縁起物」

「世俗立要集」という文献には、「梅干ハ僧家ノ肴」と書かれています。つまり、梅干しはお坊さんの酒のさかなとして利用され、また、禅宗の僧は点心や茶菓子として、梅干を用いた。

この風潮はやがて、武家の食膳にも広がり、武士の出陣時には、兵糧(ひょうりょう)として戦陣の携帯用食料として、また凱旋(がいせん)時に縁起がいい食物として梅の実が用いられるようになったそうです。

気前がいいことを「大盤振舞」といいますが、この語源にも梅がかかわっています。 この時代の大切な儀式のひとつとして、元日より数日にわたり有力な御家人が将軍に対して「椀飯振:おうばんふり」を奉る。というものがありました。

献立は椀飯とクラゲ・打ちアワビ・梅干の3品に酢と塩を添えたもので、折敷に載せて出したといわれています。

「椀飯振」がのちの「大盤振舞」という言葉の語源となったそうです。

そして、室町時代に入りやっと武家の食膳にも梅干しがのぼるようになります。

戦国時代の「梅干丸」?

江戸時代にされた「雑兵  物語』には、戦に明け暮れる武士は、食料袋に「梅干丸:うめぼしがん」を常に携帯していたと書かれています。

「梅干丸」は、梅干の果肉と米の粉、氷砂糖の粉末を練ったもので、激しい戦闘や長い行軍での息切れを調える「息合の薬」として、生水を飲んだ時の殺菌用としておおいに役立ったり、また、梅干のスッパさを思い、口にたまるツバで喉の渇きを癒(いや)したそうです。

このように、梅干しは戦国時代に万病の妙薬として重宝されたそうです。

江戸庶民の梅干を食べる習慣が全国に広がるにつれ、梅干の需要は益々多くなります。

紀州の梅干は「田辺印(たなべじるし)」として、特に評判を呼び、田辺・南部周辺の梅が樽詰めされ、江戸に向け田辺港から盛んに出荷された。

ある春のこと、豊臣秀吉が床の間に置いた水を張った大きな鉢の傍に、紅梅一枝だけを添え、千利休に「この鉢に、この梅を入れてみよ」と命じました。側近たちが「これは難題だ」とハラハラして見守っている中、利休は平然として紅梅の枝を手に取ると、紅梅の花とつぼみだけをさらりと鉢に入れたのです。水面に浮かんだ紅梅の花の風情に、秀吉は上機嫌になったといいます。さすが利休さん (^^♪

江戸時代の「庶民の楽しみ」

一部の人しか食べられていなかった梅干も、江戸時代になると庶民の家庭にも登場するようになり、うどんやそばの薬味などに使われ次第に庶民の食卓へ普及していきました。

そして、大晦日や節分の夜に、梅干に熱いお茶を注いだ「福茶:ふくちゃ」を飲み、正月には、黒豆と梅干のおせち「喰い積み :くいづみ」を祝物として食べられました。

幕府が梅を植えることを奨励し、江戸中期には冬が近づくと梅ぼし売りが、納豆売りや豆腐売りと同じように、街を呼び歩き冬を告げる風物となった。

徳川家康が晩年を過ごした駿府城には美しい梅の木があり、熟すと種が二つに割れる大変珍しい木で、実割梅と呼ばれていました。当時、駿府城ではこの実割梅から梅干を漬け、東照宮に納めるしきたりだったそうです。この木は、徳川家康公が自ら植えたものと言われており、その後、駿府城から東照宮の境内、唐門下に移植されました。

明治時代「薬効・殺菌力」を実践!

明治11年、和歌山でコレラが発生し、翌年にかけ 1768人の死者が出た。この時、梅干しが予防・治療に用いられ、梅干の殺菌力が見直され需要が急増します。
また日清戦争の頃、軍医の築田多吉 (つきだたきち) が、外地で伝染病にかかった兵士に梅肉 (ばいにく) エキスを与えて完治させ、梅干の薬効を実践された。
以来、梅干しの需要が大きくなるとともに、現在では梅酒や梅ジャム・梅エキスなど、梅製品が数々生まれてきました。
梅の花は、他の花に先がけて春を告げ人々を魅了し、平安時代に入ると貴族の紋章として梅の花がつかわれ、梅鉢・裏梅・ねじり梅など多数の意匠が多くみられます。着物文様、器物に、絵画の題材となり、日本文化には欠かせない豊かな彩を添えています。 

「梅」 豆知識

◆  名前 の由来「うむみ(熟実)」の約転。薬用として渡来した燻し梅「烏梅(うばい)」に由来。 中国音「メイ」の転訛。・・・など、いろいろな説があります。 日本では、奈良時代万葉集」では  "ウメ" 平安時代以後は  "ムメ"  現在は  "ウメ"  と言っている。

◆  花言葉 は、忠実、気品

◆  梅はバラ科の植物 で、スモモ亜属 に「ウメ」は属している。

◆  料理の塩加減や、物事の具合を表すときに「あんばい」といいます。これは調味料の乏しかった古い時代に重宝された塩と梅、つまり「塩梅(えんばい)」に由来し、のちに現在の「あんばい」となる。

◆  花も実もある! 春に先がけて花が咲き香り、実っては健康食品として役立つことから、「梅」を指す言葉ではないかと言われています。外観も美しく、内容も充実していて、筋も通り、情味も備わっていて、手落ちのない人物をたとえ「花も実もある」と言いますネ。

◆ 「 梅根性」 梅は、梅干にしても梅肉エキスにしても、煮ても焼いてもまだスッパイことから、頑固でなかなか変わらない性質を、いい意味での頑張り屋さんのことを「梅根性(うめこんじょう)」と言います。

◆「 うなぎと梅干は食べ合わせが悪い」と言われますが、実際に、この食べ合わせを信じて避けている人も多いようですが、本当にこの説は正しいのだろうか?

医学的には、梅干しは胃酸を濃くして、うなぎの油性の消化を助けるので一緒に食しても良い。食べ合わせの言い伝えには根拠なし、 (^^♪

もう一つ、

「桃栗三年 柿八年 柚(ゆず)の馬鹿野郎十八年 梅はすいすい十六年」

物事は簡単にうまくいくものでない、何ごとも成し遂げるまでには相応の年月が必要、人生地道に努力と忍耐が必要との諺です。

桃栗三年 柿八年、、この後に続くフレーズがあったとは???

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3月3日は桃の節句です!  女の子の節句「おひなさま」を飾り、女児の成長や幸せを家族の皆さんで願います ヽ(^o^)丿

ひな祭りは、もともと古来中国において三月の最初の上巳(じょうし)の日に、災いを祓う行事が起源と考えられています。

日本に伝わったのは、7世紀頃に平安時代中期(約1000年前)までさかのぼります。そして、お祝いとして宮中の年中行事となり、江戸時代の初期の寛永6年(1629年)御所でも盛んに「ひなまつり」が催されて以降、庶民にも定着していったと言われます。
その頃の人々は、三月の初めの巳の日に、上巳(じょうし、じょうみ)の節句といって、無病息災を願う祓いの行事が起源と考えられています。

陰陽師(おんみょうじ)を呼んで天地の神に祈り、季節の食物を供え、また人形(ひとがた)に自分の災厄を托して海や川に流しました。
また、上流の少女たちの間では “ひいな遊び” という紙などで作った人形と、御殿や、身の回りの道具をまねた玩具で遊ぶもので、いまの “ままごと遊び” がされていた。  このことは紫式部の『源氏物語』や、清少納言の『枕草子』にも見られます。

 ◆  上巳の節句が三月三日に定まったのは、わが国では室町時代(約600年前)頃のことと思われます。しかし、この頃から安土・桃山時代にかけては、まだひな人形を飾って遊ぶ今のひな祭りとはかけはなれた、祓いの行事の日でした。そして華やかな女性のお祭りとなるのは、戦国の世が終り、世の中が平和になった江戸時代からのことです。

 ◆  江戸初期の寛永6年(1629)、京都御所で盛大なひな祭りが催されました。この頃から、幕府の大奥でもひな祭りを行うようになり、やがてこの習慣は上流から町民へ、大都市から地方へと大きく広がっていったのです。

そして江戸中期には、女性たちばかりでなく、女の赤ちゃん誕生を祝う初節句の風習も生まれて、ひな祭りはますます盛んとなります。

 ◆  江戸市中には雛市(ひないち)が、日本橋十軒店(じゅっけんだな・いまの室町)や浅草茅町(かやちょう・いまの浅草橋)など各所に立って大変にぎわいました。またこの頃から附属のひな人形やひな道具の種類も多くなり、かなり贅沢なものが作られるようになりました。幕府はひな人形の華美を禁じるお触れを再三出しています。

 ◆  明治に入ると、新政府は従来の節句行事を廃止して新しく祝祭日を定めますが、節句行事は一時衰えますが、しかし、長い間人々の生活に根を下ろした行事は簡単になくなるものではなく、やがて復活します。こうして上巳、端午、七夕など子どもに関係深いお節句は、いまも民間行事として盛んに行われています。

いつの時代も子供を大切に育て、お祝いするのは  (^^♪ 今も変わらないですね! 

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 お内裏様 と お雛様の左右はどっちが正しいの?

現在一般に広く売られている雛人形は「関東雛」で向かって左側がお内裏さまです。またその逆で向かって右側にお内裏さまの場合は「京雛 と言われいます。

日本ではもともと位の高いひとが左側だったので、男雛が左、その右側に女雛を飾るのが当然で明治まで全国的でした。

しかし明治時代に西洋の流れを受け、国際礼儀である「右が上位」の考えから大正天皇即位の礼で、大正天皇の右側に皇后が立たれた事からこの風習が広まり、関東雛が主流になった。 ちなみに結婚式も記念写真も常に新朗が右で新婦は左ですネ!

(^^♪ さねかつら(実葛・核葛)が  実を付けた  (^^♪

鳥が実を運んだのか、ひとりばえ!

モクレン科 サネカズラ属の常緑つる性の真葛(さねかずら)です。花は夏に咲き、秋に赤く丸い実をつけます。枝に粘液があり、暋(びん)付け油の原料として使われるので、江戸時代には美男葛(びなんかずら)とも呼ばれたそうです。

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 さね葛(かづら) 後 (のち) も逢はむと 夢 (いめ) のみに
  うけひわたりて 年は経 (へ) につつ 
                          柿本人麻呂歌(万葉集
さね葛が伸び、あとで絡まり合うように、後にでも逢おうと夢の中ばかりで祈り続けているうちに、年はいたずらに過ぎて行きます。 

 

2月末で、新型コロナ「緊急事態宣言」が解除されました。しかし何も状況が大きく改善もなく心配は依然解消されないのに  (?_?) コロナワクチンを受けた方は医療従事者のみで、まだまだ一般の方にはいつか不透明ですネ!  いつになったらと思うと溜息が、、、、(>_<)

日中は春の陽気を感じられる日が少しずつ増えてきました。ただ朝晩はまだ冷え込む日が続きますので、寒暖差で体調を崩さないよう気を付けたいですね!

春を探しに出かけるのも、今しばらく我慢 !

                            2021.3.1. Marui

 

もうすぐ、2月です! 

『鬼は外 福は内」と厄払いでお馴染みの「節分」

節分は何日かと聞かれたら2月3日と答える人が多いと思いますが、国立天文台暦計算室によりますと、本年は『立春』が2月3日となり、豆まきが行われる「節分」は「立春」の前日とされていますので2月2日となります。 

暦のずれの影響で「節分」が1日早く2日になるのは、明治30年(1897)以来124年ぶりのことだそうです。

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 2021年尾張恵方観音様」は「南南東」笠寺観音です 

およそ400年前に徳川家康公が尾張の国の中心として名古屋城を築き、名古屋城から見て鬼門の方角にあたる 笠寺観音(南区)、龍泉観音(守山区)、荒子観音中川区)、甚目寺観音(あまを鎮護・尾張四観音と定めました。

皆さん、宝くじを買うときは自宅からみて「南南東」にある売り場で買うと、大当たり間違いないとか? 旅行も「南南東」にある観光地に行けば楽しい旅になりますョ! 恵方の方角を向いて恵方巻きを眆ばるのも定番ですね!

恵方巻きの起源は、江戸時代末期の大阪の船場で商売繁盛の祈願をする風習として始まったとも言われていますが、正確な起源は未詳!

恵方とは、陰陽道(おんみょうどう)により、その年の干支によつて定められ、最も良い方向に福をつかそどる「歳徳神:さいとくしん」がいると言われています。その吉方位を恵方の方角と言われます。

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 節分には「鬼」が大活躍ですね !

節分の豆まきの由来は、元々は中国の行事であり、疫鬼という疫病をもたらす鬼を魔除けの力がある穀物で、追い払うというものです。

日本では、飛鳥時代からの「追儺」と呼ばれる宮中行事だと言われております。
鬼を払う役人が矛と盾を持ち、貴族たちがそれに従い、鬼を追いかけまわす行事です。

奈良時代文武天皇)に謎の疫病が流行し国内が危険状態が続き、宮中で疫病を払うため「鬼やらい」の儀式が行われました。これが「豆まき」の始まりとされています。

そして、平安時代になり、現在の節分の形である「鬼を豆まきで追い払う」という催しに変化しました。
仏教では「鬼は煩悩と呼ばれる人の欲望や悪い心に住み、それが災いとなる」と考えられていることから、広く寺院で催事として執り行われるようになります。

江戸時代になると庶民たちの間で仏教が広まり、節分の催しが定着していったとされています。節分の鬼は災いを防ぐために、鬼が住む煩悩を追い払う」というところから、分かりやすく鬼を追い払い、福を内に入れるという形に変化していったと考えれています。

豆まきをするのは、中国の習俗が伝わったものとされています。豆は「魔滅:まめ」に通じ、無病息災を祈る意味があります。昔、京都の鞍馬に鬼が出たとき、毘沙門天のお告げによって大豆を鬼の目に投げつけたところ、鬼を退治できたという話が残っており、「魔の目(魔目=まめ)」に豆を投げつけて「魔を滅する(魔滅=まめ)」に通じると言うことです (^^♪

豆まきに使う豆は炒った豆を使います。なぜなら、生の豆を使うと拾い忘れた豆から芽が出てしまうと縁起が悪いからです。「炒る」は「射る」にも通じ、鬼や大豆は陰陽五行説(五行:「木」「火」「土」「金」「水」)の「金」にあたり、この「金」の作用を滅するといわれる「火」で大豆を炒ることで、鬼を封じ込めるという意味があります。そしてまいた豆を人間が食べることにより、鬼を退治したことになります (^^♪

歳の数に一つたして食べましょう  ! 歳をいっわって少なめに ????

鬼のパンツは、しましまパンツ~ ♪ ♪  

小さい頃、こんな歌を歌いませんでしたか? 
鬼がトラのパンツをはく訳けは、「鬼門」に由来するそうです。「鬼門」は鬼の出入りする方角で「北東」とされ、この方角は十二支にあてはめると「丑」「寅」の方角(うしとら)にあたります。そのため、古来鬼は「牛(丑)」の角(つの)をもった姿で、「虎(寅)」のパンツを身に付けているそうですよ  (^^♪

 鬼と言えば、空前のヒットになった鬼滅の刃 2020年間コミック発売部数は5000万部を超え、コミック累計発行部数も1億部突破、煉獄杏寿郎を準主役に据えた劇場版映画でもわずか公開3日で興行収入は50億円  、少年ジャンプの掲載も惜しまれながら2020年5月に完結されました <作者は、吾峠呼世晴:ごとうげこよはる>

物語は『時は大正時代、炭を売る心優しき少年・竈門炭治郎(かまど たんじろう)は、家族を鬼に皆殺しにされ唯一生き残った。鬼に変貌した妹・禰豆子(ねずこ)を元に戻すため、また家族を殺した「鬼」を退治に炭治郎と禰豆子は旅立つ、、、』

鬼滅の刃』の「鬼」はすべて元人間 ! 人間と鬼とは、真逆の存在である一方で多くは利己的で、さまざまな悲しい過去や逃れがたい境遇、自らのコンプレックスなどを食べることで力をまして「鬼」となり登場しています。

岐阜 鬼岩公園の蓮華岩「鬼滅の刃」の聖地に? 

主人公の竈門炭治郎が修行の際に刀で岩を割るシーンがあります。それに似ている鬼岩公園の蓮華(れんげ)岩を、御嵩役場の職員が「鬼の一刀岩」と名付け SNSに発信 すると「聖地」と人気急上昇! ひと目見ようと訪れる人が急増しているそうです。

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鬼岩公園の  蓮華岩「鬼の一刀岩」 高さ10m 縦に7mの亀裂が

鬼岩公園には、約800年前に鬼が住んでいたという伝説があります!悪行をしていた「闇太郎」という鬼人が武士に成敗され、死ぬ間際に改心したことから、鬼岩公園の鬼は「福鬼・善鬼」と言われ、節分では「鬼は内、福は内」と言います。

古代や中世の人々にとって“鬼”は恐怖の対象だった!

 吉野山が鬼に染まる「鬼フェス in 吉野山1月18日~2月9日
上町エリア、下町エリア、中町エリアの各エリアで、夜に「鬼火ライブ」が催されるほか、鬼のフェイスペインティングやフォトコンテスト、バルチケットで吉野山のグルメや土産物の買い物が楽しめる「鬼バル」、吉野山朱印巡り(参加寺社に限る)などが行われます。 (写真はネットより:奈良観光協会

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節分には、「福は内、鬼も内」と唱え、全国でも珍しい節分行事「金峯山寺節分会 鬼火の祭典」もあります。県内寺社の鬼が吉野に集う「鬼の夜会in吉野山」が必見です。

岐阜 玉性院  釣り込まれ節分

《慶長年間(1604~14年)創建》 (画像はネットより)

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毎年1月中旬から「加納桜道3」交差点に 7.2mの鬼が交通安全を見守ることで知られています (^^♪ 赤鬼にふんした厄男を神輿に、おかめにふんした厄女を御所車に乗せ町内を練り歩いた後、赤鬼が担ぎ手の中に飛び込み、もみくちゃにされながら本堂につり込まれ無病息災を祈る行事です。福は内が5回で、6回目の鬼は外で終了となります。

 神奈川県 「箱根神社の節分祭はとってもにぎやか! 200余りもの人が行列をなし、逃げる鬼を追いかけます。その途中の芦ノ湖では、なんと水上スキーで鬼が逃げ、「打ち豆船」という船に乗り込んで豆をまくという場面も! この豆をまく役目を果たす人を「御年役(おんとしやく)」と言い、申し込めば誰でも参加が可能 だそうです。(画像はネットより)

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豊橋市にも鬼退治の祭り豊橋鬼祭」が、毎年2月10・11日に「安久美戸(あんくみべ)神明社」で、春の訪れを告げる奇祭です。

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荒ぶる「赤鬼」と武神「天狗」が対決し、天狗に懲らしめられた赤鬼が「たんきり飴」や白い粉まき散らし退散する。見物客は全身粉だれけになり「たんきり飴」を拾い食べ、厄よけ夏病み払いを願う。国の重要無形民俗文化財指定 <画像はネットより>

犬山市には桃太郎伝説が残る「桃太郎神社」があります。桃太郎は悪さした鬼を退治し鬼を改心させますので、ここの 鬼は悪者でないので、節分には「鬼は外、福は内」その後「鬼は内」と豆をまくそうですよ! (@^^)/~~~

山形県 「鳥海月山両所宮」地域に鬼の字が姓に含まれる世帯があるから、落花生をまきながら「福は内、鬼も内」と掛け声をするそうです。

全国の鬼頭さん、鬼沢さん、九鬼さんなど名字に「鬼」のつく家々では、鬼を追い出してしまっては、縁起が悪いから「鬼は内」です。 (@_@。

伝統的な商家も「鬼は内」です? 商家では鬼を「大荷:オニ」としてとらえ、大きな荷物が内(家・お店)に入らないと商売繁盛につながらないため、「鬼は内」です。

平安時代渡辺綱が鬼退治をしたため、鬼たちがワタナベ一門を恐れ、子孫にも近づかなくなったという説があり! ワタナベさんの家では鬼を退治する必要がないので、「鬼は外」と言わない、また豆まきもしない そうです ⁉

群馬県の鬼石地区は、鬼が投げた石でできた町と言われており鬼は町の守り神、その為、節分の掛け声は「福は内 鬼は内」と豆をまきます。

北海道や東北地方では、節分の時期には雪が積もっていて、豆の代わりに殻のついた落花生をまくそうです。

節分の日に四国地方では「こんにゃく」を食べる習慣が? 「こんにゃく」には体内の毒素を外に出して身を清める縁起の良い食べ物だからです。

 節分には「新型コロナ疫病」の収束を願い、豆まきをしましょう! (^^)/  

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クリスマス ローズが咲いた! 春に咲く少ない花で「合格祈願の花」として最近人気です。5枚の がく を持つことから「合格」また、見ごろがおわっても がく が落ちないことから「学力が落ちない」と受験生にとって縁起の良い花です。 受験生の皆さん健闘を祈ります!

(^^)/   2月の暦   (^^♪ 

1953年(昭和28年)2月1日は、NHK東京放送局が日本で初めてテレビ放送を開始されました。最初の第一声は『JOAK-TV こちらはNHK東京テレビジョンであります』だっ たそうです 。

また、1591年(天正19年)2月1日、千利休豊臣秀吉切腹を命じられ自害する。その理由には諸説あり現在でも大きな謎となっています。

1920年大正9年2月2日は、バスガールの日』です。日本で始めてバスガールが誕生した日です。当時の制服は黒のツーピースに白襟で、初任給は35円と超高給待遇の為女性の憧れの職業となりました 。

 ※本年の「節分」が1日早く2日になるのは、明治30年(1897)以来124年ぶりです。

2月4日は、ビートルズの日です。 ビートルズの愛称が「Fab、4」だったから! 

f:id:marui-hall:20210111115455j:plain <ネットより>
ジョン・レノンポール・マッカートニージョージ・ハリスンリンゴ・スター
言わずと知れた伝説的な4人ということで、彼らは「Fab.4(fabulous four)」と呼ばれ、、「Fab.4」を「February 4」ってことです。

1989年(平成元年)2月9日は、「漫画の神様」手塚治虫氏が亡くなれた日です。名作「鉄腕アトム」「火の鳥」「ブラックジャック」など名作が多いですね!

2月11日は、建国記念日です。その由来は『日本書記』に、日本の初代天皇とされる神武天皇が即位した日が2月11日だったと記されています。元々は1873年に「紀元節」という名前で祝日となっていましたが、戦後に廃止。1966年に「建国記念の日」として再度祝日に制定されました。

神武天皇は日本の初代天皇といわれていますが、実在したかは分かっていません。日本神話に登場する天照大御神(あまてらすおおみかみ)の子孫だという話もあります。全国各地に有力者がいて、全国統一がされていなかった当時の日本を初めて統一し、平定した人だといわれています。

1875年(明治3年)2月13日は、「平民ニ令シテ氏ヲ称シ、其詳ナラサル者ハ、新ニ之ヲ設ケシム」という太政官布告される。平民に苗字」をつける事が強制! すべての国民が姓を名乗ることが義務つけられた。

2月14日は、バレンタインデーです。3世紀、ローマ帝国皇帝は、愛する人を故郷にのこした兵士がいると士気が下がると兵士の婚姻を禁止する。そんな中ひそかに結婚を挙行したのがキリスト教司祭「バレンティヌ」でした。このことが皇帝の耳に入り2月14日に処刑されてしまいます。その後その行動を称え愛の守護聖神「聖バレンタイン」として祀られ、愛を伝える日となりました。 (^^♪ 貴方は、本命か? 義理チョコか?

 ◆ 1925年(大正2年)2月17日は、   ツタンカーメン王のミイラが発掘されました。3000点以上の埋葬品が発見しましたが、発掘に携わった人々が5年間で20人以上亡くなったそうです ?!

2月22日は、「ニャン(2)ニャン(2)ニャン(2)」猫の日です。ペットとして人気の犬と猫、犬は縄文時代の頃に番犬として飼われていたそうですが、猫は 飛鳥時代で仏教伝来以後に経典がネズミの被害から守るために中国からやってきたそうです。だから「古事記」「日本書記」「万葉集」にも登場していませんが、紫式部源氏物語」のなかで、光源氏の妻「三宮」が猫を可愛がるのが書かれています (^^♪ 吉田兼好徒然草」の中では「妖怪・猫又:ねこまた」として登場します。

※  猫又とは、猫の尾が二つに裂けて化け妖怪猫となる。この時代猫又になるのを嫌がり、子猫のうちに尾っぽを切る習慣があったそうです (>_<)

 1936年(昭和11年2月26日は、36年ぶりの大雪のなか陸軍兵士1400名、皇道派青年将校による二・二六事件勃発する。内大臣 斎藤実・大蔵大臣高橋是清・陸軍教育総監渡辺錠太郎が襲撃され死亡する。そして首謀者15名はその後、反乱軍として死刑される。その後軍国主義の道へ進み太平洋戦争にいたる。

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今年も蠟梅の花が咲いた! 中国原産・香りがたかいです。素心蠟梅・満月蠟梅・唐蠟梅など種類があるそうですが、我が家の蠟梅は?? 花言葉:先見・慈愛・優しい心 

 お正月に「伊勢海老」が、(^O^)/ 

三重の伊勢で採れるので「伊勢海老」と名が付いたのかな?

「イセエビ」は日本列島の房総半島以南から台湾までの西太平洋沿岸と九州朝鮮半島南部の沿岸び分布しています。イセエビには8属49種類もありますが、市場では総称で「イセエビ」として流通している場合が多いようです。ではどうして「伊勢海老」なの??

名前の由来は諸説ありますが、江戸中期の本草書「大和草紙」に『此のエビ、伊勢より多く来る故、伊勢蝦といふ』また縁起物として伊勢神宮では古くから祝儀として使われいて、ここから名が付いた説が? しかし漁獲量では三重県より千葉県の方がが多いそうです。千葉で獲れても「伊勢海老」と名前がついているとは?

但し、三重県 伊勢志摩で水揚げされたものが「伊勢海老」 それ以外で(外国)採れたものは カタカナで「イセエビ」と表記するように農林水産省が指導しています。 

他の説として、「磯エビ」が訛って「イセエビ」 また海老のカブトが甲冑に似ていて威勢がよいく武士が好んで食べたことから、威勢が良い =イセエビ になった説もあります。

例えば、千葉にあるのに「東京ディズニーランド」? 「イセエビ」同じ考えで納得しましょう (@_@。

お正月に食べたのは「イセエビ」だったのかな??

新型コロナ感染拡大の一途 (>_<) 愛知、岐阜にも1月14日~2月7日 まで緊急事態宣言が出されるさる。 不要不急の外出を控えジーーット我慢!我慢!

間食が増え、コロナストレスも増え、お陰でコロナ太り  (>_<)    気を付けて  (@_@) 本当に  7日に緊急事態宣言 解除となるのかな ~ ? ワクチン 何時になるのかな  ~?

今年の節分1日早い!  ブログの内容が節分! アップもちょと早いです  (^_-)-☆

                              1/26 Marui 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

年賀状はいつごろから (?_?)

『目出度さも  ちゅうくらいなり  おらが春』
この句は、小林一茶が五九歳の文政二年(一八一九年)の正月を迎えた時のものです。弥陀任せのわが身で、風が吹けば吹っ飛ぶようなあばら屋で、掃除もしないで、門松も立てないで、ありのままで正月を迎えたときの句です。

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サフラン』 アヤメ科の多年草  イラン原産とされるが諸説あり、地中海の島で発掘された壁画によると、青銅器時代から栽培されたと考えられる。 めしべを乾燥させて香辛料に! 

花言葉は、歓喜 喜び 陽気 そんな1年になりますように!
昨年は新型コロナ感染症に始まり、何にもかもが中止! コロナが収束することなくコロナに振り回された大変な1年でした   (>_<) 新年も不透明で不安な年明けですが、何とか期待するワクチンが確定され、普通の暮らしが戻ることを願がいたいですね  (^^)/ 
正月の風物詩と言えば、初詣で、門松、しめ縄にお飾り餅、お雑煮、と色々ありますが年賀状もその一つですね! 年初めに年賀状が届くのは嬉しいものですが、最近の若い世代はメールや SNS などの普及で、かつてほど年賀状の習慣が廃れつつあると聞きます。しかし今もなお企業関係の方や年配の方を中心に年賀状のやり取りが行われています。その年賀状はいつから始まっただろか ?
日本の年賀状の歴史は、明治に入って新式郵便制度の実施後、郵便葉書の普及に伴って一般化したとの見方が有力です。しかし史料がないため日本最古の年賀状がいつ誰から誰に送られたのかはわかってないようですが、大化の改新以降ではないかとの説があります。それは、大化の改新(645)により畿内各所に駅馬を置いて、政治的な書類を届ける『飛駅使』という制度が始まり、そして時を同じくして、宮廷で元旦に天皇が家臣たちの年賀を受ける『朝賀の式』が制度化されたからです。
このように新年を祝う習慣は古くからあったと考えられますが、
年賀状は、平安時代から?
平安時代に藤原明衝が著わした『雲州消息』に、年賀の手紙の例文がいくつも取り上げられています。《 郵政博物館『年賀状の歴史と話題」より》
当時、貴族は年初めには年始回りと呼ばれ、新しい1年の付き合いをお願いするため、知り合いのところに挨拶に出かける習慣がありました。しかし遠方の知り合いには直接出向く代わりに、挨拶状を送ることで年始回りの代わりとして いました。

この慣習が年賀状の原型と言われていますが、あくまで貴族の慣習であり、一般庶民には普及していませんでした。

江戸時代にはいって、

日本の歴史の中で年賀状に転機が訪れるのは江戸時代に入ってからで、戦国時代のころには書状による年始回りの慣習が武士にも広まりました。

その後、江戸幕府成立で戦乱の世が終わったことに加えて、五街道や飛脚制度が整備されたことで、国内で円滑に書状のやり取りができるようになったと考えられています。

そして武士たちの間で正式な年始挨拶がますます盛んになり、庶民の間でも年始の簡単な書状のやり取りが行われるようになったようです。

しかし、現在のように元旦や正月期間中にきちんと届くわけではなく、中には梅雨の時期(6月ごろ)に届いたという話さえも伝わっています。

そして明治時代になり、 

明治新政府の時代に入ると、日本は欧米諸国に負けないように近代化に着手し、近代化の過程で年賀状の慣習にも大きな変化がもたらされます。

郵便局の設立に多大に貢献し、郵便制度が誕生するに至る歴史人物が前島密(ひそか)です。彼はイギリスを視察した際に現地の郵便制度についてつぶさに見聞を重ね、帰国後に郵便制度の必要性を力説し、そして彼の尽力で、

 明治4年1871年)東京や大阪などの大都市間で郵便制度開始される

明治5年(1872年)全国的な郵便通信網が確立する

前島密による郵便制度創設とともに登場したのが「はがき」で、イギリスで普及していたポストカードを視察した際、彼は日本の郵便が定着するにはポストカードが重要な役割を果たすと考え、

明治6年1873年)に郵便はがきが発行されます。はがきの登場によって急速に年賀状が普及し、回礼(各家を回って、新年のご挨拶をする)が簡略化され、一般庶民にとっても年賀状が身近な存在となります。

そして、年を追う毎に「はがき」による賀詞の交換が盛んになっていきます。

f:id:marui-hall:20201219161545j:plain 今も使われている「郵便」「切手」「葉書」という名称も前島の案で定めました <ネットより>

当時の郵便配達は命がけで、明治6年1873年)拳銃(6連発銃)の携帯を所持が認められていました(拳銃所持は警察官より早く導入)昭和23年(1948年)廃止、

明治20年(1887年)頃には年賀状も激増します。

◆  明治32年(1899年)から、年賀状は通常郵便物と別枠で処理される年賀郵便の特別取扱が誕生する。

◆  明治33年(1900年)私製はがきの取り扱いが始まります。

  一挙に年賀状文化が花開く事になります。

 昭和12年1937年)7月に日中戦争が始まると、年賀郵便の特別取扱は中止となる。

昭和16年1941年)に太平洋戦争がはじまると、逓信省日本郵政公社の前身)が「お互に年賀状はよしませう」と自粛を呼びかけるポスターを掲げて、年賀状の一時期ほとんどがその姿を消してしまいます

昭和20年(1945年)8月に終戦を迎えると、年賀状の数も徐々に増えていきます。
この時、表(おもて)面の下部に通信文を書くことが許されるようになり、一枚のはがきに、より多い文面を記載できるようになります。

年賀状が復活したのは、お互いの安否を知らせ合う意味が多大にあったようです。

 その後、

昭和24年(1949年)12月からお年玉付年賀はがきが発行されるなど、すっかり国民的行事になります。再び息の長い文化として定着します。

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  大正時代に普及した数多くの子供用年賀状が発行される  <ネットより>

明治38年(1905年)年賀状発売数は、1億枚(推定)を突破します。明治39年末に郵便規則が施行され、取扱期間が12月15日~29日と定められたこともあり、明治40年(1907年)年賀状発売数は、2年前の4倍に近い4億枚に達します。(年賀状の4億枚という数字は、この年度の全郵便物の30%を超える数です)

◆ 令和3年(2021年) 年賀状発売数は19億4198万枚で、5年前 2016年のお年玉つき年賀はがきの発行枚数は32億枚以上で、今年の減少率は過去最大です。

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「パンジー」数千種類を超える品種があるそうです! ちょっと驚きですね! 寒さにも強く雪が降ってもへいちゃらです。 ちさい花のビオラも仲間です 花言葉 物の思い・純愛・誠実な愛・天真爛漫

年賀状は、日本固有の文化のように考えがちですが、欧米でもクリスマスカードやイースターを祝うカードと並んで年賀状も大変盛んな時期がありました。1900年前後、エンゼルや時計、カレンダーや四葉のクローバーなど様々なモチーフを使った年賀状が発売され交換されています。ただ、欧米では年賀状のブームは、習慣として定着せず、1920年頃を境に、ほとんどその姿を消し、クリスマスカードで年賀を兼ね事が主流となっていきます。それに比べ日本では、歳を十二支になぞらえる文化が年賀状を支え、今に至っていると考えられています。

 

韓国や中国にも年賀状の慣習はありますが、韓国の場合はグリーティングカードとしてやり取りされるのが一般的です。中国の場合は、王朝社会の年始の挨拶状の名残で現在に至るが、やり取りされるのは旧正月です。

現在数多くの日本人が、海外で生活していますが、海外の知人、友人に年賀状を出すには、郵便事業会社の国際事業部がお年玉付き年賀はがき(令和3年現 63円)に、7円切手をプラスするだけで、はがきが世界中に届きます。景品の受け取りなどいくつかの問題もありますが、70円で海外へ届きます ((^^)/

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プリムラ」の花 世界で約600品種もあり、寒い冬でも生き生きと鮮やかな花を咲かせます 。 色や種類によって違う花言葉を持っています 信頼・初恋・無限の愛・素朴、、

昨年は、世界で想像もできないコロナウイルス感染との闘いに、日常生活もままならない大変な年でした。そんな中で少し勇気と希望を与えてくれましたのが、将棋界の麒麟児 藤井壮太君の活躍、そして水泳界の池井璃花子さんが難病に負けず現役に復帰されました。そしてもう一つ昨年12月16日  宇宙航空研究開発機構JAXA)の探査機はやぶさ2号  りゅうぐうの岩石の入ったカプセルを見事オーストラリアの南部ウーメラの砂漠に着地回収されました。

初代はやぶさは、満身創痍で資料カプセルに持ち帰り自身は大気圏突入で燃え尽きた!劇的な帰還で日本人の心を揺さぶった記憶も新しいですね!

はやぶさ2号は、初代の悪銭苦闘をしっかりと修復し「百パーセント 満点」の帰還でゆっくり余生を楽しんでくれるかと思っていたが、なんと定年延長でもうひと活躍に出発 (^^)/ なんと我々サラリーマンが定年後も働く姿とダブりウルウル ( ノД`)シクシク…! 本当に勇気をくれた「はやぶさ2号」 頑張れ!!

 

新しい年を迎え欧州では新型コロナウイルスの変異種が急増し日本でも確認される! 「医療も緊急宣言」 新年もじっと冬眠 ? 我慢ですね! でも、かのスぺイン風邪の大流行も 第三波で終息しています。もう少し「終息」を信じて「三密」をさけ「不要不急」で我慢 ですね!

日夜活躍されています「医療従事の方々」に感謝と応援しましょう !

 

新型コロナ感染拡大により延期になった東京2020オリンピック競技大会は、2021年7月23日~8月8日、東京2020パラリンピック競技大会は2021年8月24日~9月5日に開催されます。それに伴い、

内閣府2021年に限り「海の日」は7月22日に、「スポーツの日」は7月23日に、

f:id:marui-hall:20201220150836j:plain「山の日」は8月8日(※8月8日は日曜日なので、8月9日が振替休日)に決定される。 <カレンダーを修正して下さい> (^^)/

 

         豆知識 「祝い箸」

祝い事には欠かせない箸のことっで、お正月などのにおせち料理やお雑煮をいただくときなどに使います。祝い箸は末広がりの八寸(約24センチ)で縁起がよく、「両口箸」「柳箸」「俵箸」とも呼ばれ、両方の先端が細くなっていて、「両口箸」とも呼ばれます。それは、一方は神様用、もう一方を人が使うためで、"神人共食"を意味しています。

お祝いの席で折れたりしないように、丈夫で折れにくい柳の木が使われています。また、柳は水で清められた神聖な木とされ、春一番に芽吹くおめでたい木とされています。そのため「柳箸」ともいわれ、縁起良く「家内喜」と書くこともあります。

また、「俵箸」と呼ばれるのは、五穀豊穣を願って米俵を模し、中ほどが太めにできているからで、「はらみ箸」とも呼ばれれ子孫繁栄を表したり、「太箸(たいばし)」と呼ばれることもあります。

お正月の祝い箸は、大晦日に家長が家族の名前をそれぞれの箸袋に記入し、箸を入れて神棚に供えておくのが習わしです。その箸を元旦に使ったら、自分で清めて(洗って)、松の内(1月7日まで)は同じ箸を使います  (^^♪

 今年は丑年ですね! うししっと笑えるようないいことがたくさんの年に、そして「嬉しいこと、楽しいこと、幸せなことが牛牛ギュウギュウ)に詰まった年となり、牛のように一歩一歩確実に、マイペースで健康で笑顔を忘れない年にしたいですね  (^^)/  本年も宜しくお願い致します。             令和三年 元旦 丸井邦春

 

「はやぶさ 2」12月8日 地球に帰還 (^^)/

はやぶさ2」が6年ぶりに地球に帰ってくる!

探査機「はやぶさ2」手土産は小惑星りゅうぐうの破片 !

11月13日 午前10時過ぎ、地球に向けて小惑星「りゅうぐ」を出発しました  !

2014年に地球を出発し「はやぶさ2」、2018年6月に小惑星リュウグウに到着しました。約1年半の間に2回の着陸に成功して、当初の目的である表面のサンプルを採取を終えて全て完璧にこなし、そして採取した資料が入ったカプセルは、 12月 5日 14~15時 に「はやぶさ2」本体から分離され、カプセルはそのまま大気圏に再突入して、12月6日 2~3時にオーストラリア・南オーストラリア州にある「ウーメラ管理区域(砂漠)に、パラシュートで着地する予定です。  <写真はネットより、ウーメラ砂漠>

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地球に帰還する「はやぶさ2」から分離されたカプセルの映像が、オーストラリアで撮影されインターネットで生配信されることが発表されました。
大気圏に再突入するカプセルは、地上からは火球のように見えると予想される。ただし今回はカプセルのみの再突入であるため、探査機本体も再突入した 2010年の「はやぶさ」初号機ほどには火球が明るくならないかもしれないとのこと。

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                             <ネットより>

 2014年12月に探査の旅に出発した「はやぶさ2」は、

往路 32億キロ  3年半 ◇ 復路 8億キロ 1年 
往路は、太陽の周りを3周ほど回りながら加速し、同じく太陽の周りを回っている「りゅうぐう」に接近、この間の飛行距離が 32億キロに及んだ!
はやぶさ2 のエンジンは、急な加速や減速に時間が要し飛行距離が長くなる》
復路は、太陽の周りを1周弱するだけで、飛行距離は8億キロです。
 りゅうぐうの資料の入ったカプセルを投下するだけで、飛行速度の大幅な調整は不要となり、 飛行距離も8億キロも少ない。
2019年3月に、はやぶさ2 が撮影した「りゅうぐう」

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                         <JAXA提供 ネットより>

はやぶさ2 は、「りゅうぐう」のサンプルを納めたカプセルをオーストラリアに着陸させるため、軌道修正を5回(TCM-1~TCM-5)予定されていて、10月から最終誘導する段階に入っています。いずれも化学エンジン(スラスター)の噴射で軌道変更が行われます。 

10月下旬初回軌道修正(TCM-1)と11月上旬2回目の軌道修正(TCM-2)によって、「はやぶさ2」は地球から高度200km以上離れた位置をスイングバイする軌道に成功し、続いて、11月下旬と12月3・4回目の軌道修正(TCM-3, 4)して、最終的にカプセルが大気圏に再突入してオーストラリアのウーメラ砂漠に着陸できる軌道に入る。

カプセルの分離が行われるのは12月5日の午後2~3時(日本時間)です。この時点で「はやぶさ2」は地球から約22万kmの距離(月までの距離の6割ほど)にいます。

カプセルがオーストラリアに着地するのは、分離から12時間後の12月6日午前2~3時頃の予定です。

資料が満載されたカプセルには、

今年4月に「りゅうぐう」の表面に、金属弾を表面に打ち込むことで、幅15mもの人工クレーターをつくり、7月に2回目の着陸でそのクレーターから噴出した岩石の破片を採集に成功したとみられ、この岩石の破片は太陽風などによる風化を受けておらず、46億年前に誕生した太陽系の状態が保っていると考えられ、有機物が見つかれば、地球の生命誕生との結びつきが解明されると期待が寄せられています。 (^^)/

また、上空から観測したり、小型移動ロボットを着陸させ「りゅうぐう」から得た資料を多角的に分析し、これまでに百十偏以上の論文が発表されています。

さらに資料が満載されたカプセルが回収されれば、さらなる世界に誇る日本の「小惑星研究」が世界をリードすること間違いないと期待が寄せられています。 (^^)/

カプセルを分離した「はやぶさ2」は、

12月5日  午後3~5時に最後のスラスター噴射5回目の軌道修正(TCM-5)を行います。「はやぶさ2」に12基搭載されているスラスターのうち4基を30秒間 × 3回噴射して「全速力」で地球大気圏に再突入する軌道から脱して地球の重力圏を離れ探査機の姿勢を変え、大気圏内で切り離されて発光する『カプセルの様子』を撮影すると発表されました。 撮影は探査機の側面に搭載されている広角の光学航法カメラ「ONC-W2」で行われます。

はやぶさ2」の探査機本体は地球に戻らず ??

回目の軌道修正(TCM-5)で「はやぶさ2」は、次の新しいミッションに !

はやぶさ2」の燃料にはまだ余裕があるため、再び地球を離れさらに別の小惑星の探査に向かいます。 新しいミッションは、カプセルを分離後に地球の重力を使った軌道変更(スイングバイ)を複数回実施し、探査機は別の小惑星を目指す新たな宇宙探査へ!

 11年に及ぶ新しい旅路に出発です。

次の探査先は高速で自転する  小惑星「1998KY26」 直径約30メートルと小さく、JAXAによると、直径100 メートル以下の小天体を探査機が訪れるのは世界初めての前人未到の「未知の小惑星」で、運用チームは期待を寄せています。

小惑星「1998KY26」に到着するのは  2031年7月の予定で、飛行距離は「りゅうぐう」までの往復(約50億キロ)の倍となる約100億キロに達します。
この間、2026年には、別の小惑星「2001CC21」の近くを通過しながら観測するほか、惑星間に漂うちりや太陽系外惑星の観測なども行う予定です。

航行に使われるイオンエンジンや観測機器に現時点で異常はないが、延長ミッションでは設計想定よりも太陽に近づく軌道を通るため、探査機が太陽の高熱で故障することが懸念され技術的にも大きな挑戦となります。

更なる旅路に応援です (^^)/ (^^♪ 

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和名 ツワブキ 花の少ない冬に開花し、薬用として、解毒、排膿、皮膚病にも用いられる。食用には葉柄の皮を取り去って、茹でてよく水にさらし、苦味をとって調理します。   艶葉蕗(つやはぶき)「艶のある葉を持ったフキ」また、厚葉蕗(あつはぶき)「厚い葉を持ったフキ」から名がついた説があります。
初代「はやぶさ」故障続きで帰還が危ぶまれたがJAXA技術スタフの努力で、小惑星イトカワ」を探査して、2010年6月13日に地球へ帰還しました。小惑星から表面の物質(サンプル)を地球に持ち帰る技術(サンプルリターン)に成功し、イオンエンジン・自律航法・標本採取・サンプルリターンという4つのミッションを果たし、搭載カプセルをオーストラリア・ウーメラ砂漠へ落下させ、その運用すべてを終えました。

はやぶさ2」は、更なる技術の向上を確信し実証するために、地球に持ち帰えるだろうサンプルを多方面から分析がなされ、小惑星の形成過程を考える上で新たな見知をもたらし、さらなる太陽系の成り立ちや地球の生命起源に迫る研究成果が得られると期待されています。でもカプセル帰還まで油断大敵気が抜けない (@_@)
帰還予定地 の「ウーメラン砂漠」オーストラリアは国防所が管理する演習場で北海道1.5個分で初代「はやぶさ」もオーストラリアの協力を得て帰還した場所です。

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イソキクかな? キクは最も進化した植物とされ、地球上のほとんどの地域に自生し、世界では約2万種があり、日本では約360種類が自生しています。
◆ 講談社 出版『あっと驚く科学の数字』に、  宇宙の大きさは470億光年  ◆ 太陽の中心を出た光が地球に届くまで1000万年   ◆ 地球上の生物の種類は174万種  ◆  宇宙全体で観測できる物質の割合はたったの4.9%。 ◆  日本人が一生の間にするウンチの量は約5トン  (>_<)
 ◆  人間の身体は、およそ60兆個もの細胞で形づくられていて、その一つ一つにあるDNAをすべてつなげると、地球と太陽を400回往復する長さ、およそ1200億キロ、光でも 8分20秒かかる。  宇宙探査機「はやぶさ2」の旅路は往復で40億キロです。
 ◆  壮大な宇宙の中では私たちはケシ粒のごとき存在だが、その粒の中に生命の小宇宙が広がっていると思うと、人間には広大な宇宙より謎が存在しますね!
 
    米宇宙局(NASA)は、10月20日に、米国版はやぶさとも呼ばれる探査機「オシリス・レックス」が小惑星ベンヌ」に着陸し岩石の採集に成功と発表 。
日本の「はやぶさ」「はやぶさ2」に続いて3例目となり米国では初めての試みです。2023年9月に60グラム以上の岩石を持ち帰る予定で、「はやぶさ2」は 0.1グラム 以上の目標予定です。 そして互いに採取した岩石と交換されて、共同研究ができると期待されています。
 ◆ 米宇宙局探査機「オシリス・レックス」は2016年9月に打ち上げされ、小惑星ベンヌ」上空に201 8年12月到着した。小惑星「りゅうぐう」は地球から3,4億万キロ 直径約900mで、「ベンヌ」は地球から 3億キロ以上離れていて、大きさは 約500mです。 
 
 日本時間 11月22日午前 、イスラエル民間・スペース I L(非営利団体)初の 月面探査機「ベレシート」を打ち上げに成功、月を周回し月面に着陸する見通し! これまでに月面の着陸探査機に成功したのは、米国・旧ソ連・中国でイスラエルが成功すえば四ヶ国目となる。アメリカ合衆国アポロ計画の一環として1969年7月 アポロ8号にてアームストロングが人類史上初めて月に降り立っ偉業が成されています> 
 
 11月24日未明 中国 月面探査機「嫦娥:じょうが」5号を搭載したロケットを打ち上げたと発表。月面への着陸後、ロボットアームを使い土壌サンプルを採集し、地球に持ち帰る予定。<「嫦娥」とは、神話に登場する人物の名前>
◆  中国は昨年1月に世界初めての月の裏へ「嫦娥:じょうが」4号 を軟着陸に成功している。2030年以降に有人探査・月面基地建設を行い 45年には火星有人探査を実現する構想計画があります。
成功すれば月への有人飛行や月面着陸・月面基地計画が本格化し、ますます宇宙から目が離せない (@_@) 宇宙旅行も夢でないですネ !

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千両 :今も昔も正月飾りとして愛される縁起物です。  花言葉は『祝福・富・利益・恵まれた才能・可憐』

 日々、日が暮れる時間が早くなり、冬へ近づいているのを感じます。11月は暖かい日が多かったですが、寒くなると鍋物が食べたくなりますね! 皆さんは何鍋が好きですか? 寒さに負けないよう体を温めて、コロナ感染に負けない体調維持に努めよう。

もういくつ寝るとお正月ですが、新年の催事がどこもコロナ感染拡大で縮小や取りやめが発表され、寂しい お正月になりそうですね (>_<)   
新しい年には、ワクチンの開発が成功し、もう少し明るく健康で、笑顔がいっぱいの年になりますよう期待しましょう ( ^^) _笑~~            Marui  12/1 
 

 

 

 

 
 

 

日本人と文字の出会いは (?_?)

 日本語って、難解 ??

『敷居が高い』の意味を日本人の半数以上がカン違い!

「あのお店はちょっと高級すぎて、上品すぎて敷居が高くて…」といった意味で使うことが多いと思いますが ?

実はこの言葉の使いかたは間違いで、文化庁の『国語に関する世論調査』(平成20年度)で、67.9%もの日本人が正しく理解できていないことが判明したとあります。

そして20代の若者はほぼ8割が間違えていたとあります。 無理もない、住宅事情も変わり「敷居」も分からない若者も多いと聞く! 大変間違いやすい言葉使い(慣用句)なのです!

正しい使いかたは、「相手に不義理などをしたり、長い間音信不通だったりして敷居が高くて家に行くにくい」とこのように使います。  (^^)/

「映画の寅さん」タンカを切って家を飛び出したが! 寅さん、家に帰えってくるのに家の前で「敷居が高くて」モジモジしている。 えっ! 寅さんを知らない 人が?  

                   9/28 中日新聞「中日春秋」コラム欄より、

 最近はドアが多いので「敷居」と言ってもパッと思い浮かばない人もいるかもしれませんが、引き戸や襖、障子を開け閉めするとき、下に戸を受けるレールのような溝のついた横木(敷居)がありますよね!  日本家屋では「敷居」というのは内と外を区切る大切な存在です。中に入るためには必ず敷居をまたぐわけですから、不義理をして気まずかったりして、その家に「入りにくい」ということを「敷居が高い」と表したわけです。

しかし、「高級すぎる」「自分にはレベルが高すぎる」というのは間違いであると言われていましたが、世論調査などでも、この本来の意味ではないとされている意味で使う人のほうが多いという結果が出ました。そもそも「不義理をして」のほうの意味が本来の意味であるとする根拠も曖昧で、以前から誤用とは限らないと主張する人もいました。

2018年1月に発売された広辞苑第七版』では「高級だったり格が高かったりと思えて、その家・お店に入りにくい」という表現が付け加えられました。《 第六版まではなかった記述ですが、今回「俗説として」などの注記もありませんので、正式な用法として認められた」ということになりますネ!》

日本語の文化は多様化して、複雑な「使いかた・言い回し」がありますね 。 最近スマホの普及やオタク文化のメジャー化し、10代〜20代前半の若者やネット住民が使い始めた言葉が浸透する傾向が顕著で、若者が使う言葉やイントネーションの使い方がへんで、理解できないことがイッパイあります。     そして死語になるスピードも早く、やっと覚えた言葉が古いと言われたりしてします。だから30歳をこえたイイ大人が? 最新の若者言葉や最新のネットスラングをガンガン使うのは痛々しいと感じませんか?? とはいえ、いちいち「どういう意味なの?」なんて聞くのもシャクで解ったような顔して、「オヤジ・オジィ」の烙印を押されぬようにつとめているが! チョット日本語が乱れてない ? コロナ感染拡大で世界中混乱! 一日も早く以前の普通の生活が欲し~~です! 言葉も! (>_<)f:id:marui-hall:20201013162617j:plainマリーゴールド」 花壇に一株あれば、虫よけに効果あり  (^^♪ 原産地はメキシコ  名前にはキリストの「聖母マリアの黄金の花」と意味が込められています

日本人と文字の出会いは、中国から漢字が伝来する以前に日本には、固有の文字はありませんでした!人々は神話や伝説などを全て口伝えでしていた。 日本列島において初めて漢字を目にしたのは、古代の遺跡から漢字が刻まれた金印や中国の銅銭が発掘されていることから、遅くとも1世紀頃と推定されています。

しかし漢字を目にした人たちが、それを文字だと認識していたかどうかについては、また別の問題です。 わたしたちがアラビア文字を見るときのように、おそらく当時の人々にとって、漢字を文字として理解していたというよりは、複雑な模様に権威や呪力を感じ、模様のようにしか映らなかったと考えられています。漢字が本格的に使用されるようになるのは、出土した 木簡(もっかん)の研究から、中国や朝鮮半島を経由して 儒教、仏教、道教などを受容してきた6世紀から7世紀にかけてのことで、漢字に出会って 約1600年の歴史です。

では中国で生まれた漢字  日本では、 いつごろから漢字を文字として理解し始めたか詳しいことはわかっていないが、確実なのは邪馬台国(やまたいこく)の時代、紀元3世紀ごろと推定されています。魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』で有名なように、このころには、日本と中国との間に使節の往来があり、おそらく邪馬台国やそれに先立つ国々には、漢字を理解し、文書を扱うことのできる人々がいたに違いないとも考えられています。

漢字の使用例は5世紀の 稲荷山古墳出土 の鉄剣や、江田船山古墳出土 の太刀などに見られます。人名の部分は漢字の音だけを使って表記されて、いずれも漢文で書かれています。

そして6~7世紀には遣隋使や遣唐使として中国大陸でさまざまなことを学び帰国する。儒教を中心とする明経道(みょうぎょうどう)を学ぶ人も増えて識字層が広がり、奈良時代に建立された東大寺では官立の写経所が設けられ、漢字で書かれた経典の書写も盛んになります。

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                               (ネットより)

私たちは何気なく「漢字」と呼んでいますが、そもそもこの呼び名はいつ頃から使われていたか?

漢字の起源は紀元前1300年頃の中国大陸にさかのぼることができるため、漢王朝(紀元前2世紀〜紀元後2世紀)の字だから「漢字」というワケにはいきません。漢字の「漢」は王朝由来ではなく、漢民族が使っている文字という意味で、唐代の頃に使われ始めたといわれています。

 東アジアで固有の文字を発達させた漢民族は、しばらくは自分たちが使っている文字を特別な呼称で呼ぶ必要はありませんでした。しかし、シルクロードなどを通ってインドの梵字をはじめ、西方のさまざまな文字が中国に伝わってきたことから、それらの文字と対比するために漢字という呼び方が定着したそうです。

しかし、漢字は日本語の文法とは異なります。そこで日本語の文法に沿って書き表す変体漢文(和化漢文)が生まれ、漢字に和語(やまとことば)を当てはめる独自の読み方を開発しました。 漢字本来の意味ではなく「音」を使って書き表す「万葉仮名」を発達させ、のちの「ひらがな」の誕生につながるのです。

日本に伝来した漢字は、次第に日本独自の使い方をするようになります。主な漢字の使われ方は以下の三通りです。

■ 現代の音読み、(中国での意味と同じ)で使う (例:山=サン)

■ 日本独自に訓読して使う (例:山=ヤマ)

■ 字音だけを借りて音を表記するのに使う(例:也麻=ヤマ、波奈=ハナ)

この例のように、漢字が持つ意味を無視して音がけを使用して表記した文字を「万葉仮名」と言います。

「万葉仮名」は人名や地名といった日本独自の名詞漢字で表記するときに使われていまた。音を借りるという意味から仮借(かしゃく)、万葉仮名のことを別名で借字(しゃくじ)と言います。 

稲荷山古墳出土の鉄剣も、名前の部分に「万葉仮名」が使われています。出土資料から、万葉仮名は7世紀ごろであろうと言われています。

万葉仮名は、漢字を使って日本語の音を表したもので、いわゆる「当て字」で、最初は固有名詞で使われていたようです。 8世紀に成立した『古事記』『日本書紀』『万葉集』などでは、「万葉仮名」が使われています。

                           ( 下図は、ネットより )

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「万葉仮名」で書かれた日本語は全て漢字表記で、現代のようにまだ漢字仮名(かな)交じりではありませんでした。ひらがなとカタカナは、この万葉仮名から誕生しましたが、もう少し後の時代になります。

 ひらがなの誕生 ... ひらがなは、万葉仮名をくずして簡単にした文字で、9世紀ごろから使われるようになったと言われています。 当時の貴族社会において、男性が公的な場面で用いるのは漢字であり、ひらがなは主に私的な場面で、あるいは女性によって使われる文字とされました。      ( 下図は、ネットより )

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ひらがなは、主に手紙や和歌、物語、随筆などに用いられ、女流文学が花開く契機となりました。
ひらがなで書かれたこの頃の文学作品には、紀貫之が女性を装ってつづった『土佐日記』(935年ごろ)、 清少納言の『枕草子』(1001年ごろ)、 紫式部の『源氏物語』(1008年ごろ)などがあります。 

 カタカナの誕生 ...ひらがなとほぼ同時期に万葉仮名から生まれました。ひらながが万葉仮名をくずしたものであるのに、カタカナは万葉仮名の一部分を抜き出したものが起源とされています。 (下 図は、ネットより )

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僧侶の間で読まれていた経典は、全て漢文で書かれていたので、僧侶たちは行間に読み方などのメモを書き入れていました。
その際、形の複雑な万葉仮名では狭い行間に書き入れるのが難しいため、9世紀ごろから万葉仮名の一部だけが書かれるようになりました。
これが、かたかなの始まりと言われています。 

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今年も咲きました、ホトトギスの花「時鳥草」「油点草」「社鵑草」と書きます

名前の由来は、もちろん鳥のホトトギスから、ユリ科ホトトギス属、

漢字(かんじ)は、中国古代黄河文明で発祥した表語文字で、四大文明で使用された古代文字のうち、現代も使用される唯一の文字体系である。また史上もっとも文字数が多い文字体系であり、その数は10万字を超えると言われ、ほかの文字体系を圧倒する。古代から周辺諸国家や地域に伝播して漢字文化圏を形成し、言語のみならず文化上の大きな影響を与えています。

現代では、中国語、日本語、韓国における朝鮮語(韓国語)、広西の東興市にいるジン族が使用のベトナム語の記述に使われていますが、韓国語ではほとんど使用されなくなっています。

20世紀に入り、漢字文化圏内でも中国語と日本語以外は漢字表記をほとんど廃止しされましたが、なお 約15億人が使用し、約50億人が使うラテン文字についで、世界で2番目に使用者数が多い漢字です。

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シュウメイキク(秋明菊)も咲いた!日本では古くから野生化してきた多年草で原産地は中国、台湾で、中国では「秋冥菊」と表記 花言葉は「淡い思い」「多感な時」

京都の貴船地方で自生する秋の風情を演出する花です (^^♪

不思議な日本語?

漢字の表記も地域によって独自の文化やが傾向があり、例えば寿司は東京では「鮨」と書かれることが多い一方で、近畿では「鮓」が優勢なのだとか。また、「渋谷」は東京では「しぶや」と読むことが一般的ですが、関西では「しぶたに」と読む、「大谷」は西日本では「おおたに」、東日本では「おおや」と読まれやすいなど読み方にも地域差があるようです。ちなみに、タレントの草彅剛さんの「彅」や蛯原友里さんの「蛯」は、限られた地域で使われていた漢字が本人たちの知名度が上がったことで全国的に読まれるようになった漢字で、“出世漢字”といえるかも?

尾張藩でも用水路やその入り口を意味する「杁:イリ」は、江戸時代に尾張藩で作られた方言漢字です。江戸幕府や他の藩では 木偏でなく土偏の「圦」が使われていたそうです。

ちなみに、江戸時代(1628年)に 木曽川から大江川(宮田用水)に導水するために「杁」が作られて用いられた文字が木偏の文字です。浅井町の大野極楽公園に記念碑がありこの文字が使われています。 (^^♪

地域差ではなく “書き間違い” から生まれる漢字もあります。メジャーなところでは「サイトウ」と読む姓ですが、一説には80以上も存在すると言われてますが、全国的に多い「斉藤」「斎藤」「齋藤」「齊藤」は、もともとすべて「斎藤」が由来で、ほかの字体は役所の人間の書き間違いから生まれたとも言われていた話もあります。 (>_<)

そこで、問題です!

お茶の「いえもん」とか 盗賊の「いしかわごえもん」て、漢字でどう書くのかな?

「右」を忘れないで??

日本語の歴史は、漢字を音読み、訓読み、そして漢字のもつ意味を無視した「万葉仮名」を使い、そして日本独自の文字文化を進化させた「 かな」と「カタカナ」をも作り出して、使いこなした先人に驚くばかりです。

中国から伝わった「漢字」とは違い、日本だけで発達した「かな文字」が誕生し、その優美さに女性文学が盛んになり、清少納言紫式部が活躍することになり、「かな文字」の素晴らしさに驚くばかりですね! (^^♪                  11月1日 Marui

 

 

 

もう、10月です (^^)

『秋の空』高々として澄みわたり気持ちのいいものですね! でも変わりやすいのが「女心と秋の空」などと変わりやすい例えになっていますが、広辞苑を調べると「男心と秋の空」とあり『変わりやすい ものの例え』と書いてあります?? 女心でないのかな ??  (>_<)

ところうで、10月1日 中秋の名月十五夜のお月見しましたか?

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我が家より眺めた十五夜の月です (^^)/ 明らかな夜を「良夜」と呼びます。  特に陰暦八月十五夜の名月が、曇って月が見えないことを「無月」といい、また雨が降れば、「雨月」と称して楽しまれていました。   < PM20:00  頃撮影 >

 

今年の10月29日は 「十三夜・じゅうさんや」です。

お月見の起源は、中国の唐の頃に伝わったとされる「十五夜」が有名ですが、

日本では、月を愛でる習慣は縄文時代からあったとされ、平安時代には貴族の間で月見の宴を催し、舟遊びをして池に映る月を愛で、お酒の杯に月を映して拝し宴を楽しんだりしました。
江戸時代には庶民にも広がり、稲穂に見立てたススキや獲れた芋や栗を供えて秋の収穫を祝ったといわれています。この様に日本独特の風習の「十三夜」(旧暦九月十三日) もまた美しい月であると重んじられてきました。

《一説には宇多法皇が九月十三夜の月を愛で「無双」と賞したことが始まりとも、醍醐天皇の時代(延喜十九年:西暦919年)に開かれた観月の宴が風習化したものとも言われています》

十五夜はあまりすっきりしない夜空であることが多いのに対し、十三夜の夜は晴れることが多いようで、「十三夜に曇り無し」という言葉もあります

今年も晴れてお月見ができるはずです? 一般に十五夜に月見をしたら、必ず十三夜にも月見をするものとされ、十三夜のお月見をしないと「片三月」といつて縁起が悪いと言います。                            <写真はネットより>

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十三夜は「豆名月」とか「栗名月」と呼ばれて、豆や栗を神棚などに供えることから、「豆名月」とか「栗名月」と呼ばれます。また中秋の名月の後なので、後(のち)の月と言われたり、月の名残り、豆の月、まめなづきとも言われます。
「よめはつらき茄子かるるや豆名月 芭蕉

長野県安曇郡その他の地方では「小麦の名月」と言われます。これは旧暦九月十三日の晩のお天気で、翌年の小麦の豊作、凶作を占う習慣から来ています。
そして福岡県の海岸部では,この日を女の名月と呼んで,女がいばってもよい日だと伝えています。

さらに翌月の十日(旧暦10月10日)の月の夜は「十日夜:とうかんや」と言って稲の収穫を祝ってお餅をついたりします。特に東日本を中心に収穫祭としして様々な行事があります。

「十三夜」は聞いた事があるけど、「十日夜」は知らないという方も多いと思いますが、昔から「十五夜」「十三夜」「十日夜」の三つのお月見をすると大変縁起が良いとされています。 (^^♪ <今年の「十日夜」は  11・24・火曜 です>

 大豆は薬、平安時代に書かれた日本で最古の医書に、大豆についての記述があります。煮汁を飲むと鬼を殺し、毒を取り去るとして、食中毒、薬害、産後の病気、 むくみを取り除き、胃腸を整え、血の流れをよくし、おなかにたまったガスを下げると書かれています。

また、高い所から落ちてけがをしたときや、のどがしびれたときには飲み、火傷や腫れたところには、すりつぶして塗ると効果があるとされていました。 炒った大豆の粉末は顔色をよくして、気力をつけるとして、不老長寿の錠剤に 使われていたそうです。

豆知識!  マメに暮らすために正月に長寿を願うために食べたり、元旦の朝に乾燥させた大豆の 茎や葉を使ってお雑煮を作ったりして一年の無病息災を祈ります

節分に炒った豆をまくのも、豆に宿る霊力で厄災をはらうためです。疫病、風邪などを豆にたくして、道端に捨てたり、井戸に投げ入れる風習も広く行われていました。

樋口一葉『十三夜』

深まる秋の十三夜を舞台に明治の女性の哀感が漂う名作です。

離婚の決意を固めながらも、それによって一人息子を失うことを怖れて離婚をとどまる女性の姿を描いている。
美貌の娘、お関は、高級官吏の原田勇に見初められたことにより、身分違いの結婚
をする。結婚当初、勇はお関を「下へも置かぬ」ように扱っていたものの、一人息子
の太郎が生まれてからは、人が変わったように何かにつけ 、お関に当たるようになる。
お関は以来、「物言はず辛棒して」きたが、太郎が五歳の旧暦十三夜の夜、秘かに実
家に戻る、、、

日本には、月は欠けても、満ちることから不死の象徴として とうとばれ、月をお団子に見立て食し、また月を杯に映しお酒を拝することで、健康で長寿が得られると考えられていたようです。

日本には色んなものを愛でる習慣、行事があります。花見、雪見、そして月見などとそれぞれ楽しみや想いが色んな形で残っていますね! 特に月は古くから身近にあり、文学や和歌に俳句、唄にも童謡に歌謡曲と、また各地で色々な風習として伝承されています。

何かと忙しい毎日の中で、空を見上げることを忘れがちです。ときには月を見上げ、コロナを少しのあいだ忘れ、美しい月を愛で悠久の時を楽しんむのは如何ですか?   全国各地で晴れるといいですね!

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ホワイト ジンジャが咲いた ! 素敵な香りがします インド産のショウガ科 キューバとニカラグァの国花です  花言葉 「豊かな心」「慕われる愛」

お彼岸とは、春分秋分の日の前後3日の7日間のことで、古くからその時期のお供え物とされてきたのが、「おはぎ」や「ぼたもち」です。秋分の日は、先月9月22日)

これらに欠かせない小豆は、古くは縄文時代から日本人にとってかかせない食材で、赤い小豆には「魔除け」の力があり、邪気を払う食べ物だと考えられていました。そのような考えが、先祖の供養と結びつき、お彼岸に欠かせない食べ物「おはぎ」や「ぼたもち」となったようです。

現代でも、祝いの席などで振舞われるお赤飯には小豆が使用されていますが、当時は自分たちが小豆を食べるのではなく、ご先祖様に捧げるものであったそうです。

「おはぎ」や「ぼたもち」は、名前の由来などに違いがあっても、彼岸には欠かせない伝統的な食べ物です。

ぼたもち と おはぎ、何気なく食べている人も多いと思いますが、どちらもすごく似ているのため、なにがどう違うのか気になったことはありませんか?

 ぼたもち」は江戸時代に春のお彼岸に食べられていたもので、砂糖は貴重だったため、あんこは塩味で作られていましたが、江戸時代中期になると砂糖の入ったあんこが広まったそうです。

■  それぞれ作る季節に違いがあり、一説には小豆を春に咲く牡丹の花に見立てたことから、「ぼたんもち」と呼ばれていたのが「ぼたもち」に変わったとも言われています。

一方の「おはぎ」は、秋の七草のひとつである萩の花と小豆の形状が似ているため、「おはぎもち」と呼ばれていたのが「おはぎ」に変わったとされています。

■  さらに、夏や冬に作る場合には別名があります。夏の別名は「夜船(よふね)」です。おはぎを作るときには臼でつくことはせず、米を潰して作られるため、餅をつく時のようなペッタンペッタンといった音が出ません。近隣の住人でもおはぎを“ついた”のがいつか分からないことから、夜は暗くて船がいつ“着いた”か分からない「夜船」になぞらえて呼ばれるようになったそうです。

また、冬は「北窓」とも呼ばれ、北にある窓からは“月”が見えないことによります。 搗(つ)くことをしないことから、転じて“月知らず”となったわけです。

今では季節の区別なく呼ばれることが多い「おはぎ」や「ぼたもち」ですが、春夏秋冬により呼び方が違ってた! 春は「ぼたもち」、夏は「夜船」、秋は「おはぎ」、冬は「北窓」と分けて呼ばれ、日本の言葉文化の繊細にさに驚きますねす!

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                                                                                          <写真はネットより> 

地方により違いが、「おはぎ」は秋の萩の花ににせて「小さめ」に作り、「ぼたもち」は春の牡丹の花のように「大きめ」に作ります。

そして、小豆の収穫シーズンの秋は皮がやわらかであることから、おはぎはつぶあん、そして春の小豆は冬を越して皮が固いからぼたもちはこしあんを使います。このように、あんこの違いによつて「おはぎ」「ぼたもち」を分けて呼ぶ地方もあります。

そして、ぼたもちやおはぎには、「全殺し」「半殺し」「皆殺し」という、ちょっと物騒な言葉があることを知っていますか? ただ聞いただけだと、怖い言葉に聞こえますが、これはもち米の潰し具合のお話しです。

ぼたもちやおはぎは、基本的にもち米の粒を半分程度しか潰さないことから、「半殺し」と呼ぶようになったのです。

ですから、もち米を半分潰したものが半殺しなら、すべて潰したものは「全殺し」や「皆殺し」と呼ばれています。

これらの呼び方は、全国各地で聞かれますが、とくに徳島県群馬県、東北地方で呼ばれることが多いです。ぼたもちやおはぎのことを「半殺し」と呼ぶことがあります。

おはぎには「うるち米」を、 ぼたもちには「もち米」と使い分けて作る地方もあるようですが、明確な決まりはないようです。うるち米:不透明な白色、普通にご飯として食べているもの)

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水仙が咲いた! ヒガンバナ科に属し色や形の異なる多くの種類がありますが、総称して「スイセン」と呼ばれています(地中海沿岸原産で、平安末期に中国から渡来)

(^^♪  ぼたもち」と「あんころもち」の違いは?

ぼたもちとあんころもちも、見た目はほとんど同じです。

あんころもちは「餡衣餅」と書きますが、その名前のとおり、餅の周りに餡の衣で覆っ

たもの。中が完全なお餅であることです。

ぼたもちの中は、うるち米を完全に潰さないものですから、ここが明確に違うというわけですね。

ちなみにあんころもちは、関西地方を中心に、夏の土用に食べる習慣があります。

 

 (^^♪  一言では語れない「おしるこ」と「ぜんざい」の違いは?

「ぜんざいと」は、主に小豆を砂糖で甘く煮て、餅や白玉団子、栗の甘露煮などを入れた料理です。基本的に、小豆から煮るので粒があります。小豆の粒がないものはぜんざいとはいわないようです。 

 ぜんざいの語源には2つの説があります。

仏教用語で「善哉」は「よきかな」とも読み、元々「すばらしい」を意味する言葉です。これを食べた一休禅僧が、あまりのおいしさに「善哉:すばらしい」と叫んだことからそう呼ばれるようになった、という説です。

もう一つは、出雲神社の神事において振る舞われた「神在餅(じんざいもち)」を由来とし、「じんざい」がなまって「ぜんざい」へと変化したと考えられています。 

おしるこの場合は、小豆あんを水でのばして砂糖を加えて煮て、その中に餅や団子を加えた料理です。特にこしあんを使う場合には、「さらしあん」を使ったようです。

「さらしあん」とは、生のこしあんを加熱乾燥させて粉末状にしたものです。その“粉のあん”を使ったことから「汁粉」と呼ばれるようになったようです。

「おしるこ」は江戸時代からあったようです。当初は甘いものではなく、塩味で調味されていて、お酒のつまみとして出されていたんだそう。

基本的には、「おしるこ」は汁あり、「ぜんざい」は汁なし、という分け方がされています。しかし、もっと細かく見ていくと、関東と関西ではその意味合いが違ってくるようです。ぼたもちと おはぎと同様、地方によつて違いがあります!

                                                                                                                                  <表はネットより>

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関東では、小豆あんの汁物全般を汁粉(しるこ)と呼びます。その中でも粒ありのものを田舎汁粉、粒なしのものを御前汁粉(ごぜんじるこ)と区別します。

関西では、粒なしのものを汁粉、粒ありのものをぜんざいと呼びます。関東でぜんざいといえば、餅などにあんを添えたものを指しますが、関西ではこれを亀山や金時などと呼ぶのだそうですよ。大阪ではこしあんで作った汁粉を「こしあんのぜんざい」と呼ぶ人もいるそうで、なかなかややこしいですね。

九州では、関西での違いと同じです。つまり、つぶあんをおしること呼び、こしあんをぜんざいと呼びます。 また、九州の一部の地域では餅が入っているものをおしるこ、白子団子が入ってているものはぜんざいと呼び、その逆も然りです。

北海道では、これと言って特質すべき違いはないよううです。しかし九州同様に北海道でも特殊な食べ方する地域があります。おしるこに白玉団子でなく、カボチャを入れると言うものです。 その食べ方の起源はお米の収穫が困難であった時代に、餅の代用品としてカボチャを用いたという時代の背景があるからです。

 日本の食文化って奥が深いですね! ある意味の「こだわり」や 「おもしろさ 」「繊細」など、地域により特色もあり驚きますね! 食べる際に違いを意識してみるのもいいですね! 日本て、い~いなぁ~~~ (^^♪

                         10/2 記 Marui

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10月1日は「芋名月」 (^^♪

 

 10月1日は中秋の名月』です 

                      (^^♪ <旧暦の八月十五日>

是非『お月見』を! 日本では昔から、秋八月(旧暦)の満月をと呼んで、美しい月を愛でる風習があります。観月とも言います。平安時代に唐(中国)から伝わった行事と、日本に古来からあった秋の収穫祭が合わさったものです。

月々に 月見る月は 多けれど

       月見る月は この月の月  (詠み人不明)

 

十五夜は、芋名月(いもめいげつ)ともいわれ、その年の豊作に感謝し、里芋の収穫期にあたることから「芋名月」ともよばれます

里芋とお月見の関係は、昔々、宮中の女官たちが、萩の枝で作ったお箸で里芋に穴をあけて、その穴から、月を眺めて、「月々に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月」という「月づくしの歌」を口ずさんだとも言われています。

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日本人は昔からお月さまが大好きです! お月さまにはうさぎが餅つきをしているように見えますが、うさぎも豊作を喜んでいる姿でしょうか?  現代子にこんんなことを言うと笑われるかな?

月見団子の形って、地方によって特色があります  (^^♪

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関東地方では、よく見る定番です。見た目もシンプルで味付けも砂糖です。

関西では、里芋をイメージして、餅にこしあんを巻きつけてあります。     「えっ、ぜんぜん違う!」関西では「お月見=芋」という風潮が強いそうです。

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 愛知地方では、しずくの形をしています。これは「芋」の形をイメージしたものみたいです。月見が伝来してきた当時は、芋をお供えしていたので、その名残が残っているようです。関西に近くにつれて、「芋」にちなんだ形になっていくところが興味深いですね!
  四国・中国。九州地方では、串にさした串団子タイプが多いようです。

画像は岡山県で定番の三色団子。あんこをくるんだり、きなこをかけたり、普通のみたらし団子だったり、バリエーションが豊富なのが特徴です。

関西より西は、串で食べるのが主流です。

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静岡地方では、「へそもち」という変わった形をした月見団子。静岡県中部地方ではこれが定番です。

由来は定かではありませんが、戦国時代、徳川家康が今川氏の人質として駿府にいた時のこと。徳川家康の付き人が、「元気に育つように」と願いをこめて、もちをへその形に窪ませ、その上にあんこを乗せたのが始まりとされています。

沖縄地方では、「ふぎゃぎ」または「ふちゃぎ」と言います。お餅のまわりには、小豆がまぶしてあります。ボロボロ落ちて食べにくいそうですね、味付けは、薄い塩味の餅に小豆をまぶすだけで、甘みはなく、ほぼ味がありません!

東北地方ではそもそも、お月見の文化が浸透していないそうです。 お月見の文化が平安時代に中国からきたことを考えると、東北まで伝わっていない可能性が高く、文化として根付いてないのもうなづけます。

 「お月見泥棒」

お供えだけでなく、独特の風習も各地に伝わっています。もっとも多いのが「お月見泥棒」です。

この日だけは、子供たちが他家の供え物をとったり、他人の畑の芋を盗んだりしても、大目にみるという「お月見泥棒」の風習が各地にまだ残っています。

たとえば長崎県の一部では「まんだかな」といい、子どもがお供えを自由に取っていいいそうです。

また東北の秋田県仙北郡では「片足御免」といい、他人の家に片足を踏み込んでお供えを取るくらいは許されるそう。
どちらも「お月さまがお供えを食べた」ととらえ、喜びます。

愛知の一部や名古屋市北区名東区など近県でも「お月見泥棒」の風習がみられます。一宮市に生まれ育ちました私も、昭和25年頃には兄貴と一緒に緊張しながら「お月見泥棒」に行った記憶があります>

子供は、お供えしたものを食べるのは「神様の力をいただく」また「お月さまの使い」と考えられていたようで、たくさん盗み食いされた家ほど縁起よいと言われたそうです。

現代では「月見団子」を盗むのではなく、「お月見ください」と言って家々を廻ってお菓子をもらう地方があるそうです。  

里芋の原産地は、インド東部からインドシナ半島にかけてという説が有力です。 少なくとも紀元前3000年ごろにはインドで栽培されていたようです。

日本で稲作が始まったのは弥生時代ですが、それ以前、縄文時代に焼き畑農業が行われており、その中心作物は里芋で、里芋は稲作以前の主食だったと考えられています。

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   我が家もそろそろ芋堀り! 十五夜にお供え準備! (^^♪

『御湯殿記』 室町中期~江戸末期・ 宮廷にある清涼殿御湯殿の女官たちの日記 に、陰暦8月15日(十五夜「名月御祝、三方に芋ばかり高盛り」新芋(サトイモ)を掘り、水炊きのまま月前に供えたりして収穫を祝った。と記述があります。

安永年間(1772年~1778年)この頃、京都、平野権太夫(料亭「いもぼう平野本店」の先祖)が、御所の御用を賜り野菜の栽培をしていた。仕え先の粟田青蓮院宮が長崎から持ち帰ったという里芋を育てたところ、大きい海老のような形ちをした芋が出来き、これが「えびいも」が生まれたとされています。

 

芋名月」秋の季語として詠まれてます!

「雲霧や芋名月のきぬかつき」    貞徳『犬子(えのこ)集』

「蕪(かぶら)よりいも名月やひがしやま」  安永『玉海集』 

 

 日本では、月への思いがさまざまな形で、各地に残され親しまれています。今年の十五夜はぜひご家族そろって食卓を囲み、お月さまと一緒に秋の旬をお楽しみたいですね!各地で晴れて、十五夜お月さんが顔をだして微笑んでくれるといいですね (^^♪

                                                                                                               

 9月22日 秋分の日です 昼と夜の長さが等しくなる日です。

秋分の日の3日前の日を「彼岸の入り」といい、3日後を「彼岸の明け」と言います。 その中間に位置する 日を「彼岸の中日」と呼ばれています。

1948年に、広い意味で「祖先を敬い、亡くなった人を忍ぶ日」として国民の祝日に制定されました。

この日には、各家々では家族そろってお寺や墓参りに行ったり、「おはぎ」を供え祖先を供養します。「ぼたもち」では?? おはぎとの違い? 次回に! (^^)/」

                              記   9/20  Marui