「四季」 折々に思いつくまま!

いつも元気で、笑顔で、楽しい 「好々爺」です <ASC23期生>

日本人と文字の出会いは (?_?)

 日本語って、難解 ??

『敷居が高い』の意味を日本人の半数以上がカン違い!

「あのお店はちょっと高級すぎて、上品すぎて敷居が高くて…」といった意味で使うことが多いと思いますが ?

実はこの言葉の使いかたは間違いで、文化庁の『国語に関する世論調査』(平成20年度)で、67.9%もの日本人が正しく理解できていないことが判明したとあります。

そして20代の若者はほぼ8割が間違えていたとあります。 無理もない、住宅事情も変わり「敷居」も分からない若者も多いと聞く! 大変間違いやすい言葉使い(慣用句)なのです!

正しい使いかたは、「相手に不義理などをしたり、長い間音信不通だったりして敷居が高くて家に行くにくい」とこのように使います。  (^^)/

「映画の寅さん」タンカを切って家を飛び出したが! 寅さん、家に帰えってくるのに家の前で「敷居が高くて」モジモジしている。 えっ! 寅さんを知らない 人が?  

                   9/28 中日新聞「中日春秋」コラム欄より、

 最近はドアが多いので「敷居」と言ってもパッと思い浮かばない人もいるかもしれませんが、引き戸や襖、障子を開け閉めするとき、下に戸を受けるレールのような溝のついた横木(敷居)がありますよね!  日本家屋では「敷居」というのは内と外を区切る大切な存在です。中に入るためには必ず敷居をまたぐわけですから、不義理をして気まずかったりして、その家に「入りにくい」ということを「敷居が高い」と表したわけです。

しかし、「高級すぎる」「自分にはレベルが高すぎる」というのは間違いであると言われていましたが、世論調査などでも、この本来の意味ではないとされている意味で使う人のほうが多いという結果が出ました。そもそも「不義理をして」のほうの意味が本来の意味であるとする根拠も曖昧で、以前から誤用とは限らないと主張する人もいました。

2018年1月に発売された広辞苑第七版』では「高級だったり格が高かったりと思えて、その家・お店に入りにくい」という表現が付け加えられました。《 第六版まではなかった記述ですが、今回「俗説として」などの注記もありませんので、正式な用法として認められた」ということになりますネ!》

日本語の文化は多様化して、複雑な「使いかた・言い回し」がありますね 。 最近スマホの普及やオタク文化のメジャー化し、10代〜20代前半の若者やネット住民が使い始めた言葉が浸透する傾向が顕著で、若者が使う言葉やイントネーションの使い方がへんで、理解できないことがイッパイあります。     そして死語になるスピードも早く、やっと覚えた言葉が古いと言われたりしてします。だから30歳をこえたイイ大人が? 最新の若者言葉や最新のネットスラングをガンガン使うのは痛々しいと感じませんか?? とはいえ、いちいち「どういう意味なの?」なんて聞くのもシャクで解ったような顔して、「オヤジ・オジィ」の烙印を押されぬようにつとめているが! チョット日本語が乱れてない ? コロナ感染拡大で世界中混乱! 一日も早く以前の普通の生活が欲し~~です! 言葉も! (>_<)f:id:marui-hall:20201013162617j:plainマリーゴールド」 花壇に一株あれば、虫よけに効果あり  (^^♪ 原産地はメキシコ  名前にはキリストの「聖母マリアの黄金の花」と意味が込められています

日本人と文字の出会いは、中国から漢字が伝来する以前に日本には、固有の文字はありませんでした!人々は神話や伝説などを全て口伝えでしていた。 日本列島において初めて漢字を目にしたのは、古代の遺跡から漢字が刻まれた金印や中国の銅銭が発掘されていることから、遅くとも1世紀頃と推定されています。

しかし漢字を目にした人たちが、それを文字だと認識していたかどうかについては、また別の問題です。 わたしたちがアラビア文字を見るときのように、おそらく当時の人々にとって、漢字を文字として理解していたというよりは、複雑な模様に権威や呪力を感じ、模様のようにしか映らなかったと考えられています。漢字が本格的に使用されるようになるのは、出土した 木簡(もっかん)の研究から、中国や朝鮮半島を経由して 儒教、仏教、道教などを受容してきた6世紀から7世紀にかけてのことで、漢字に出会って 約1600年の歴史です。

では中国で生まれた漢字  日本では、 いつごろから漢字を文字として理解し始めたか詳しいことはわかっていないが、確実なのは邪馬台国(やまたいこく)の時代、紀元3世紀ごろと推定されています。魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』で有名なように、このころには、日本と中国との間に使節の往来があり、おそらく邪馬台国やそれに先立つ国々には、漢字を理解し、文書を扱うことのできる人々がいたに違いないとも考えられています。

漢字の使用例は5世紀の 稲荷山古墳出土 の鉄剣や、江田船山古墳出土 の太刀などに見られます。人名の部分は漢字の音だけを使って表記されて、いずれも漢文で書かれています。

そして6~7世紀には遣隋使や遣唐使として中国大陸でさまざまなことを学び帰国する。儒教を中心とする明経道(みょうぎょうどう)を学ぶ人も増えて識字層が広がり、奈良時代に建立された東大寺では官立の写経所が設けられ、漢字で書かれた経典の書写も盛んになります。

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                               (ネットより)

私たちは何気なく「漢字」と呼んでいますが、そもそもこの呼び名はいつ頃から使われていたか?

漢字の起源は紀元前1300年頃の中国大陸にさかのぼることができるため、漢王朝(紀元前2世紀〜紀元後2世紀)の字だから「漢字」というワケにはいきません。漢字の「漢」は王朝由来ではなく、漢民族が使っている文字という意味で、唐代の頃に使われ始めたといわれています。

 東アジアで固有の文字を発達させた漢民族は、しばらくは自分たちが使っている文字を特別な呼称で呼ぶ必要はありませんでした。しかし、シルクロードなどを通ってインドの梵字をはじめ、西方のさまざまな文字が中国に伝わってきたことから、それらの文字と対比するために漢字という呼び方が定着したそうです。

しかし、漢字は日本語の文法とは異なります。そこで日本語の文法に沿って書き表す変体漢文(和化漢文)が生まれ、漢字に和語(やまとことば)を当てはめる独自の読み方を開発しました。 漢字本来の意味ではなく「音」を使って書き表す「万葉仮名」を発達させ、のちの「ひらがな」の誕生につながるのです。

日本に伝来した漢字は、次第に日本独自の使い方をするようになります。主な漢字の使われ方は以下の三通りです。

■ 現代の音読み、(中国での意味と同じ)で使う (例:山=サン)

■ 日本独自に訓読して使う (例:山=ヤマ)

■ 字音だけを借りて音を表記するのに使う(例:也麻=ヤマ、波奈=ハナ)

この例のように、漢字が持つ意味を無視して音がけを使用して表記した文字を「万葉仮名」と言います。

「万葉仮名」は人名や地名といった日本独自の名詞漢字で表記するときに使われていまた。音を借りるという意味から仮借(かしゃく)、万葉仮名のことを別名で借字(しゃくじ)と言います。 

稲荷山古墳出土の鉄剣も、名前の部分に「万葉仮名」が使われています。出土資料から、万葉仮名は7世紀ごろであろうと言われています。

万葉仮名は、漢字を使って日本語の音を表したもので、いわゆる「当て字」で、最初は固有名詞で使われていたようです。 8世紀に成立した『古事記』『日本書紀』『万葉集』などでは、「万葉仮名」が使われています。

                           ( 下図は、ネットより )

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「万葉仮名」で書かれた日本語は全て漢字表記で、現代のようにまだ漢字仮名(かな)交じりではありませんでした。ひらがなとカタカナは、この万葉仮名から誕生しましたが、もう少し後の時代になります。

 ひらがなの誕生 ... ひらがなは、万葉仮名をくずして簡単にした文字で、9世紀ごろから使われるようになったと言われています。 当時の貴族社会において、男性が公的な場面で用いるのは漢字であり、ひらがなは主に私的な場面で、あるいは女性によって使われる文字とされました。      ( 下図は、ネットより )

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ひらがなは、主に手紙や和歌、物語、随筆などに用いられ、女流文学が花開く契機となりました。
ひらがなで書かれたこの頃の文学作品には、紀貫之が女性を装ってつづった『土佐日記』(935年ごろ)、 清少納言の『枕草子』(1001年ごろ)、 紫式部の『源氏物語』(1008年ごろ)などがあります。 

 カタカナの誕生 ...ひらがなとほぼ同時期に万葉仮名から生まれました。ひらながが万葉仮名をくずしたものであるのに、カタカナは万葉仮名の一部分を抜き出したものが起源とされています。 (下 図は、ネットより )

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僧侶の間で読まれていた経典は、全て漢文で書かれていたので、僧侶たちは行間に読み方などのメモを書き入れていました。
その際、形の複雑な万葉仮名では狭い行間に書き入れるのが難しいため、9世紀ごろから万葉仮名の一部だけが書かれるようになりました。
これが、かたかなの始まりと言われています。 

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今年も咲きました、ホトトギスの花「時鳥草」「油点草」「社鵑草」と書きます

名前の由来は、もちろん鳥のホトトギスから、ユリ科ホトトギス属、

漢字(かんじ)は、中国古代黄河文明で発祥した表語文字で、四大文明で使用された古代文字のうち、現代も使用される唯一の文字体系である。また史上もっとも文字数が多い文字体系であり、その数は10万字を超えると言われ、ほかの文字体系を圧倒する。古代から周辺諸国家や地域に伝播して漢字文化圏を形成し、言語のみならず文化上の大きな影響を与えています。

現代では、中国語、日本語、韓国における朝鮮語(韓国語)、広西の東興市にいるジン族が使用のベトナム語の記述に使われていますが、韓国語ではほとんど使用されなくなっています。

20世紀に入り、漢字文化圏内でも中国語と日本語以外は漢字表記をほとんど廃止しされましたが、なお 約15億人が使用し、約50億人が使うラテン文字についで、世界で2番目に使用者数が多い漢字です。

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シュウメイキク(秋明菊)も咲いた!日本では古くから野生化してきた多年草で原産地は中国、台湾で、中国では「秋冥菊」と表記 花言葉は「淡い思い」「多感な時」

京都の貴船地方で自生する秋の風情を演出する花です (^^♪

不思議な日本語?

漢字の表記も地域によって独自の文化やが傾向があり、例えば寿司は東京では「鮨」と書かれることが多い一方で、近畿では「鮓」が優勢なのだとか。また、「渋谷」は東京では「しぶや」と読むことが一般的ですが、関西では「しぶたに」と読む、「大谷」は西日本では「おおたに」、東日本では「おおや」と読まれやすいなど読み方にも地域差があるようです。ちなみに、タレントの草彅剛さんの「彅」や蛯原友里さんの「蛯」は、限られた地域で使われていた漢字が本人たちの知名度が上がったことで全国的に読まれるようになった漢字で、“出世漢字”といえるかも?

尾張藩でも用水路やその入り口を意味する「杁:イリ」は、江戸時代に尾張藩で作られた方言漢字です。江戸幕府や他の藩では 木偏でなく土偏の「圦」が使われていたそうです。

ちなみに、江戸時代(1628年)に 木曽川から大江川(宮田用水)に導水するために「杁」が作られて用いられた文字が木偏の文字です。浅井町の大野極楽公園に記念碑がありこの文字が使われています。 (^^♪

地域差ではなく “書き間違い” から生まれる漢字もあります。メジャーなところでは「サイトウ」と読む姓ですが、一説には80以上も存在すると言われてますが、全国的に多い「斉藤」「斎藤」「齋藤」「齊藤」は、もともとすべて「斎藤」が由来で、ほかの字体は役所の人間の書き間違いから生まれたとも言われていた話もあります。 (>_<)

そこで、問題です!

お茶の「いえもん」とか 盗賊の「いしかわごえもん」て、漢字でどう書くのかな?

「右」を忘れないで??

日本語の歴史は、漢字を音読み、訓読み、そして漢字のもつ意味を無視した「万葉仮名」を使い、そして日本独自の文字文化を進化させた「 かな」と「カタカナ」をも作り出して、使いこなした先人に驚くばかりです。

中国から伝わった「漢字」とは違い、日本だけで発達した「かな文字」が誕生し、その優美さに女性文学が盛んになり、清少納言紫式部が活躍することになり、「かな文字」の素晴らしさに驚くばかりですね! (^^♪                  11月1日 Marui

 

 

 

もう、10月です (^^)

『秋の空』高々として澄みわたり気持ちのいいものですね! でも変わりやすいのが「女心と秋の空」などと変わりやすい例えになっていますが、広辞苑を調べると「男心と秋の空」とあり『変わりやすい ものの例え』と書いてあります?? 女心でないのかな ??  (>_<)

ところうで、10月1日 中秋の名月十五夜のお月見しましたか?

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我が家より眺めた十五夜の月です (^^)/ 明らかな夜を「良夜」と呼びます。  特に陰暦八月十五夜の名月が、曇って月が見えないことを「無月」といい、また雨が降れば、「雨月」と称して楽しまれていました。   < PM20:00  頃撮影 >

 

今年の10月29日は 「十三夜・じゅうさんや」です。

お月見の起源は、中国の唐の頃に伝わったとされる「十五夜」が有名ですが、

日本では、月を愛でる習慣は縄文時代からあったとされ、平安時代には貴族の間で月見の宴を催し、舟遊びをして池に映る月を愛で、お酒の杯に月を映して拝し宴を楽しんだりしました。
江戸時代には庶民にも広がり、稲穂に見立てたススキや獲れた芋や栗を供えて秋の収穫を祝ったといわれています。この様に日本独特の風習の「十三夜」(旧暦九月十三日) もまた美しい月であると重んじられてきました。

《一説には宇多法皇が九月十三夜の月を愛で「無双」と賞したことが始まりとも、醍醐天皇の時代(延喜十九年:西暦919年)に開かれた観月の宴が風習化したものとも言われています》

十五夜はあまりすっきりしない夜空であることが多いのに対し、十三夜の夜は晴れることが多いようで、「十三夜に曇り無し」という言葉もあります

今年も晴れてお月見ができるはずです? 一般に十五夜に月見をしたら、必ず十三夜にも月見をするものとされ、十三夜のお月見をしないと「片三月」といつて縁起が悪いと言います。                            <写真はネットより>

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十三夜は「豆名月」とか「栗名月」と呼ばれて、豆や栗を神棚などに供えることから、「豆名月」とか「栗名月」と呼ばれます。また中秋の名月の後なので、後(のち)の月と言われたり、月の名残り、豆の月、まめなづきとも言われます。
「よめはつらき茄子かるるや豆名月 芭蕉

長野県安曇郡その他の地方では「小麦の名月」と言われます。これは旧暦九月十三日の晩のお天気で、翌年の小麦の豊作、凶作を占う習慣から来ています。
そして福岡県の海岸部では,この日を女の名月と呼んで,女がいばってもよい日だと伝えています。

さらに翌月の十日(旧暦10月10日)の月の夜は「十日夜:とうかんや」と言って稲の収穫を祝ってお餅をついたりします。特に東日本を中心に収穫祭としして様々な行事があります。

「十三夜」は聞いた事があるけど、「十日夜」は知らないという方も多いと思いますが、昔から「十五夜」「十三夜」「十日夜」の三つのお月見をすると大変縁起が良いとされています。 (^^♪ <今年の「十日夜」は  11・24・火曜 です>

 大豆は薬、平安時代に書かれた日本で最古の医書に、大豆についての記述があります。煮汁を飲むと鬼を殺し、毒を取り去るとして、食中毒、薬害、産後の病気、 むくみを取り除き、胃腸を整え、血の流れをよくし、おなかにたまったガスを下げると書かれています。

また、高い所から落ちてけがをしたときや、のどがしびれたときには飲み、火傷や腫れたところには、すりつぶして塗ると効果があるとされていました。 炒った大豆の粉末は顔色をよくして、気力をつけるとして、不老長寿の錠剤に 使われていたそうです。

豆知識!  マメに暮らすために正月に長寿を願うために食べたり、元旦の朝に乾燥させた大豆の 茎や葉を使ってお雑煮を作ったりして一年の無病息災を祈ります

節分に炒った豆をまくのも、豆に宿る霊力で厄災をはらうためです。疫病、風邪などを豆にたくして、道端に捨てたり、井戸に投げ入れる風習も広く行われていました。

樋口一葉『十三夜』

深まる秋の十三夜を舞台に明治の女性の哀感が漂う名作です。

離婚の決意を固めながらも、それによって一人息子を失うことを怖れて離婚をとどまる女性の姿を描いている。
美貌の娘、お関は、高級官吏の原田勇に見初められたことにより、身分違いの結婚
をする。結婚当初、勇はお関を「下へも置かぬ」ように扱っていたものの、一人息子
の太郎が生まれてからは、人が変わったように何かにつけ 、お関に当たるようになる。
お関は以来、「物言はず辛棒して」きたが、太郎が五歳の旧暦十三夜の夜、秘かに実
家に戻る、、、

日本には、月は欠けても、満ちることから不死の象徴として とうとばれ、月をお団子に見立て食し、また月を杯に映しお酒を拝することで、健康で長寿が得られると考えられていたようです。

日本には色んなものを愛でる習慣、行事があります。花見、雪見、そして月見などとそれぞれ楽しみや想いが色んな形で残っていますね! 特に月は古くから身近にあり、文学や和歌に俳句、唄にも童謡に歌謡曲と、また各地で色々な風習として伝承されています。

何かと忙しい毎日の中で、空を見上げることを忘れがちです。ときには月を見上げ、コロナを少しのあいだ忘れ、美しい月を愛で悠久の時を楽しんむのは如何ですか?   全国各地で晴れるといいですね!

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ホワイト ジンジャが咲いた ! 素敵な香りがします インド産のショウガ科 キューバとニカラグァの国花です  花言葉 「豊かな心」「慕われる愛」

お彼岸とは、春分秋分の日の前後3日の7日間のことで、古くからその時期のお供え物とされてきたのが、「おはぎ」や「ぼたもち」です。秋分の日は、先月9月22日)

これらに欠かせない小豆は、古くは縄文時代から日本人にとってかかせない食材で、赤い小豆には「魔除け」の力があり、邪気を払う食べ物だと考えられていました。そのような考えが、先祖の供養と結びつき、お彼岸に欠かせない食べ物「おはぎ」や「ぼたもち」となったようです。

現代でも、祝いの席などで振舞われるお赤飯には小豆が使用されていますが、当時は自分たちが小豆を食べるのではなく、ご先祖様に捧げるものであったそうです。

「おはぎ」や「ぼたもち」は、名前の由来などに違いがあっても、彼岸には欠かせない伝統的な食べ物です。

ぼたもち と おはぎ、何気なく食べている人も多いと思いますが、どちらもすごく似ているのため、なにがどう違うのか気になったことはありませんか?

 ぼたもち」は江戸時代に春のお彼岸に食べられていたもので、砂糖は貴重だったため、あんこは塩味で作られていましたが、江戸時代中期になると砂糖の入ったあんこが広まったそうです。

■  それぞれ作る季節に違いがあり、一説には小豆を春に咲く牡丹の花に見立てたことから、「ぼたんもち」と呼ばれていたのが「ぼたもち」に変わったとも言われています。

一方の「おはぎ」は、秋の七草のひとつである萩の花と小豆の形状が似ているため、「おはぎもち」と呼ばれていたのが「おはぎ」に変わったとされています。

■  さらに、夏や冬に作る場合には別名があります。夏の別名は「夜船(よふね)」です。おはぎを作るときには臼でつくことはせず、米を潰して作られるため、餅をつく時のようなペッタンペッタンといった音が出ません。近隣の住人でもおはぎを“ついた”のがいつか分からないことから、夜は暗くて船がいつ“着いた”か分からない「夜船」になぞらえて呼ばれるようになったそうです。

また、冬は「北窓」とも呼ばれ、北にある窓からは“月”が見えないことによります。 搗(つ)くことをしないことから、転じて“月知らず”となったわけです。

今では季節の区別なく呼ばれることが多い「おはぎ」や「ぼたもち」ですが、春夏秋冬により呼び方が違ってた! 春は「ぼたもち」、夏は「夜船」、秋は「おはぎ」、冬は「北窓」と分けて呼ばれ、日本の言葉文化の繊細にさに驚きますねす!

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                                                                                          <写真はネットより> 

地方により違いが、「おはぎ」は秋の萩の花ににせて「小さめ」に作り、「ぼたもち」は春の牡丹の花のように「大きめ」に作ります。

そして、小豆の収穫シーズンの秋は皮がやわらかであることから、おはぎはつぶあん、そして春の小豆は冬を越して皮が固いからぼたもちはこしあんを使います。このように、あんこの違いによつて「おはぎ」「ぼたもち」を分けて呼ぶ地方もあります。

そして、ぼたもちやおはぎには、「全殺し」「半殺し」「皆殺し」という、ちょっと物騒な言葉があることを知っていますか? ただ聞いただけだと、怖い言葉に聞こえますが、これはもち米の潰し具合のお話しです。

ぼたもちやおはぎは、基本的にもち米の粒を半分程度しか潰さないことから、「半殺し」と呼ぶようになったのです。

ですから、もち米を半分潰したものが半殺しなら、すべて潰したものは「全殺し」や「皆殺し」と呼ばれています。

これらの呼び方は、全国各地で聞かれますが、とくに徳島県群馬県、東北地方で呼ばれることが多いです。ぼたもちやおはぎのことを「半殺し」と呼ぶことがあります。

おはぎには「うるち米」を、 ぼたもちには「もち米」と使い分けて作る地方もあるようですが、明確な決まりはないようです。うるち米:不透明な白色、普通にご飯として食べているもの)

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水仙が咲いた! ヒガンバナ科に属し色や形の異なる多くの種類がありますが、総称して「スイセン」と呼ばれています(地中海沿岸原産で、平安末期に中国から渡来)

(^^♪  ぼたもち」と「あんころもち」の違いは?

ぼたもちとあんころもちも、見た目はほとんど同じです。

あんころもちは「餡衣餅」と書きますが、その名前のとおり、餅の周りに餡の衣で覆っ

たもの。中が完全なお餅であることです。

ぼたもちの中は、うるち米を完全に潰さないものですから、ここが明確に違うというわけですね。

ちなみにあんころもちは、関西地方を中心に、夏の土用に食べる習慣があります。

 

 (^^♪  一言では語れない「おしるこ」と「ぜんざい」の違いは?

「ぜんざいと」は、主に小豆を砂糖で甘く煮て、餅や白玉団子、栗の甘露煮などを入れた料理です。基本的に、小豆から煮るので粒があります。小豆の粒がないものはぜんざいとはいわないようです。 

 ぜんざいの語源には2つの説があります。

仏教用語で「善哉」は「よきかな」とも読み、元々「すばらしい」を意味する言葉です。これを食べた一休禅僧が、あまりのおいしさに「善哉:すばらしい」と叫んだことからそう呼ばれるようになった、という説です。

もう一つは、出雲神社の神事において振る舞われた「神在餅(じんざいもち)」を由来とし、「じんざい」がなまって「ぜんざい」へと変化したと考えられています。 

おしるこの場合は、小豆あんを水でのばして砂糖を加えて煮て、その中に餅や団子を加えた料理です。特にこしあんを使う場合には、「さらしあん」を使ったようです。

「さらしあん」とは、生のこしあんを加熱乾燥させて粉末状にしたものです。その“粉のあん”を使ったことから「汁粉」と呼ばれるようになったようです。

「おしるこ」は江戸時代からあったようです。当初は甘いものではなく、塩味で調味されていて、お酒のつまみとして出されていたんだそう。

基本的には、「おしるこ」は汁あり、「ぜんざい」は汁なし、という分け方がされています。しかし、もっと細かく見ていくと、関東と関西ではその意味合いが違ってくるようです。ぼたもちと おはぎと同様、地方によつて違いがあります!

                                                                                                                                  <表はネットより>

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関東では、小豆あんの汁物全般を汁粉(しるこ)と呼びます。その中でも粒ありのものを田舎汁粉、粒なしのものを御前汁粉(ごぜんじるこ)と区別します。

関西では、粒なしのものを汁粉、粒ありのものをぜんざいと呼びます。関東でぜんざいといえば、餅などにあんを添えたものを指しますが、関西ではこれを亀山や金時などと呼ぶのだそうですよ。大阪ではこしあんで作った汁粉を「こしあんのぜんざい」と呼ぶ人もいるそうで、なかなかややこしいですね。

九州では、関西での違いと同じです。つまり、つぶあんをおしること呼び、こしあんをぜんざいと呼びます。 また、九州の一部の地域では餅が入っているものをおしるこ、白子団子が入ってているものはぜんざいと呼び、その逆も然りです。

北海道では、これと言って特質すべき違いはないよううです。しかし九州同様に北海道でも特殊な食べ方する地域があります。おしるこに白玉団子でなく、カボチャを入れると言うものです。 その食べ方の起源はお米の収穫が困難であった時代に、餅の代用品としてカボチャを用いたという時代の背景があるからです。

 日本の食文化って奥が深いですね! ある意味の「こだわり」や 「おもしろさ 」「繊細」など、地域により特色もあり驚きますね! 食べる際に違いを意識してみるのもいいですね! 日本て、い~いなぁ~~~ (^^♪

                         10/2 記 Marui

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10月1日は「芋名月」 (^^♪

 

 10月1日は中秋の名月』です 

                      (^^♪ <旧暦の八月十五日>

是非『お月見』を! 日本では昔から、秋八月(旧暦)の満月をと呼んで、美しい月を愛でる風習があります。観月とも言います。平安時代に唐(中国)から伝わった行事と、日本に古来からあった秋の収穫祭が合わさったものです。

月々に 月見る月は 多けれど

       月見る月は この月の月  (詠み人不明)

 

十五夜は、芋名月(いもめいげつ)ともいわれ、その年の豊作に感謝し、里芋の収穫期にあたることから「芋名月」ともよばれます

里芋とお月見の関係は、昔々、宮中の女官たちが、萩の枝で作ったお箸で里芋に穴をあけて、その穴から、月を眺めて、「月々に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月」という「月づくしの歌」を口ずさんだとも言われています。

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日本人は昔からお月さまが大好きです! お月さまにはうさぎが餅つきをしているように見えますが、うさぎも豊作を喜んでいる姿でしょうか?  現代子にこんんなことを言うと笑われるかな?

月見団子の形って、地方によって特色があります  (^^♪

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関東地方では、よく見る定番です。見た目もシンプルで味付けも砂糖です。

関西では、里芋をイメージして、餅にこしあんを巻きつけてあります。     「えっ、ぜんぜん違う!」関西では「お月見=芋」という風潮が強いそうです。

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 愛知地方では、しずくの形をしています。これは「芋」の形をイメージしたものみたいです。月見が伝来してきた当時は、芋をお供えしていたので、その名残が残っているようです。関西に近くにつれて、「芋」にちなんだ形になっていくところが興味深いですね!
  四国・中国。九州地方では、串にさした串団子タイプが多いようです。

画像は岡山県で定番の三色団子。あんこをくるんだり、きなこをかけたり、普通のみたらし団子だったり、バリエーションが豊富なのが特徴です。

関西より西は、串で食べるのが主流です。

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静岡地方では、「へそもち」という変わった形をした月見団子。静岡県中部地方ではこれが定番です。

由来は定かではありませんが、戦国時代、徳川家康が今川氏の人質として駿府にいた時のこと。徳川家康の付き人が、「元気に育つように」と願いをこめて、もちをへその形に窪ませ、その上にあんこを乗せたのが始まりとされています。

沖縄地方では、「ふぎゃぎ」または「ふちゃぎ」と言います。お餅のまわりには、小豆がまぶしてあります。ボロボロ落ちて食べにくいそうですね、味付けは、薄い塩味の餅に小豆をまぶすだけで、甘みはなく、ほぼ味がありません!

東北地方ではそもそも、お月見の文化が浸透していないそうです。 お月見の文化が平安時代に中国からきたことを考えると、東北まで伝わっていない可能性が高く、文化として根付いてないのもうなづけます。

 「お月見泥棒」

お供えだけでなく、独特の風習も各地に伝わっています。もっとも多いのが「お月見泥棒」です。

この日だけは、子供たちが他家の供え物をとったり、他人の畑の芋を盗んだりしても、大目にみるという「お月見泥棒」の風習が各地にまだ残っています。

たとえば長崎県の一部では「まんだかな」といい、子どもがお供えを自由に取っていいいそうです。

また東北の秋田県仙北郡では「片足御免」といい、他人の家に片足を踏み込んでお供えを取るくらいは許されるそう。
どちらも「お月さまがお供えを食べた」ととらえ、喜びます。

愛知の一部や名古屋市北区名東区など近県でも「お月見泥棒」の風習がみられます。一宮市に生まれ育ちました私も、昭和25年頃には兄貴と一緒に緊張しながら「お月見泥棒」に行った記憶があります>

子供は、お供えしたものを食べるのは「神様の力をいただく」また「お月さまの使い」と考えられていたようで、たくさん盗み食いされた家ほど縁起よいと言われたそうです。

現代では「月見団子」を盗むのではなく、「お月見ください」と言って家々を廻ってお菓子をもらう地方があるそうです。  

里芋の原産地は、インド東部からインドシナ半島にかけてという説が有力です。 少なくとも紀元前3000年ごろにはインドで栽培されていたようです。

日本で稲作が始まったのは弥生時代ですが、それ以前、縄文時代に焼き畑農業が行われており、その中心作物は里芋で、里芋は稲作以前の主食だったと考えられています。

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   我が家もそろそろ芋堀り! 十五夜にお供え準備! (^^♪

『御湯殿記』 室町中期~江戸末期・ 宮廷にある清涼殿御湯殿の女官たちの日記 に、陰暦8月15日(十五夜「名月御祝、三方に芋ばかり高盛り」新芋(サトイモ)を掘り、水炊きのまま月前に供えたりして収穫を祝った。と記述があります。

安永年間(1772年~1778年)この頃、京都、平野権太夫(料亭「いもぼう平野本店」の先祖)が、御所の御用を賜り野菜の栽培をしていた。仕え先の粟田青蓮院宮が長崎から持ち帰ったという里芋を育てたところ、大きい海老のような形ちをした芋が出来き、これが「えびいも」が生まれたとされています。

 

芋名月」秋の季語として詠まれてます!

「雲霧や芋名月のきぬかつき」    貞徳『犬子(えのこ)集』

「蕪(かぶら)よりいも名月やひがしやま」  安永『玉海集』 

 

 日本では、月への思いがさまざまな形で、各地に残され親しまれています。今年の十五夜はぜひご家族そろって食卓を囲み、お月さまと一緒に秋の旬をお楽しみたいですね!各地で晴れて、十五夜お月さんが顔をだして微笑んでくれるといいですね (^^♪

                                                                                                               

 9月22日 秋分の日です 昼と夜の長さが等しくなる日です。

秋分の日の3日前の日を「彼岸の入り」といい、3日後を「彼岸の明け」と言います。 その中間に位置する 日を「彼岸の中日」と呼ばれています。

1948年に、広い意味で「祖先を敬い、亡くなった人を忍ぶ日」として国民の祝日に制定されました。

この日には、各家々では家族そろってお寺や墓参りに行ったり、「おはぎ」を供え祖先を供養します。「ぼたもち」では?? おはぎとの違い? 次回に! (^^)/」

                              記   9/20  Marui

 

 

 

 

 

 

 

「長月」 九月 

『長月』とは、日の暮れが早くなり、秋が深まる頃で、 日ごとに夜が長くなることから「夜長月(よながつき)」また、秋雨が降る「長雨月(ながめつき)」が略されたといわれています。

 夜に空を見上げれば、いつでもすぐそこにある月!

月は、地球で生命活動を営む人類にとってもっとも身近な天体であり、人々の生活と密接な関係の中で生きてきました。 いく万年もの昔からひかり輝く月、日本人はたくさんの月を繊細な感性で、愛で、語らい、表現されてきました。

<月と和歌>

 仏教伝来(538年)後、現存する日本最古の歌集 万葉集は、奈良時代(7世紀後半~8世紀後半)歌は 4,500首 天皇から庶民の歌 山上億良(貧窮問答歌:ひんきゅうもんどか)も含まれています。 編纂は不明ですが大友家持が関わっていたとされる。 
東の野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ    柿本人麿
「東の野に陽炎が立つのが見え、西の空を振り返り見れば、あたかも月が落ちかけている」 これは軽皇子文武天皇)が阿騎野に宿られて、父日並知皇子を追想されたときに、随従していた柿本人麿が詠んだ歌です。

天の海に雲の波立ち 月の舟 星の林にぎ隠る見ゆ  

                                 柿本人麿

雲の波が立つ天(空)の海に、月の舟が煌めく星の林に漕ぎ入って隠れていくのが見える」 なんとも幻想的な情景が目に浮かぶような和歌です。

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                    <写真はネットより>
 
894年には遣唐使が廃止され!
 それまで大陸の圧倒的な影響のなかで、やっと日本的な文化が芽生え、 古今和歌集が編纂さる。平安時代(905~912年完成) 日本最初の勅撰和歌集 醍醐天皇の勅命により編纂 歌は1,1000首 20巻 特徴は優雅で美しく女性的な感じられ、五七調から七五調への移り変わりがみられる。 (紀貫之らが編集)

月影も雪かと見つつ弾く琴の 消えて積めども知らずやあるらむ                                    紀 貫之

「月の光も雪かと眺めながら、あなたが弾いている琴 あたかも雪が消えては積もり、消えては積もりするように、私の心に琴の音が積もってゆくけれども、あなたはそれを知らないのだろうか」 紀 貫之 は平安時代を代表する大歌人であり、勅撰集を代表する「古今集」を編んだことでよく知られる。宮中においては恋愛の道具でしかなかった和歌を、文学作品にまで高めた。「土佐日記」の著者でもある。

天の原ふりさげ見れば 春日なる三笠の山に出でし月かも

                            安倍仲麿  遣唐使

「大空を振り仰いで遥か遠くを眺めると、今見ている月は、かって奈良の春日にある三笠山の上に出ていた月と同じ月なのだなあ」 717年、17歳で留学生として唐に入り、753年、帰国の途につくが船が難破し果たせず、ついに二度と日本の土を踏むこと無く逝った望郷の歌です。

月影にわが身を変ふるものならば つれなき人もあわれとや見む             壬生忠岑(みぶのただみね)

「私の姿を月に変えることができるなら、冷たいあの人も「美しい」と思って --- そして「かわいそうだ」と思って --- 私のことを見てくれるだろうか」 古今和歌集には、恋のつれなさや浮き世の哀れさを詠ったものが多くみられる!

  鎌倉幕府の求めに応じ藤原定家が選んだ百人一首平安時代末期~鎌倉時代初期 百人の歌人から一首選んだで作られた秀歌撰で、カルタで知られる「小倉百人一首」として今も親しまれている。

今来むといひしばかりに 長月の有明の月を 待ち出でつる                   素性法師

「今すぐに来ようとあの人が言ってきたばかりに、九月の夜長を待ちつづけているうちに、有明の月が出てきてきてしまったことだ」遅い月の出を待ちわびる様を、また出てすぐ見えなくなってしまう有明の月に、恋のせつなさつれなさを重ね合わせた歌です。

めぐりあひて見しやそれとも分かぬまに 雲がくれにし夜半の月かな                 紫式部
 
「やっと会えたと思ったのに、あなたなのかわからないうちにいなくなってしまった。出たと思ったらすぐに雲に隠れた月のようだわ」 ほんのわずかな再会を嘆く気持ちを、「夜半の月」に重ね合わせる発想が美しいですね。

紫式部は、藤原北家屈指の学者で詩人でもあった藤原為時の娘です。藤原宣孝と結婚し、大弐三位 を産み、夫の死後、一条天皇中宮・彰子に仕え、『源氏物語』を執筆する。

幻想的な作品が多い新古今和歌集 鎌倉時代の初め 後鳥羽上皇の命により八つの勅撰和歌集 歌は2,000首 20巻 藤原定家らが編集する。

 嘆けとて月やは物を思はするか こち顔なるわが涙かな                                      西行法師

「嘆け、と言って月は、私に物思いをさせるのであろうか。いや、そうではない。本当は、恋の想いのためなのに、まるで月のせいであるかのように、流れる私の涙であることよ」 元永元(1118)〜建久元(1190)年 「新古今集」の中で、最大歌数を誇る西行は、秀歌を詠み続けたスター中のスターで、鳥羽院に仕えた武士であったが、23歳で出家し、日本各地を遍歴。秀歌を詠み続けた新古今のスパースターです。

日本書紀は、奈良時代に成立した日本の歴史書養老4年(720年)に完成した。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。 神代から持統天皇の時代までを扱い、漢文・編年体で記述されている。

日本の古い伝承(口承説話)を集めたものです

その8年後に古事記は、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された。

日本書紀では、月の神様として「月神:つきのかみ)」・「月弓尊:つくゆみのみこと」・「月夜見尊」「月読尊」(ともに、つくよみのみこと)などと記載されていますが、みな、同じ神を指しているようです。古事記では、夜の国を治める「月読命:つくよみのみこと」と書かれています。

  日本最古の物語と言われる竹取物語は、平安時代中期950年位の時期に書かれたと考えられています。原文とされる漢文の文章は残っておらず、最古の写本とされているのは室町時代のものです。作者は不詳      <画像はネットより>

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子供の頃から、 童話や絵本で必ず一度は読んだことがあると思います「かぐや姫十五夜の月に帰るお話しですね!

平安時代末期には、日本最大説話集1000話を超え「月にはうさぎが、、」と語りつがれた来た話しが! 『今昔物語』31巻(8.18.21巻欠)編纂されてる。

 

月を詠まれた歌は多く、同じ歌が幾多の歌集に編纂されており特定するのが難しい!

そして、今から1000年余前には『枕草子』や『源氏物語』が書かれます (@^^)/~~~ もちろん色んな月が語られていると思います。つぎの機会に魅惑的な「月」を探したいと思います。 

 

記録に残る日本で初めての月見の宴は、919年、古今和歌集の編纂を命じた醍醐天皇の時代に催された。だがなぜか中秋の名月(八月十五夜)ではなく、九月十三夜の月見で、九月十三夜の月を愛でる慣習は中国にも朝鮮にもない日本独自のものだだそうです。 遣唐使を廃止し、日本文化を重んじた時代らしい選択といえるのかもしれませんね!

The  MOONN   日本では月の形の変化に応じて、

「待宵の月」(14日)、「十五夜」(15日)、「十六夜の月」(16日)、「立待ちの月」(17日)、「居待ちの月」(18日)、「臥(寝)待ちの月」(19日)、「更待の月」(20日)、等の名がついている。

月の明らかな夜を「良夜」と呼、特に陰暦八月十五夜の名月が、曇って月が見えないことを「無月」という。 また雨が降れば、「雨月」と称して楽しむ。

そのほかに「新月」、「三日月」、「上弦の月」、「満月(望月)」、「十三夜」、「女名月」、「十五夜」、「芋掘り月」、「芋名月」、「豆名月」、「後の月見」、「山月」、「清月」、「朧月」等の名がついている。

★ 月は古代から人類の想像力を掻き立て、様々な作品の中でいろいろな形で作品を構成する重要な要素として取り上げられてきました。特に陰暦8月15日は「月見」「十五夜」「名月」「中秋の名月」などと呼んで月見を楽しみ、短歌や俳句に詠むことが習わしとなり、作品の中には、太陽よりも月がはるかに多く取り上げられています。

満月の頃の月の位置は、地球から見て太陽の正反対に位置するので、西に日が沈むと同時に月が東に登り始めます。

昔々、農民は雲がなければ満月の光のもとで夜に入ってからも、一晩中農作業を続けることがあった。 収穫期と重なるこの時期の満月には、特にサトイモの収穫を祝って芋をお供え「芋名月」と名付け、今でもその風習が残っています。

欧米では「収穫月」(harvestmoon) の後の満月を「狩人の月」、あるいは「狩猟月」等と呼んでいる。狩猟民族にとってこの月明かりのもとで、獲物を射止める格好のチャンスを得ることができた。

日本では「十五夜」・中秋の名月を「芋名月」といわれます。これ対して中秋の名月の後を「後(あと)月」・十三夜と呼ばれ、「豆名月」「栗名月」と呼んで、豆や栗をお供えする。この風習は江戸時代後期に収穫に感謝する信仰的な意味があったようです。 また月を鑑賞する日本独自の美的風習、文化が今も残っています。

《 俳句》

<江戸時代の俳人

松尾芭蕉

名月や 池をめぐりて 夜もすがら

十六夜の 月を見はやせ 残る菊

雪と雪 今宵師走の 名月か

与謝蕪村

菜の花や 月は東に 日は西に

みじか夜や 浅瀬のこる 月一片

なかなかに ひとりあればぞ 月を友

小林一茶 

名月を 取ってくれろ と泣子かな 

寒月や 食いつきそうは 鬼瓦

年よりや 月を見るにも ナムアミダ

<明治・大正・昭和の俳人

正岡子規

名月は どこでながめん 草枕

春の月 簾(すだれ)の外に かかりけり

名月や 大路小路の 京の人

高浜虚子

 風鈴に 大きな月の かかりけり

十六夜の 月も待つなる 母子かな

月を待つ 立待月と いふ名あり

種田山頭火

あてもなく あるけば月が ついてくる

ほっと月がある 東京に来ている

三日月  遠いところをおもふ

夏目漱石

 柿の葉や 一つ一つに月の影

暁や 夢のこなたに 淡き月

影法師 月にならんで 静かなり 

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  •   松葉ボタン 多肉質の葉で暑さには強い花 原産はブラジル・アルゼンチン

  • 『今月今夜のこの月を、、』  金色夜叉  尾崎紅葉

  •  貫一とお宮で、おなじみのの有名なセリフですね。

  • 《原文》
  • ああ、宮さんこうして二人が一処にいるのも今夜限だ。 
  • 一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。
  • 来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか! 
  • 再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……
  • 一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死でも僕は忘れんよ! 
  • いいか、宮さん、一月の十七日だ。
  • 来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、
  • 月が……月が……月が……曇ったならば、宮さん、
  • 貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ。
  • 金色夜叉』前篇第八章より 明治30年 ~ 6年間 読売新聞に掲載> 
  •  熱海の海岸で貫一がお宮を足蹴にする、映画などでもおなじみの名場面!
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  • JR熱海駅から徒歩15分に、寛一お宮の記念像 1986年1月 建立 <ネットより>
  • 本当に貫一が恨んで、翌年からの1月17日の月は曇ったのか?  
  • あくまでも熱海での名場面が、明治30年1月17日と仮定して、明治31年32年、33年の1月17日の月の形を推測してみると、 (ネットより) 
  •  ◆ 熱海での別離から1年後 の 明治31年1月17日  
  •    月相→半月(下弦)より少し細い月
  •    <夜更かしをすれば見られる>
  •  ◆ 2年後 の 明治32年1月17日  月相→六日月
  •    <夕方から見えやすくなり月没まで見られる>
  •  ◆ 3年後 の 明治33年1月17日  月相→満月の翌日
  •    <ほぼ丸い月が一晩中見られる
  •  ◆ 4年後 の 明治34年1月17日  月相→新月3日前
  •    <真夜中の月の出から朝までは細い月が見られる>
  •                       
  • 宮さんが別れた4年目の1月17日に、過去を回想する場面があります (宮さんは富山氏とすでに結婚している)
  • 富山と結婚生活を続けながらも、貫一を忘れることができない宮が彼の言葉を思い出すくだりです。
  • 「泣ける徴もあらざりければ」とあります。
  • つまり、別れた翌年も翌々年もその次の年も月が曇ったことはなかった。貫一が泣いている証はなかったというのです。
  • 宮は貫一はもう自分を恨んではいないんだとホッとします。
  • でも、その一方「もう自分には未練がなく、どこかで暮らしているんだ」    と少しさみしくなるのです。
  •  女心とは、、、??
  • 月は私たちにとって、唯一無比の特別な天体!   
  • 月は、直径 3476Km(地球の4分1です) 温度は、およそ110℃ ~ 170℃   重力は、地球6分の1 大気はほぼ無 地球との平均距離は38万4399Km
  • 身近にある月ですが、その起源は諸説あります。近年有力とされているのが「巨大隕石衝突説」です。隕石が地球に落ちて、その衝撃で飛び散った地球と隕石の破片が、軌道上で集積して月を形成したというもの。アポロ計画で、月から持ち帰った石を解析してわかってきたそうです。
  • USAアポロ計画アポロ11号1969年(昭和44)7月20日 アームストロング船長・コリンズ・オルドリン 月面に降り立つ! 人類初 の快挙でした。 
  • 1970年(昭和45年)大阪万博延べ6400万人来場、「アメリカ館」にて『月の石』が展示され、3~5時間待ちの大盛況でした。 
  • 2005年愛知万博でも『月の石』が展示される。 今では国立科学博物館・九州 [いのちのたび博物館]で『月の石』が常設展示されています。
  • 現在、宇宙航空研究開発機構JAXA)がすすめている日本の月探査衛星プロジェクトの名前が、ギリシア神話の月の女神「SELENE」(我々は”セレーネ”と発音しますが、欧米人の発音を聞いていると”セリーニ”に近いようです)と決定 
  •  月の光は、0.1ルクス(一般的な日中の部屋は100~200ルクス)という微少な光なのです。そんなわずかな月の光が私たちの地球を照らしているのです。
  • 月が地球を公転する周期と自転する周期が全く同じ(=27.3日)だからです。だから地球からは同じ姿しか見えない。(地球に向きが固定されたのは約35憶年前と言う説があります)
  • 月は太陽光の反射で輝き、地球では大気の影響でオレンジや黄色に見えますが、月は白黒の世界です。
  • 月は地球に住む人間が、唯一肉眼で地表面を見ることができる天体で、もし、月がなければ海の汐の満ち引き、生物が陸上へ進化する過程も生まれなかったかもしれません。
  • ぜひこの機会に月の魅力、月が私たちにとって特別な存在であることを知って、お月見を楽しんでみてください。
  • 8月は猛暑日が22日で、30年ぶりの暑さでした (>_<) まだまだ暑さ続くようですがコロナと熱中症に負けないで、政治も安部総理大臣が体調不良で急な辞職!
  • 政治も大変暑い夏を迎え、日本の舵取りが誰になるのか??
  •                                                                                         8/31  Marui






 

 

八月 新型コロナの終息を願い、風鈴を! 

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  江戸風鈴                 (写真はネットより)

夏の風物詩と言われる 花火や夏祭り、盆踊りに流しそうめんなどある中で、風鈴もその一つですね! 今ではエアコンが普及し自宅に風鈴を吊るしているという人は少ないようですが、かつては風鈴を軒先や窓際に吊るし、夏の暑さを柔らかな音が和らげてくれていました (^^♪

日本の各地でガラス、陶器、金属など様々な材質、形のものが作られていますが、どうして夏になると風鈴を軒先などに吊るすのだろうか?? 風鈴の音色は涼しげで、癒し効果がありますが、そればかりでないようです?

風鈴の音色には、魔除けや厄払いが! コロナ払いも!

風鈴の歴史は古く、約2000年前の中国において、竹の枝につるして音の鳴り方で吉凶を占う「占風鐸:せんぷうたく」と呼ばれる道具がその起源とされている。

日本には、遣唐使によって仏教・建築と共に伝来し、寺の仏堂や塔の四隅にかける風鐸となり、境内で風向きを知るための音具として用いられた。また、風鐸が風に吹かれて鳴るガランガランという音が魔除けになるとされ、その音が聞こえる範囲に住む人には災いが起こらないと信じられていました。

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  お寺や神社の軒の四隅に吊るされている青銅製の風鐸 (写真はネットより)

この風鐸を風鈴と名付けたのは、浄土宗の開祖、法然上人だとされる。初め法然が「ふうれい」と呼んでいたものが、後に「ふうりん」と呼ばれるようになったという。

平安・鎌倉時代には、貴族の屋敷の軒先にもつるされるようになり、強い風が悪霊を運び、病気になると信じられていて、風鐸の音のする範囲には悪霊が寄り付かないと考えられ、魔除けとして取り付けられた。音で疫病神の侵入を防ぐための呪術的な道具として扱われたそうです。 現在でも神社やお寺の屋根部分にぶら下がる風鐸の姿を見ることができます。

江戸時代にガラス製になり庶民の手に、、

現在のガラス製の風鈴の姿が生まれたのは、江戸時代になり品質のいいガラス製法が日本に伝わってからのことで、当時はガラスが非常に高価で、風鈴は現在の価格でいうと200〜300万円もしたそうです。

やがて、江戸末期になり徐々にガラスの原材料が安価になり、ようやく庶民の手にガラス製の風鈴が届くようになります。 この時もまだ風鈴は魔除けのためのもので、庶民はかつての貴族と同じように軒先や縁側に風鈴を吊るしていた。

そして、風鈴をひとつの飾りとして楽しむ文化も生まれます。夏のはじめから終わりまでは風鈴を吊るし、夏の暑さで病気が広がるのを塞ぐ夏の魔除け、暑気払いとして定着し、「風鈴は夏の風物詩」という文化が日本の人々に定着していきました。

◆ 風鈴の起源は占いの道具と言われているほど日本人は音に対する信仰心が とても強い民族だと言われ、「六学集」という書物には、鎌倉時代、軒下に風鈴を下げ、その音色によって災いを防いだと記されています。

◆ ガラス製の風鈴が出始めるのが文献には、享保年間(1700頃)とされています。日本には、ガラスは原料を作る技術がなかったため非常に高価で、外国から輸入をするか、外国人のいる長崎でしか手に入らなかったためで、ガラスが安くなるのは天保以後です。大正時代刊行の書物には、「天保以前ビードロは高価なるをもってカラカネの風鈴をたくさん売る」と記述があります。

◆ 江戸のガラス屋の問屋である上総屋留三郎が長崎にガラスの研究に赴き、天保5年に江戸に帰り、その後ガラスの原料を作って卸を始めた。その原料を仕入れ、または職人が問屋から渡されガラス製品を作り、幕末から明治にかけて「加賀屋」と「上総屋」の二大問屋が隆盛を誇った。

江戸時代から続く「江戸風鈴」の音色を現代に受け継ぐ

江戸風鈴」とは! 昭和40年頃に風鈴の老舗「篠原風鈴本舗」の篠原儀治氏が先代から江戸時代から続く歴史ある方法(製法)で作られたガラス風鈴を、「江戸風鈴」と名付け、300年続く「江戸風鈴として、東京の代表的な伝統工芸のひとつとしての名称が拡まりつつあります。石で削った凸凹のある切り口が奏でる涼やかな音色や、内側からの絵付け方法が特徴です。

 f:id:marui-hall:20200722094634j:plain  江戸風鈴の一番の特徴は、音色 (^^♪
少しザラつき感が残るように、あえてギザギザにした縁にすることにより、擦れた心地のよい音を奏でる。コップのように滑らかにすると滑って音がしない!

今では一般家庭で見かけるのが少なくなった風鈴ですが、夏になると、風鈴をメインとしたイベントや祭り、風鈴市などが開催されています。コロナで出かけるのがままにならないですが、イベントやお祭りに足を運び、夏らしい風鈴の音を楽しんでみてはいかがでしょうか (^^♪

岐阜 関ケ原ウォーランド 風鈴祭りでは、昨年より2000個多い5000個とパワーアップし、コロナ収束を願い、7/1~9/22 まで開催されています。

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「一宮七夕祭り」イベントは中止ですが、一宮駅 東広場で  7/4~7/26 までコロナの終息を願い「願い事風鈴」が展示されました。

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 《風鈴は名鉄百貨店イオンモールで絵付け体験で作られたものが飾られました》

物理学者で文人寺田寅彦氏は、なぜ風鈴の音に人は涼しさを覚えるのか? 風を予感させるからだけではない「自由」を感じさせるからだと説いています。

風の涼しさとは《風に従って鳴る自由さから来る。あれが機械仕掛けでメトロノームのようにきちょうめんに鳴るのではとても涼しくはない》と『 涼味数題』に記述!

新型コロナウイルスで不要不急で自由に外出もままならず、感染マスクをしているのも息苦しく不自由を感じる! 梅雨全線が停滞し大きな被害をもたらし人々の自由を奪い、なんとも不自由ばかりだ! 特別でなく普通の自由が欲しいですね!

 『 風鈴の もつるるほどに すずしけれ 』 中村汀女

せめて、風鈴をつった糸がもつれるほどの涼風を、音色を楽しみたい

 

流しそうめん』も夏の風物詩 (^^♪

暑くて食欲がない時でも、のごしが良く食べやすい「そうめん」「ひやむぎ」どちらも主な材料は小麦粉と食塩に水です。では違いどこにあるでしょう。

「そうめん」「ひやむぎ」の違いは太さにあります。  JAS日本農林規格)によると「そうめん」は直径1.3mm未満、「ひやむぎ」直径1.3mm以上、1.7mm未満です。

ちなみに1.7mm以上は「うどん」です。そして幅4.5mm以上、厚さ2.0mm未満が「きしめん」です。

「ひやむぎ」には「そうめん」と区別するためピンクや緑色の色付き麺が入っています。

  流しそうめんとは、

考えただけで涼しげな気分になりますね!  流しそうめんは竹を縦半分に割ったものを利用して水とそうめんを一緒に流し、流れてきたそうめんをお箸ですくいながら食べます。   競い合い、お口に頬張りながら食べる流しそうめんはお腹も心も満たしてくれます。    そんな流しそうめんを行う際に必要なものと言えば竹です。今では竹に似せて作られたプラスチック製のプラ竹も販売されています。とても軽く持ち運びにも便利ですが、本格的な流しそうめんを楽しみたいという方は、やっぱり本物の竹を使用するに限ります。準備にひと苦労あると思いますが、それも楽しみの一つです。 家族でワイワイ賑やかに流しそうめんパーティーはいかがですか?

    流しそうめん発祥の地は「九州」

流しそうめん発祥の地は宮崎県の高千穂町で、昭和30年生まれの意外と新しい食べ方です。 暑い夏の野良仕事の際に野外でそうめんを茹で、竹と高千穂峡の冷水を利用して涼を得た光景から、思いついたと言われています。

  「流しそうめん」と「そうめん流し」の違い 

テーブルの周りを流れる水流で食べるのは「そうめん流し」と言い、人工的に水流を作り素麺を食べるというものです。

流しそうめん」は竹樋流し、「そうめん流し」はテーブル流し、なのです。

「そうめん流し」の発祥は 鹿児島県指宿市の唐船峡です。唐船峡の清水は1日10万トンも湧出するため、昭和37年に観光アピールとしてそうめん流しが始まりました。

 
(>_<) 新型コロナウイルス感染防止で、 (中日新聞 7/22 夕刊)
岐阜郡上市の日本三大盆踊り「郡上おどり」も中止に追い込まれました。国重要無形民俗文化財で戦時中でも続いたと伝えられて七月十一日から九月五日まで三十一夜まで開かれる予定だった (>_<) 昨年は延べ三十万人が踊り楽しまれた!
今年はインターネット上でライブ配信されるそうです。全国の愛好家は自宅で一緒に踊って下さいと、同保存会の藤田会長(87才)が話す。
 
江戸初期から続く『日本一やかましい祭り』と評される 三重県桑名市「桑名石取り祭り」も一部の神事を除き、伊勢湾台風翌年1960年以来、60年ぶりの休止となる。  この祭りも国重要無形民俗文化財で、国連教育科学文化機関の無形文化遺産でもあり、例年四十万人が訪れる。同保存会の伊藤会長(67才)ソーシャルディスタンスを取る祭りなんて出来ないと話す。
 来年こそ、沢山の祭りが盛大に行われることを願いたいですね! (^^♪

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  昨年咲いたひまわりの種をまいたら、今年も咲いてくれた (^^♪

沢山の被害をもたらした長い梅雨、被害を受けられた皆様に心より お見舞い申し上げます。 一日も早い復旧をお祈りします。

新型コロナウイルスも拡大のするばかり、終息の予測も見えない『油断大敵』 (>_<)

自粛生活はいつまで続くのか、「普通の生活」がしたいですね!

これからが夏本番、熱中症に注意! コロナに注意!        8/1 記

 


 

7月(文月:ふみつき)

コロナ、コロナのせいでお祭りはなし、花火大会もなしの寂しい夏、、、

夏の風物詩 『花火』

コロナウイルスの感染拡大を受けて、花火大会の中止決定が各地で続いています。  東京の夏を彩る「隅田川花火大会」も、7月11日の開催予定でしたが中止が決まりました。花火業界や大会関係者にとっては死活問題 (@_@) 使わなかった花火は来年まで保管するのかな?  公益社団法人日本煙火協会によりますと、(東京都中央区

花火は湿気などに注意して適切に保管すれば、長期的に使用でき、1年後の大会に備えて保管すること自体は問題ないそうです。しかし火薬類である以上、法律に基づいて安全を保って管理しないといけないので、大変で火薬庫の維持費、管理費がかかり、経費もばかにならないそうです。

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          花火  &  一宮138タワー (合成写真)

『花火』は、江戸時代に本格的に始まり、一つの目的として『悪疫(悪性の流行病)退散』の願いも込められていました。

だから、夏に新型コロナの退散を願い、『慰霊の花火』を小規模に打ち上げる地域もあるようですが、たくさん人を集めない形で、人々に癒やしを与えられる花火ができれば嬉しいですね! それが花火の力と思います (^^♪ 

《愛知県花火組合 代表3人が、6/18に大村知事に夏以降花火を積極的に開催する旨、 嘆願書を手渡す》

 花火のもとである黒色火薬は中国で発明され、鑑賞用の花火は、14世紀にイタリアで作られたといわれ、日本へは1543年、種子島に火縄銃とともに火薬が伝来しました。そして江戸時代になってから、観賞用の花火が登場してきました。

 天正17年(1589年)に伊達政宗が鑑賞したとか、慶長18年に(1613年)イギリス国王の使者が駿府城徳川家康を尋ね、持参の花火を見せたという記録があります。 この時、家康が見たのは竹筒に火薬を詰めて火を噴くだけのものでしたが、三河地方に残る「手筒花火」はこの名残だといわれています。その後花火は急速に発展し、江戸で開花していったようです。
■ 江戸の花火
花火は将軍家をはじめ諸大名の間で流行し、江戸の大川端(隅田川下流右岸一帯の称。大川=現在の隅田川)の下屋敷での年中行事となりました。やがて町民の間にも流行し、花火師や花火売りが登場しましたが、花火が原因の火災が多発したため「花火禁止令」が出され、花火を行う場所は大川端のみ許可されることになりました。

その後、享保17年(1732年)に全国的な飢饉とコレラが流行し多数の死者が出たため、享保18年(1733年)の川開きで「慰霊と悪疫退散を祈願する」水神祭が催され、盛大に花火が披露されました。これが「両国川開き花火」(隅田川花火大会の原型)の始まり、つまり花火大会のルーツと言はれています。

■ 花火の掛け声の定番「たまや~」「かぎや~」ってなに?
この両国川開き花火で活躍した花火師が、「玉屋」と「鍵屋」です。当初は鍵屋六代目弥兵衛が打上げを担当していましたが、やがて鍵屋の番頭が暖簾分けをされて玉屋市兵衛を名乗ると、川の上流を「玉屋」、下流を「鍵屋」が担当し、二大花火師の競演となりました。これを応援するための掛け声が「たまや~」「かぎや~」だったのです。

ところが、「玉屋」は不運なことに火事を起こし、江戸を追放されてしまいました。しかし、今も「たまや~」の掛け声のほうが多く、その後も掛け声の代名詞として現在に至るのはなぜでしょう?

ひとつは花火の技術が勝っていたから。 もうひとつは、語呂が良いので掛け声を掛けやすかったから。 そして、江戸っ子気質がそうさせたから。
『橋の上 玉屋玉屋の声ばかり なぜに鍵屋と いわぬ情なし』
これは、実力があったのにたった一代で花火のように消えた「玉屋」への愛情を示した狂歌で、「情」に「錠」をかけており、「鍵屋の声がねぇのもしかたがあるめぇ。錠がねぇんで口が開かねぇ」という詠み手の洒落を含んでいます。

 「鍵屋」はその後も様々な花火を開発して日本の花火界をリードし、現在は女性当主が鍵屋15代目として活躍中です。音にこだわり、日本古来の花火である"和火"復活に力を注ぐなど花火の魅力を高めていますので、ぜひ「かぎや~」と掛け声をかけてあげてくださいね  (^^♪

新型コロナウイルス撃退と医療現場で働く皆さんに感謝をこめ、花火が打ち上げられることを期待したいですね! 

  医学が目指していたのは、人間の寿命を延ばすすことでありましたが、2000年以降多くの先進国で、『健康寿命』を延ばすことが重要な課題となります。

16年の調査では、平均寿命と同時に不健康期間も延び、男性の約9年、女性だと12年もある。この期間をできるだけ短くしていくことが理想です。

すなわち、平均寿命から健康寿命の期間を引いたものが、「不健康期間」ということになります。

厚生労働省が3年に一度、大きな都市を対象に調査しており、浜松市は三期連続で男女とも一位であつた。男性73.19歳、女性76.19歳で二十六都市の最下位と比べると約4年健康寿命が長い。

浜松市連続一位の背景は次のようなことが考えられる。まず、温暖な気候でああり、一年を通じて過ごしやすく日照時間も長ので骨密度や免疫力を高める効果だある。さらに水資源に恵まれ野菜や果物、新魚など豊富な「旬」の食材が身近に手に入る・

次に社会参加の機会が多いことである。産業は製造業が中心であり熟練の技術を持った高齢者が働ける環境がある。また、定年のない農業や漁業が盛んなことも要因である。

浜松市『70歳現役都市宣言』行い、就労意欲のある人は70歳まで働くことができる環境づくりに取り組み始めています。

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 サボテンの花が咲いた! 早朝に咲き、午後にはしぼんでしまいます (@_@)

   1992年に出版されベストセラーになった『ゾウの時間ネズミの時間』(中公新書) 筆者の本川達雄氏は、のんびり生きても、せかせか生きても、哺乳(ほにゅう)類は心臓が一定数打つと一生を終えると説いています。

ネズミの寿命は数年ですが、、ゾウは百年近いそうです。しかしその間の心臓の鼓動はどちらも二十億回で、心拍数で計ればネズミもゾウも一生は同じ長さと言っています。

 ■「人間にも同じことがあてはまる」と、東邦ガス診療所(名古屋市)の林博史所長はこう言い切る。心臓の消費エネルギー量はおおむね決まっているとみており、心拍が速いと劣化が進み、寿命が短くなるという。
血圧が正常でも、、、
名古屋大病院に在籍中に、心筋梗塞(こうそく)の患者をたくさん診てきた。一命を取り留めた場合、何が予後を左右するのかに興味を持ち調べたところ、心拍数にたどり着いたそうです。いつまでも脈が速い人は、回復に時間がかかった。
 心臓は、ご存じのとおり血液を全身に送るためのポンプです。では、1日にいったい何回、心臓は、打つ(拍動する)のでしょうか?
正常な大人では、1分間に大体60回~90回、心臓は打っています。
1分間に平均70回、打っているとすると
1時間で、70x60(分)=4,200回
1日で、4,200x24(時間)=100,800回
1日10万回以上、心臓は、打っていることになります。
1年で、10万回x365日=3,650万回
では、一生ではどうしょう?
人生、80年とすると、
3,650万回x80(年)=29億2,000万回 です。
時間生物学の概念を取り入れ、哺乳類ごとの体重や心拍数、心周期(1心拍にかかる時間)と寿命との関係を分析し、人間が一生の間に打つ心拍数は「23億回」とはじき出した。
1分間脈を測り、その数で割れば、寿命(分)がわかる。 心拍数が60回で約73年、70回で約63年、80回で約55年になる。
 心臓は、“おぎゃー“と生まれる前からお母さんのお腹の中でも動いていますから、 実際はもっと多い回数、打っています。
心臓が、“まめ”な臓器であることおわかりいただけたでしょうか、(^^)/
人間のつくった時計だけでは計りしれない生物が、
海から引き揚げられた「ニシオンデンサメ」、なんと推定392才だそだ! とすれば、生まれたのは三代徳川家光のころか、泳ぎも成長も極端に遅いが、我々と同じ脊髄動物だ! はたして脈拍は、ネズミと同じか??

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6/23 ナナちゃん、4/6以来、 装いを一新です (^^)/ 

f:id:marui-hall:20200629171322j:plain顔には一般マスクの17倍の特大マスク、足の間隔は2m バンテミン スタンスで   コロナ対策です (^^♪ 身長は6mです!      (写真はネットより)

暑い、暑い夏本番、猛暑日真夏日、熱帯夜などという言葉をよく耳にしますが、暑さを表現している言葉ですが、その温度の基準があります。

最高気温が35℃以上の日を猛暑日、30℃以上の日を真夏日、25℃以上をの日を夏日と言います。 また、夕方から翌日の朝までの最低気温が25℃以上になる夜が熱帯夜です。

以前は35℃以上になる日は少なく、気象用語ありませんでしたが、最近35℃以上超える日が増え、気象庁は2007年4月に35℃以上を超える日を猛暑日としてて定義しました。地球温暖化か? これから夏本番!体調管理に気を付けて、無理せずに過ごしましょう (^^)/

◆ 先月6月  夏日が最多15日 名古屋76年ぶりの更新 (6/24 中日新聞 夕刊)

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   紫陽花も咲きました (^^♪ 梅雨時によく似合う花です (^^♪

もうすぐ七夕! 古代中国の「乞巧奠(きこうでん)」が日本に伝わった行事ですが、笹に願い事を書いた短冊を結びつける風習は江戸時代から始まったもので、日本以外では見られません。

七夕といえば、どこかロマンチックに感じられ7月7日の夜に願い事を色とりどりの短冊に書き、竹笹につるして星にお祈りをします。自宅で笹を用意するのはなかなか大変ですが、駅やショッピングモールでは笹と短冊が飾られていますよね!  

小学校の七夕学芸会で、みんなで「七夕さま」を合唱したのを思い出されます。でも分からない言葉が?「のきば」「きん ぎん  砂子」 意味がわからなく歌っていた !

《 のきばとは、漢字で「軒端」と書き。屋根の軒先 ・ きん ぎん 砂子とは、金箔 銀箔を砕き、粉状して蒔絵や襖絵に使う「すなこ:砂粉」です》   

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   童謡「七夕さま」 作詞 権藤はなよ  (写真ネットより)

コロナを忘れ、せめてひと夜、満点の星空を子供や孫たち見るのも良し、夫婦で見るのも良し、素敵な方と見るのはなお良し (^^♪ 楽しいひと時を過ごしたいね! (^^)/ 

七夕がお天気に恵まれますよに!        Marui 6/30

 

 

 

6月 つゆ! 「水無月」

紫陽花は、

つゆ時期によく似合う花、千変万化に色を変え、ひときわ美しい花ですね!

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紫陽花:日本が原産 色がついているのが「萼:がく」で花はその中の小さな点のような部分 土壌が酸性だと青色ぽい花を付け、アルカリ性だと赤色ぽい花となる!   花言葉:は、「辛抱強い愛情」「元気な女性」「謙虚」    <昨年、庭で撮影>

「紫陽花の色移りゆき 梅雨となる小窓に 一つてるてる坊主」

子供の頃には、雨降りが続くと晴れてほしいと願い「てるてる坊主」を吊り下げた記憶が皆さんにもあるかと思いまが! 特に遠足、運動会、七夕まっりなどには「明日天気にしておくれ」と願いをこめて作ったのを思い出します。

最近は、テレビや新聞で、天気予報で雨が降り出す時刻までわかる時代で、今の子供たちは「てるてる坊主」をつくたり! 童謡「てるてる坊主」の歌をうたったりするのかな?

f:id:marui-hall:20200522104252j:plain f:id:marui-hall:20200522104852j:plain      てるてる坊主

         作詞:浅原鏡村  作曲:中山晋平

《 削除された幻の①番 》
てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
もしも曇って泣いてたら 空をながめてみんな泣こう

① てるてる坊主 てる坊主  あした天気に しておくれ

 いつかの夢の 空のよに   晴れたら 金の鈴あげよ

② てるてる坊主 てる坊主  あした天気に しておくれ
 私の願い を聞いたなら   あまいお酒をたんと 飲ましょ

③ てるてる坊主 てる坊主  あした天気に しておくれ
 それでも曇(くも)って   泣いたならそなたの首を 

                    チョンと 切るぞ

 この歌詞には、④番まであったそうですが、 ① 番が削除されました!  
(・-・)・・・ん?
幻の①番を③番にすれば良いのになぜ、③番の怖い歌詞でなかったのかな?     なぜ、より残酷な歌詞を残したのかな? 疑問はつのるばかりです?? 

《 思うに! 当時(大正時代)の子供たちは「てるてる坊主」に本 気でお願いし、思いつく最大の褒賞が「金の鈴」や「あまいお酒」であり、最大限の罰が「首を切る」ことだったのではないかと思う? だから「いちばんいいものあげるか! 首を切っちゃうか!」と脅しでなく晴れにしてほし気持ちが強く、「空をながめてみんな泣こう」では気持ちが弱く本気のお願いが、強い歌詞になったのではないのかな??》

それにしても、③番の歌詞チョット怖い! 皆さん知っていましたか?

大正10年 雑誌「少女の友」に、浅原鏡村(ペンネーム)で童謡『てるてる坊主』を発表する。後に中山晋平により曲がつけられ、全国の子供たちに愛され歌いつがれてきました。本名は浅原六郎 明治28年生まれ、

『てるてる坊主』の由来は、 江戸時代の中頃に中国の風習が伝わり(一説には平安時代とも)、晴れを祈るために紙を人の形に折ったものを吊るすことが行なわれていた。 当時は、「照る照る法師(てるてるぼうし)」と呼ばれていたのが「照る照る坊主」になったと言われています。   

今でも地域によっては「てるてる法師」「てれてれ坊主」「日和坊主(ひよりぼうず)」「てり法」「てりてり」「てり雛」など様々な呼び名があるそうです。

逆さに吊るすと明日は雨になるといわれていて、こちらは「ふれふれ坊主」「あめあめ坊主」「るてるて坊主」などと呼ばれています。

江戸時代(1830年)に刊行された随筆集『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』には、「晴天になった場合は、瞳を書き入れてお神酒を供てえ川に流す」と記述されている。 

「てるてるぼうず」は実在したという話があります!

ある年のこと、長く雨が続き、人々は難渋した。「誰か、雨がやむ方法を知らないか」という為政者の声に、ひとりの僧侶が名乗り出て経を唱えたが、いつまでたっても雨はやまない。                                 「噓つきめ」と、怒った為政者が僧侶の首をはね、見せしめとして首を布に包んで吊るしたところ、雨があがったという。

てるてるぼうずの坊主頭、雨ガッパは僧侶の衣、そして姿は吊るされた首と、すべてが一致する怖い話です (>_<)

また、「てるてるぼうず」は中国から伝わった風習とも!

中国のある街に、紙切り細工が好きな「晴娘:サオン チン ニャン」という美しい女性がいた。ある年の6月、大雨が降り続いた北京は水で溢れかえり、人々は大変困っていました。
晴娘は「大雨が止みますように」と、天に向かって祈ります。
すると天から、「東海龍王の太子の妃になれ、さもなくば北京を水没させる」と天の声が聞こえ、、

それを聞いた晴娘は、北京の人々のため、迷った末に晴娘はその命に従がいます。
すると、雨は止み、空は晴れ、その代わりに晴娘の姿は消えてしまいました。

切り紙が得意だった『晴娘』を偲び、人の形をした切り紙「掃晴娘」を門に掛け、晴れを祈るようになりました。

それ以来、人々は雨が続くと、紙切り細工が好きだった晴娘をしのんで、紙で頭を作り、赤い服を着せ、ほうきを持った女の子の人形「掃晴娘」「雲掃人形」という紙人形を作り、軒下につるして晴れを祈ったそうです。

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 ほうきを持っているのは、「掃晴娘」の「掃」は、空の雲をほうきで掃いて青空にするといった意味で、雨雲を掃き、晴れの気を寄せるためと言われています。

「掃晴娘」は、中国の元朝初期(1300年頃)の文献にも確認することができ、20世紀の初頭までは一般的な風習でしたが、今では知らない若い人が多いそうです。

日本の僧侶にしろ、中国の晴娘にしろ、いうならば「生贄:いきにえ」のようなもので、自らの命を捧げることで、自然の猛威を鎮めたというわけです。

 

 沖縄では、月11日に梅雨入りしました。九州南部も5月30日・四国は31日梅雨入りしました。

5月中旬から6月上旬にかけ、梅雨を先駆けて降る梅雨みたいな天気が続くと「梅雨の走り」「迎え梅雨」と言います。

俳句で「梅雨の走り」「迎え梅雨」「うのはなくたし」は夏のきごですが、「てるてる坊主」は季語でないそうです。

「うのはなくたし」とは? 意味が解らない?? 漢字で「卯は花腐し」と書きます。この時期卯の花がが咲くころで、雨が続くことで卯の花を腐らせることからこの言葉が生まれたそうです。 卯の花アジサイ科ウツギ属「空木:うつぎ」に咲く花です。

 6月10日 時の記念日 大正9年(1920年)に東京天文台(現在の国立天文台)と財団法人の生活改善同盟会によって『時間をきちんとと守り、欧米並みに生活改善・合理化を図ろう』という呼びかけとともに制定された記念日です。

6月21日 夏至 日の出から日没までの時間が一年間で最も長い日です。また 「父の日」でもあります。 バラを贈り毎日頑張ってくれてる父に感謝いたしましょう。  

6月下旬 暑気払いは「暑い時期」というだけで明確に日にちは決ってないそうです。会社帰りにビヤガーデンで一杯が楽しみだったのが思い出されます (^^♪      江戸時代は「冷やした甘酒」を暑気払いに飲んでいたそうです。

6月30日 夏越しの大祓 罪や穢れを祓い、年越しの大祓までの半年を新たな気持ちで過ごすことが出来るように祈る神事です。6月は、なつの暑さがはじまり病気などをせずに乗り越えられるように願いをする。

6月は祝日がなく残念です。梅雨で雨が続き体調を崩しやすい時期です、目の前に迫っている夏に備えて体力をつけておきましょう。

一宮市にも紫陽花がきれいに咲き誇る 尾西「御裳神社:みも じんじゃ」があります。

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       手水舎に浮かぶ紫陽花、綺麗です!      

今年は、「尾西あじさいまつり」6月13・14日ですが、コロナウイルスにより中止となりましたが、境内では色も形も違う70種類の紫陽花を楽しむことができます。

PCR検査 新型コロナ感染拡大で世界的に知名度が広がった検査とは、狙った遺伝子を試験管の中で自由自在に増幅させるものです。

そのアイデアは、当時38歳の研究者キャリー マリスマさん1983年のある金曜日の夜、ガールフレンドのジェニファーさんと シビック(Honda )でドライブしている時に、PCR法の原理を突然ひらめき、路肩に車を止め紙片に化学式を書き留めたそうです。デート中の出来事だったそうです(彼女とはその後別れたそうです!)

その内容があまりにも発想が飛躍しており、当時論文掲載で有名な化学誌「NATURE」「SCIENCN」から掲載を断られたとのエピーソードがあります。

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1993年・キャリー マリス博士は、PCR法 原理の功績で、 ノーベル化学賞を受賞する。

受賞前年度の1992年(平成4年)に日本国際賞を受賞、 その受賞式後のパーティーで、ガールフレンドとのドライブのエピソードが紹介されたというのです。そのエピソードを耳にし 美智子妃殿下は、マリスさんに向かって「今日一緒に来られている方がその方ですね」と尋ねられた。

それに対して生まれながらの正直者のキャリー マリス博士は「いや、今日一緒に来ているのは別の人です」と答えたという。《凍りつくような周囲の人々》ところが、美智子妃殿下は、それではもう一つ大発見が出来ますね! (^^♪ 

このエピーソードが、彼の自叙伝に記述されています。

キャリー マリス博士は奇想天外な人生の持ち主です。無類の女性すきで4回の結婚で3人の子供さんがいます。また麻薬にも手を出していたり、サーフィン狂でもありノーベル化学賞決定の連絡の時は、サーフィンをしていたそうです。 (^^♪

[沙羅双樹」インドでの高地に自生するフタバガキ科の花、日本では「夏つばき」がそう呼ばれている。

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平家物語 第1巻 栄華を誇った平家一門の滅びゆく姿を語る 冒頭に:祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす、、

沙羅双樹の花の色があっとゆう間に変わったことは、栄えているものも必ず衰え、まるで覚めやらず春の夜の夢のようだ!

5月25日 緊急事態宣言・全国解除が宣言された! 気が緩まなように、今まで通りアルコール消毒、手洗いに、マスクを忘れないように、第二波が来ないことを祈りましょう (^^)/

                                 Marui  5/31