一宮市真清田神社 宝物館に 、
蘭奢待 / 蘭麝待(らんじゃたい) は、東大寺正倉院に収蔵されている香木(こうぼく)のことで、天下第一の名香と謳われ、少量を切り取り、香炉に入れて火を付け香りを楽しみます。
蘭奢待は東南アジアで産出された伽羅(きゃら)という香木で、時期には諸説がありますが、推古天皇3年(595年)くらいから10世紀くらいにかけて中国経由で日本に伝わったといわれています。
画像はネットより
東大寺正倉院の蘭奢待:長さ156.0cm、最大径42.5cm、重量11.6kgで、不整形な木材。内部はほぼ空洞となっている。
正倉院宝物目録での名は黄熟香(おうじゅくこう)で、「蘭奢待」という名は、その文字の中に"東 大 寺" の名を隠した雅称です。
その香は「古めきしずか」と言われる紅沈香ると並び、権力者にとって重宝された。宝物番号は中倉135番として保管されています。
日本史に残る限りでは、足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇の6人しか切り取る事が許可されませんでした。
画像はネットより
調査の結果、実際には50回以上切り取られた痕があり、蘭奢待を運んだ時や東大寺の関係者により切り取られたともいわれていますが、日本史において蘭奢待を切り取る事は、権力の大きさ、強さを世に示す行為でもあります。
織田信長は、永禄11年(1568年) 正親町天皇を保護するという大義名分により、京都を制圧し上洛する。そして、皇室の危機的状況あった朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させ、一方で、天皇の権威を用い、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させています。
そして、織田信長が「蘭奢待」を切り取ったのは天正2年(1574年)で、香りを楽しむために蘭奢待を切り取った訳ではなく、当時の権力を世に示すためといわれています。
『天正二年截香記』によれば、天正2年(1574年)3月23日に、織田信長は塙直正と筒井順慶を使者に出し、蘭奢待拝見の希望を伝えた。東大寺は足利家以外に正倉院宝庫の開封例がないとしつつも、信長の内裏修造などに配慮して勅使によって封が解かれれば聞き入れると返答。
勅許を得た信長は多聞山城に入り、勅使が到着を待つ。3月28日の辰の刻(午前8時頃)に正倉院中倉から黄熟香が城に運ばれ、東大寺僧3人の立会のもと、大仏師トンシキが持参した鋸で一寸八分(約5.5cm)ほど切り取らせる。
東大寺側の記録では「一寸四方(一辺が約3cmの正方形)を二個切り取った」となっており、少々異なりますが、、合計すれば、大きさに大差ありません。
信長はその後、1つは正親町天皇(おおぎまちてんのう)に献上し、もう1つは我等が拝領する。ちなみに正親町天皇に献上されたほうは、その後、毛利輝元などに分け与えられています。
そしてもう一方は、いくつかの小分けにして信長家臣にも与えたそうです。
そのうちのひとつが「村井貞勝」に与えられ、さらに貞勝から一宮城主で真清田神社の神官だった「関 長安氏」に与えられ、それが現在でも愛知県一宮市 真清田神社に奉納され、現在も宝物館に展示されています。
「人からもらったものをさらに別の人に」というのは、現代人からするとなんだか微妙な気持ちになるかもしれませんが、皇室や公家の間ではよくあることだったようです。
明治時代の女官の追想録にも「贈答品は贈った」という事実が大事なので、いただいた絹などをそのまま他の人に贈ることもあった」という記述があります。
砂漠の花(アデニウム)
こんな逸話も、
信長は、このとき供をした御馬廻衆にも「後々の話の種に、見ておくがいい」といい、蘭奢待を見ることを許したとか?
なんだか尊大にも見えますが、天皇の勅許がなければ見ることもできないようなものなので、ここは優しさといってもよいのか?
天正二年(1574)三月二十八日に信長が東大寺・正倉院の鍵を開けさせ、多聞山城に運んでから截りとった蘭奢待は、四月三日に京都・相国寺で俄かに催された茶会(特別な「御会」)において、千利休や今井宗久そして堺の豪商茶人にも分け与えられたとも云わっています。
当時、信長の信任厚く京都所司代の職にあった「村井貞勝」も拝領する機会があったものと推測されます。
蘭奢待の切り取りについて「信長が自分の力を誇示するため、強引に天皇と東大寺を脅して切り取ったんだ!」と指摘する方もおられるようですが、きちんと正規の手続きをしていますし、天皇にも献上しているのですから、特に問題はなさそうです。
本当に権力を誇示するだけなら、もっと乱暴なやり方をしていたでしょう。これまで世間の目を気にした行動も見せている信長ですから、そこまで計算していたのかもしれませんが?
「蘭奢待」のお値段は?
「開運 なんでも鑑定団」で査定? 軽く500万は行くのでは!
恐れ多くも、とても値段が付けられるものでないですね!!
一宮市真清田神社 宝物館
一宮城主であった「関 長安」は、天皇の御蔵・正倉院を開けて截り取った蘭奢待を所持することを良しとせず、穢(けが)れた家は持つべきではないとして、父の成重(長重)が真清田神社の神職でもあったことから、神社へ献じたものと思われます。
蘭奢待の香木は、目測で長さ約2cm、幅2mm程で、詰め物をした透明なガラス瓶の中に上から見えるように収めてあります。
一宮城主 「関 長安」の署名と花押がある「蘭奢待奉納状」と、真清田神社 初代神主 佐分栄清の署名と花押がある「覚書」が額の中に収められています。
「安蘭奢待奉納状」によれば、村井貞勝の配下にあった「関 長安」が真清田神社に奉納したのは天正二年(1574年)五月吉日となっていますから、信長が截りとってから二ヶ月のうちに、織田信長 ⇒村井貞勝 ⇒関 長安を経て神社に奉納されたことになります。
しかし『信長公記』の「蘭奢待切り補らるゝの事」記述に村井貞勝の名はありません。
「真清田神社之栞」に記してある蘭奢待の解説は次の通りです。
所蔵する蘭奢待(らんじゃたい)は正倉院の名香で一宮城主 関 長安の奉納状と初代神主佐分栄清覚書とともに竹筒に納められています。 奉納状には、長安が当社に蘭奢待を寄進した経緯として、南都の大衆神人が織田信長を歓待して蘭奢待を截り、信長はその一部を近臣 村井貞勝に分け、つぎに貞勝は配下の長安に与え、長安は自身が穢れた家には置き難いとして郷里の一宮真清田神社に奉納した経緯が認めてあります。
しかし「覚書」日付は寛永八年(1631年)閏十月吉日には、栄清がこれを点検した際、蘭奢待は存していなかったことを書き留めています。
蘭奢待をめぐるミステリー
江戸から昭和にかけて所在不明で、失われたことになっている「蘭奢待」!
奉納してから点検までの半世紀以上(57年)もの間、蘭奢待の存在が確認できず?
その有無は、、、
こんな背景も、「覚書」が記された寛永八年は、初代尾張藩主・徳川義直が真清田神社の大修理を敢行し、積年の荒廃を回復した年でもあります。
さらに、それから一世紀後の享保18年(1733)、三代目神主・佐分清円が記した『真清探桃(ますみたんとう)集』にも蘭奢待は存在していなかった旨が記されているといいます。佐分清円が延享2年(1745年)に記した『尾張国名蹟畧志考』にも同様の記載があるとのことです。
真澄田神社の森の中に消えてしまった「蘭奢待」? どこえ!??
ところが、昭和14年(1939年)に発行された『一宮市史』(一宮市役所著作兼発行者)には、「不思議にも今は長五分程の香木が現存している」と記述されています。
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蘭奢待が容器に収められて展示されています。
そして、昭和59年(1984年)には真清田神社宝物館が完成し、現在のように関連文書と共に香木・蘭奢待は展示ケースの中に収まっています。
現代の科学技術ですれば、正倉院の「蘭奢待」と比較すれば判別は可能と思われます。 しかし今となって、誰れかが保管し持っていた?? 予想外の処にあった??
歴史はいつもミステリーとロマンに満ちています! 詮索はご無用!? まずは自分の目で確かめてみては如何か、!? (@_@)
現在「蘭奢待(らんじゃたい)」は、一般公開されています。
<開館日:土・日・祝日 10:00~3:00 大¥200.- ¥150.-中高生 小¥100.->
◆ 宝物館の見学は予約制です。 TEL 0586-73-5196
一宮城城主「 関 長安」とは、
長安の祖父康正が享禄2年(1529年)現在の本町三丁目に一宮城を築城し、長重、長安と3代に渡って居城とし、真清田神社の神職も務めた為、真清田神社に関氏3代の奉納品は少なくない。尚、長安は天正12年(1584年)長久手・小牧合戦で戦死し、天正19年(1591年)には一宮城は廃城になった。
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8月と言えば、『お盆』ですね!
「盆と正月」という言葉があるように、お盆はお正月と同様にさまざまな歴史的風習があり、今も受け継がれているとても大切な日本の文化です。
お盆は、先祖の霊を迎える日で、昔から亡くなった人は7月の15日に帰ってくるとされていました。新暦では8月の半ばにあたるため、8月半ばにお盆の行事を行うところがほとんどです。
お盆の正式名称は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言われインドのサンスクリット語の「ウラバンナ」(逆さ吊り)、ペルシャ語の「ウラヴァン」(霊魂)からきた言葉だといわれています。また、お盆は供物を盛る器を表しているという説もあります。
お盆の行事は、仏教の開祖であるお釈迦様の弟子が地獄に落ちた母親を救うため、7月15日に霊を供養した、というのがそもそもの起源だそうです。
日本で最初にお盆を行ったのは推古天皇で、今から1400年も前の飛鳥時代です。 長い間、貴族や僧侶だけが行う特別な行事でしたが、江戸時代に入ると、ろうそくや提灯が大量生産されたこともあって、一般の人にも定着して行きます。
一般的なお盆の期間は、8月13日から16日まで。地方によって違いがあり、東京や函館などでは7月に、沖縄などでは旧暦の7月15日に行われています。
欠かせないのは盆踊り!
本来、盆踊りはお盆に帰ってきた先祖の霊を慰める霊鎮め(たましずめ)の行事です。今はお盆以外の時期に盆踊りを行うことがありますが、本来は旧暦7月15日の晩に盆踊りを行い、16日に精霊送りをするのもそのためです。ブラジルでは、「ボンダンス」と言われて楽しまれています。
楽しいだけではなく盆踊りになぜか切なさを感じるのは、祖霊になった人々との別れを惜しむ踊りであり、人の出会いや別れとともに過ぎ行く夏を惜しむ踊りだからですね!
そのためでしょうか、楽しいだけではなくなぜか切なさを感じます
郡上おどりのルーツは、定かではありませんが、
盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事は仏教と深くかかわり、踊り自体は祖霊を供養するものとして平安時代に広がった念仏踊りが始まりだとされています。
先祖代々、どんな時代にも常に心の拠り所として受け継がれてきました。昭和20年の終戦の日ですら、英霊の御霊(みたま)を慰めるために踊ったという事実も残っています。
そして戦後には、阿波踊り・花笠踊りと合わせて日本三大民謡踊りのひとつと称され、昭和48年(1973年)には「古調かわさき」が国の無形文化財に指定され、平成8年(1996年)には全10曲が国重要無形民俗文化財の指定を受けています。
ほとんどの盆踊りは、手の動きよりも足の動きを重視しています。これは、足・下半身の跳躍運動が神送りの意味をもつためで、天地の間にいる人間が地を踏むという動作には、霊を封じ込める鎮魂の意味があります。
「踊」という字も足偏ですね。ちなみに、神迎えは手を重視した「舞」になります。
今年の郡上踊りは、 7月15日 (土)から9月9日 (土)までの31夜、その期間中の徹夜おどりは8月13日 (日)から16日 (水)までの4日間で開催されます。
郡上おどりがユネスコ無形文化遺産に登録されたことをうけて、コロナ禍前の本来の形である伝統を重視した開催となるそうです。
夏の花 ハイピスカス
マスク着用ルール暖和から4ヶ月、なかなかマスクが外せない (>_<)
7月になり、スマホの天気アプリ「ウェザーニュース」が利用者にマスク着用状況を尋ねた結果、1,800人余の54%が「着けていない」と、その理由は「暑いから」74%だったそうです。
3月の調査では「着けていない」が 17% ・ 4月は 21% ・ 5月は 34% ・ 6月は 40%でした。理由はコロナ感染予防対策ばかりでなく、花粉症の人や日焼け防止のためとか、化粧が面倒う?? と多種多様です。(@_@)
特に7月になり花粉シーズンが終了し暑くなったので脱マスク! 54%の過半数になったとも! しかし一方で「第9波」と言われると悩ましい! 今年の夏は暑い~~ 熱中症のリスクも心配??
脱マスク「さーど うする皆さん」 8月1日 UP