「四季」 折々に思いつくまま!

いつも元気で、笑顔で、楽しい 「好々爺」です <ASC23期生>

9月 将棋 ! 

AIの申し子?? 将棋会の麒麟児「藤井聡太」の話題がテレビのニュースや新聞でイッパイですね! 

小学校六年生で将棋連盟の奨励会初段なったのは史上最年少、将棋は5才のときから叔父さん、叔母さんか手ほどき受けたのが始まりだそうです。

小学校2年の時に子供たちを対象にした将棋の全国大会の東海地区で準優勝して、表彰式で大泣き? 負けた自分が情けないと、、

14才2ヶ月で4段、加藤一二三さんの史上最年少の記録を更新する大挙!

いつも対局後の感想を聞かれると、途端に勝負師の顔からちょっとはにかみ気味の笑顔が可愛い青年に戻り、丁寧に答える態度が心打たれます。

藤井聡太棋士、自分がヘマしするのは口惜しいが、相手に対して自分が勝った時でも尊敬の気持ちを忘れず、自分を見つめ自分を磨くことが大事と思っているとも、、

マツバボタン南アメリカ原産で一年草、アルゼンチン・ブラジル南部に分布!

 NHK大河ドラマなどで囲碁の対局シーンが出てくることはあるけれど、将棋の対局シーンって観たことないですね!  戦国時代には将棋はなかったのかな?戦国時代にはいまと同じ形で将棋は存在したと考えられています。ただ棋譜が見つかっていない、囲碁棋譜はあるのですが、

棋譜:きふ とは、囲碁や 将棋の対局で行われた手を順番に記した記録 のことです)将棋のルーツは、紀元前2000年ごろの古代インドの「チャトランガ」というゲームにあるという説が最有力です。

そこから世界各地に伝わったといわれています。「チエス」や、中国の「シャンチー」、朝鮮半島の「チャンギ」、タイの「マークルック」、そして日本の「将棋」など、ルールや形態は違っても、みんな「チャトランガ」の子孫というわけです。

日本への伝来時期はさまざまな説がありますが、物証に乏しく、はっきりしたことは分かっていません。伝来ルートはインド~中国~朝鮮~日本に、またインド~東南アジア~日本のどちらかといわれています。

1993年(平成5年)に奈良県興福寺境内から発掘された駒が最古といわれています。

  (画像はネットより)

駒は16点あり、同時に【天喜6年7月26日】=1058年=と書かれた木簡:(もっかん・細長い木片)が出土しました。この駒は、木簡の上に文字を書いたと見られ、五角形をしていました。

現在の、将棋の形になったのは日本で、

日本に伝来した当時は、交互に1手ずつ指すルールは共通していますが、駒の種類・駒数。版の大きさなど様々な変化し、現代の将棋の形となったのは1400年代〜1500年代くらいではないかと言われています。

時代が進むにつれて、マス目を増やしたり、駒の種類を増やしたりして、ルールを改めることが 行われました。

平安時代には将棋の原型のようなものがあり、室町時代になるとルールが確立されます

13世紀ごろには平安大将棋に駒数を増やした大将棋が遊ばれるようになり、大将棋の飛車・角行・醉象を平安将棋に取り入れた小将棋も考案されます。14世紀ごろには複雑になりすぎた大将棋のルールを簡略化した中将棋が考案されました。15、16世紀には小将棋から醉象が除かれて現在の本将棋になったと考えられます。

将棋の最大の魅力は、相手の駒を取った駒を使えるところが他のゲームと比べてユニークな点で、世界各国の将棋型ゲームと日本の将棋には、明らかな違いがあります。

自分が取った敵の駒が使えるというのは日本の将棋だけのルールで、このため、「最も複雑・高度なゲーム」と言われています。

江戸時代には、さまざまな礼儀作法も整えられ、単なる遊びや勝負ごととは違った存在になります。

江戸時代には、家元制が、

約400年前の1612年(慶長17年)、幕府は将棋の大橋宗桂(大橋姓は没後)・囲碁の加納算砂(本因坊算砂)らに俸禄を支給しました。

そして、宗桂は五十石五人扶持を賜りました。やがて彼らは、家元として将棋所・碁所を唱えるようになります。

このように、囲碁とともに将軍家から手厚い保護を受けたことも、伝統文化として育つ原動力になったようです。

八代将軍徳川吉宗は、1716年(享保元年)に将軍の御前で指す「御城将棋」を年に一度、11月17日に行うことを制度化しました。現在、日本将棋連盟では昭和50年からこの日を「将棋の日」と定めて各地でイベントを行っています。

歴代の将軍は将棋を愛好しましたが、なかでも十代将軍徳川家治(1760年~1786年在位)は熱中し、自ら七段を唱えます。また、図式集(詰将棋集)『御撰象棊攷格(ぎょせんしょうぎこうかく)』も著しました。
ところが、1868年(慶応4年)に江戸幕府が滅亡すると、将棋三家は経済的な基盤を失い、終焉を迎えます。ここから将棋界はかつてない苦難の時代をむかえます。

ハナキリンマダガスカル原産で茎が多肉で棘がありサボテンに似ている。

明治以降は、

神戸新聞社が関根金次郎と井上義雄との八段同士の対局を実現した神戸大会を開き、大きな話題を呼んだことが新聞棋戦開始のきっかけにななります。

「萬朝報」の棋戦開始により、棋士に対局料が支払われるようになりました。段位にかかわらず1人1局2円(もりそば3銭の時代)の対局料でした。

新聞社が対局料を支払うことで、棋士の生活を守り、将棋という文化が続いていくこととなります。

新聞と将棋との関わりは、時代とともに徐々に変化してきましたが、日本将棋連盟の経済面を支える大きな柱は、現在でも新聞社からの契約金です。新聞に棋戦が開始されてからでも100年以上の歳月を経ています。

将棋存続の危機?

太平洋戦争が終わった後、GHQが将棋に悪印象をもっており、将棋をなくしたいと思っていたという話があります。

1947年(昭和22年)の夏、升田が嘱託を務めていた朝日新聞社経由で、GHQから名指しで「将棋の話を聞きたい」と呼び出される。

升田が出頭すると数名の将官が面談し、GHQ高官は「チェス」と違い将棋では取った駒を自分の持ち駒として使う。これは「捕虜虐待である」という旨を伝えられる。

升田はそのように言われることを予期しており「チェス」では取った駒を使わないが、これは捕虜虐殺である。将棋では、捕虜(取った駒)を、官位(角なら角、金なら金)はもとのまま能力(駒の働き)を尊重して、味方として登用する。「これこそ真の民主主義である」と反論したそうです。

◆ 升田 幸三(ますだ こうぞう、ますだ こうそう)1918年〈大正7年〉3月21日~  1991年〈平成3年〉4月5日は、将棋棋士で実力制第四代名人。棋士番号18。

◆ ヘビースモーカーであり、一日に300本も吸ったといわれる。また酒豪でもあり、後に谷川浩司に、「自分は5歳のときから酒を飲んでいたので記憶力が減退してしまった。酒は控えなさい」とアドバイスしている。反面、ギャンブルは大嫌いで、一応一通り試してみたが「運に左右されるものは勝負じゃない」と終生好まなかった。

◆ 生涯のライバル大山康晴との対局について、王将戦の記録係を務めた内藤國雄はこう語っている。「升田さんはタバコを吸い、大きな灰皿に花びらのようにポーンポーンと吸殻を並べていくんですね。それに対して、大山名人はアゴを引いてジッ…としている。それがまた素晴らしいですね。不動という感じでね。だから全く飽きなかったですね、この2人の対局は。棋譜だけではなく、2人の対局する姿も絵になっていたんですよ」と、

◆ 巨人の長島茂雄と対談した時「野球は3割打ったら上等と言われるが、将棋は7割勝たんと一流とはいえん、精進したまえ」と言われた長嶋はスランプから脱出したという。

このように、数々のエピソードがありますが、やや放言癖があったそうです。しかし、それも升田の魅力の一つであったと言われています。

順位戦A級在籍は通算31期(名人2期と休場8期含む)。順位戦A級参加時は休場期と最後の皆勤となった第30期で4勝5敗に終わった以外の期はすべて勝ち越しており、A級の勝率0.724 (139勝53敗1持将棋)は、2021年3月現在において現役を除く歴代A級棋士の中の最高勝率である。

プロ棋士の世界について、

プロ棋士の世界は図のようにA級からC級2組まで5つに分かれます。その下にあるのは奨励会というプロ養成機関です。
最上位のA級はたったの10名。名人に挑戦するチャンスがあるのはこの10名だけです。クラス間の移動は、クラスごとに1年間かけてリーグ戦を行い、成績順に上下に振り分けられます。

成績がよければクラスは上がりますが、悪ければ下に落ちることになります。こうした激しい戦いの中で、プロ棋士たちは常に上を目指して頑張っています。

奨励会は、プロ棋士を目指す人たちのクラス。12歳、13歳という年齢の人たちも珍しくはありません。
なお、「将棋日本シリーズ JTプロ公式戦」では、トップ12棋士を決める基準として、前年度の賞金ランキングを採用しています。

 ペチュニア  :  原産地は南アメリカです

◇ 史上初の八冠がかかる 藤井聡太七冠の王座戦が、 8月31日開幕 !

神奈川県秦野市元湯・陣屋  温泉旅館で王座戦五番勝負。藤井聡太七冠(21)が永瀬拓矢王座(30)に挑戦します。 8/31 藤井破れ、永瀬が先勝 !

藤井聡太王位・竜王・名人・叡王棋王・王将・棋聖と七冠は、史上初の全八冠制覇を目指す。王座戦に勝利すると史上初の八冠独占となります。

 <第3局は9月27日 名古屋マリオットアソシアホテルにて予定>

◇ 8月24日環境省  福島第一原発の水処理の海洋放出をはじめる ! 政府と東京電力は処理水に含まれている放射性物質トリチュムの濃度に問題ないと言及、23年度は処理水放出は約3万トンと発表!(保管タンク10基分)

処理水は約百3十4万トン・保管タンク約千基・しかし処理水は日々増加している。現状の計画で放出すると、完了に30年要する。

事故から12年経過、処理水の放出完了にさらに30年も続き、福島の復興はいつになったら、そして全国の漁業者の不安はいつになったら解消されるか??

中国は放出を強く非難し、日本の水産物輸入を全面的に停止と発表した。

一方、欧州連(EU)は日本産の農林水産物や食品の輸入規制を完全撤廃すと発表。

日本政府は、海洋放出について国際原子力機関IAEA)が「国際的な安全基準に合致」すると評価した報告書を公表。

中国が国内で運用する複数の原子力発電所が、東京電力福島第一原子力発電所の「処理水」の海洋放出の年間予定量と比べ、最大で約6・5倍の放射性物質トリチウムを放出している? (>_<)

政治や感情論争でなく科学的論争すべきだ!

ウクライナ侵攻1年半、依然と終局が見えない!

やっといい ニュースです。 (^^♪

8月25日:世界陸上で女子やれ投げで、北口榛花さん66m73をマーク世界一に輝く金メダル獲得です。日本女子選手でマラソン以外で頂点に立ったのは初の快挙です。

もう一つ、今年の中日ドラゴンズ・パットしない中で8月26日:大島洋平選手(37歳)が2000本安打達成、大学社会人出身で最速で史上55人目です。中日選手で達成した選手は高木守道谷沢健一立浪和義谷繁元信和田一浩荒木雅博に続き7人目です。(ドラ キチ (^^)/ 

まだまだ続く暑い日、体調管理に気をつけ無理しないでマイペース過ごしましょう!

8/31  13年ぶりスーパー ブルームーン:月がもっとも地球に近付き満月と重なる現象です。 月がブルー色に? 👈(⌒▽⌒)👉

                              9/1 UP                                              

 

  

 

蘭奢待が一宮に ?

(👉゚ヮ゚)👉    織田信長が切り取った「蘭奢待」が!

一宮市真清田神社  宝物館に 、

蘭奢待 / 蘭麝待(らんじゃたい) は、東大寺正倉院に収蔵されている香木(こうぼく)のことで、天下第一の名香と謳われ、少量を切り取り、香炉に入れて火を付け香りを楽しみます。

蘭奢待は東南アジアで産出された伽羅(きゃら)という香木で、時期には諸説がありますが、推古天皇3年(595年)くらいから10世紀くらいにかけて中国経由で日本に伝わったといわれています。

   画像はネットより

東大寺正倉院蘭奢待:長さ156.0cm、最大径42.5cm、重量11.6kgで、不整形な木材。内部はほぼ空洞となっている。

正倉院宝物目録での名は黄熟香(おうじゅくこう)で、「蘭奢待」という名は、その文字の中に"東 大 寺" の名を隠した雅称です。

その香は「古めきしずか」と言われる紅沈香ると並び、権力者にとって重宝された。宝物番号は中倉135番として保管されています。

日本史に残る限りでは、足利義満足利義教足利義政、土岐頼武、織田信長明治天皇の6人しか切り取る事が許可されませんでした。

 画像はネットより

調査の結果、実際には50回以上切り取られた痕があり、蘭奢待を運んだ時や東大寺の関係者により切り取られたともいわれていますが、日本史において蘭奢待を切り取る事は、権力の大きさ、強さを世に示す行為でもあります。

織田信長は、永禄11年(1568年) 正親町天皇を保護するという大義名分により、京都を制圧し上洛する。そして、皇室の危機的状況あった朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させ、一方で、天皇の権威を用い、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させています。

そして、織田信長が「蘭奢待」を切り取ったのは天正2年(1574年)で、香りを楽しむために蘭奢待を切り取った訳ではなく、当時の権力を世に示すためといわれています。

天正二年截香記』によれば、天正2年(1574年)3月23日に、織田信長は塙直正と筒井順慶を使者に出し、蘭奢待拝見の希望を伝えた。東大寺は足利家以外に正倉院宝庫の開封例がないとしつつも、信長の内裏修造などに配慮して勅使によって封が解かれれば聞き入れると返答。

勅許を得た信長は多聞山城に入り、勅使が到着を待つ。3月28日の辰の刻(午前8時頃)に正倉院中倉から黄熟香が城に運ばれ、東大寺僧3人の立会のもと、大仏師トンシキが持参した鋸で一寸八分(約5.5cm)ほど切り取らせる。

東大寺側の記録では「一寸四方(一辺が約3cmの正方形)を二個切り取った」となっており、少々異なりますが、、合計すれば、大きさに大差ありません。

信長はその後、1つは正親町天皇おおぎまちてんのう)に献上し、もう1つは我等が拝領する。ちなみに正親町天皇に献上されたほうは、その後、毛利輝元などに分け与えられています。

そしてもう一方は、いくつかの小分けにして信長家臣にも与えたそうです。

そのうちのひとつが「村井貞勝」に与えられ、さらに貞勝から一宮城主で真清田神社の神官だった「関 長安氏」に与えられ、それが現在でも愛知県一宮市 真清田神社に奉納され、現在も宝物館に展示されています。

「人からもらったものをさらに別の人に」というのは、現代人からするとなんだか微妙な気持ちになるかもしれませんが、皇室や公家の間ではよくあることだったようです。

明治時代の女官の追想録にも「贈答品は贈った」という事実が大事なので、いただいた絹などをそのまま他の人に贈ることもあった」という記述があります。

 砂漠の花(アデニウム

こんな逸話も、

信長は、このとき供をした御馬廻衆にも「後々の話の種に、見ておくがいい」といい、蘭奢待を見ることを許したとか?

なんだか尊大にも見えますが、天皇の勅許がなければ見ることもできないようなものなので、ここは優しさといってもよいのか?

天正二年(1574)三月二十八日に信長が東大寺正倉院の鍵を開けさせ、多聞山城に運んでから截りとった蘭奢待は、四月三日に京都・相国寺で俄かに催された茶会(特別な「御会」)において、千利休今井宗久そして堺の豪商茶人にも分け与えられたとも云わっています。

当時、信長の信任厚く京都所司代の職にあった「村井貞勝」も拝領する機会があったものと推測されます。

蘭奢待の切り取りについて「信長が自分の力を誇示するため、強引に天皇東大寺を脅して切り取ったんだ!」と指摘する方もおられるようですが、きちんと正規の手続きをしていますし、天皇にも献上しているのですから、特に問題はなさそうです。

本当に権力を誇示するだけなら、もっと乱暴なやり方をしていたでしょう。これまで世間の目を気にした行動も見せている信長ですから、そこまで計算していたのかもしれませんが?

蘭奢待」のお値段は?

「開運 なんでも鑑定団」で査定? 軽く500万は行くのでは!

恐れ多くも、とても値段が付けられるものでないですね!!

蘭奢待」が、一宮市 真清田神社の宝物館に展示!

 一宮市真清田神社 宝物館

一宮城主であった「関 長安」は、天皇の御蔵・正倉院を開けて截り取った蘭奢待を所持することを良しとせず、穢(けが)れた家は持つべきではないとして、父の成重(長重)が真清田神社の神職でもあったことから、神社へ献じたものと思われます。

蘭奢待の香木は、目測で長さ約2cm、幅2mm程で、詰め物をした透明なガラス瓶の中に上から見えるように収めてあります。

一宮城主 「長安」の署名と花押がある「蘭奢待奉納状」と、真清田神社 初代神主 佐栄清の署名と花押がある「覚書」が額の中に収められています。

「安蘭奢待奉納状」によれば、村井貞勝の配下にあった「関 長安」が真清田神社に奉納したのは天正二年(1574年)五月吉日となっていますから、信長が截りとってから二ヶ月のうちに、織田信長村井貞勝 ⇒関 長安を経て神社に奉納されたことになります。

しかし『信長公記』の「蘭奢待切り補らるゝの事」記述に村井貞勝の名はありません。

「真清田神社之栞」に記してある蘭奢待の解説は次の通りです。

所蔵する蘭奢待(らんじゃたい)は正倉院の名香で一宮城主 関 長安の奉納状と初代神主佐分栄清覚書とともに竹筒に納められています。 奉納状には、長安が当社に蘭奢待を寄進した経緯として、南都の大衆神人が織田信長を歓待して蘭奢待を截り、信長はその一部を近臣 村井貞勝に分け、つぎに貞勝は配下の長安に与え、長安は自身が穢れた家には置き難いとして郷里の一宮真清田神社に奉納した経緯が認めてあります。

しかし「覚書」日付は寛永八年(1631年)閏十月吉日には、栄清がこれを点検した際、蘭奢待は存していなかったことを書き留めています。

蘭奢待をめぐるミステリー

江戸から昭和にかけて所在不明で、失われたことになっている「蘭奢待」!

奉納してから点検までの半世紀以上(57年)もの間、蘭奢待の存在が確認できず?

その有無は、、、

こんな背景も、「覚書」が記された寛永八年は、初代尾張藩主・徳川義直が真清田神社の大修理を敢行し、積年の荒廃を回復した年でもあります。

さらに、それから一世紀後の享保18年(1733)、三代目神主・佐分清円が記した『真清探桃(ますみたんとう)集』にも蘭奢待は存在していなかった旨が記されているといいます。佐分清円が延享2年(1745年)に記した『尾張国名蹟畧志考』にも同様の記載があるとのことです。

真澄田神社の森の中に消えてしまった「蘭奢待」?  どこえ!?? 

ところが、昭和14年(1939年)に発行された『一宮市史』(一宮市役所著作兼発行者)には、「不思議にも今は長五分程の香木が現存している」と記述されています。

    画像はネットより

蘭奢待が容器に収められて展示されています。

そして、昭和59年(1984年)には真清田神社宝物館が完成し、現在のように関連文書と共に香木・蘭奢待は展示ケースの中に収まっています。

現代の科学技術ですれば、正倉院の「蘭奢待」と比較すれば判別は可能と思われます。  しかし今となって、誰れかが保管し持っていた?? 予想外の処にあった?? 

歴史はいつもミステリーとロマンに満ちています! 詮索はご無用!? まずは自分の目で確かめてみては如何か、!? (@_@) 

現在「蘭奢待(らんじゃたい)」は、一般公開されています

<開館日:土・日・祝日 10:00~3:00 大¥200.- ¥150.-中高生  小¥100.->

◆ 宝物館の見学は予約制です。 TEL 0586-73-5196

一宮城城主「 関 長安」とは、 
長安の祖父康正が享禄2年(1529年)現在の本町三丁目に一宮城を築城し、長重、長安と3代に渡って居城とし、真清田神社の神職も務めた為、真清田神社に関氏3代の奉納品は少なくない。尚、長安天正12年(1584年)長久手・小牧合戦で戦死し、天正19年(1591年)には一宮城は廃城になった。

   画像はネットより

8月と言えば、『お盆』ですね!

「盆と正月」という言葉があるように、お盆はお正月と同様にさまざまな歴史的風習があり、今も受け継がれているとても大切な日本の文化です。

お盆は、先祖の霊を迎える日で、昔から亡くなった人は7月の15日に帰ってくるとされていました。新暦では8月の半ばにあたるため、8月半ばにお盆の行事を行うところがほとんどです。

お盆の正式名称は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言われインドのサンスクリット語の「ウラバンナ」(逆さ吊り)、ペルシャ語の「ウラヴァン」(霊魂)からきた言葉だといわれています。また、お盆は供物を盛る器を表しているという説もあります。
お盆の行事は、仏教の開祖であるお釈迦様の弟子が地獄に落ちた母親を救うため、7月15日に霊を供養した、というのがそもそもの起源だそうです。

日本で最初にお盆を行ったのは推古天皇で、今から1400年も前の飛鳥時代です。   長い間、貴族や僧侶だけが行う特別な行事でしたが、江戸時代に入ると、ろうそくや提灯が大量生産されたこともあって、一般の人にも定着して行きます。

一般的なお盆の期間は、8月13日から16日まで。地方によって違いがあり、東京や函館などでは7月に、沖縄などでは旧暦の7月15日に行われています。

欠かせないのは盆踊り!

本来、盆踊りはお盆に帰ってきた先祖の霊を慰める霊鎮め(たましずめ)の行事です。今はお盆以外の時期に盆踊りを行うことがありますが、本来は旧暦7月15日の晩に盆踊りを行い、16日に精霊送りをするのもそのためです。ブラジルでは、「ボンダンス」と言われて楽しまれています。

楽しいだけではなく盆踊りになぜか切なさを感じるのは、祖霊になった人々との別れを惜しむ踊りであり、人の出会いや別れとともに過ぎ行く夏を惜しむ踊りだからですね!
そのためでしょうか、楽しいだけではなくなぜか切なさを感じます

郡上おどりのルーツは、定かではありませんが、

盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事は仏教と深くかかわり、踊り自体は祖霊を供養するものとして平安時代に広がった念仏踊りが始まりだとされています。

先祖代々、どんな時代にも常に心の拠り所として受け継がれてきました。昭和20年の終戦の日ですら、英霊の御霊(みたま)を慰めるために踊ったという事実も残っています。

そして戦後には、阿波踊り・花笠踊りと合わせて日本三大民謡踊りのひとつと称され、昭和48年(1973年)には「古調かわさき」が国の無形文化財に指定され、平成8年(1996年)には全10曲が国重要無形民俗文化財の指定を受けています。

ほとんどの盆踊りは、手の動きよりも足の動きを重視しています。これは、足・下半身の跳躍運動が神送りの意味をもつためで、天地の間にいる人間が地を踏むという動作には、霊を封じ込める鎮魂の意味があります。

「踊」という字も足偏ですね。ちなみに、神迎えは手を重視した「舞」になります。

今年の郡上踊りは、 7月15日 (土)から9月9日 (土)までの31夜、その期間中の徹夜おどりは8月13日 (日)から16日 (水)までの4日間で開催されます。

郡上おどりがユネスコ無形文化遺産に登録されたことをうけて、コロナ禍前の本来の形である伝統を重視した開催となるそうです。

     夏の花 ハイピスカス

マスク着用ルール暖和から4ヶ月、なかなかマスクが外せない  (>_<)

7月になり、スマホの天気アプリ「ウェザーニュース」が利用者にマスク着用状況を尋ねた結果、1,800人余の54%が「着けていない」と、その理由は「暑いから」74%だったそうです。

3月の調査では「着けていない」が 17% ・ 4月は 21% ・ 5月は 34% ・ 6月は 40%でした。理由はコロナ感染予防対策ばかりでなく、花粉症の人や日焼け防止のためとか、化粧が面倒う?? と多種多様です。(@_@)

特に7月になり花粉シーズンが終了し暑くなったので脱マスク! 54%の過半数になったとも! しかし一方で「第9波」と言われると悩ましい! 今年の夏は暑い~~  熱中症のリスクも心配??

 脱マスク「さーど うする皆さん」                                 8月1日 UP 

7月「沙羅双樹」の花が咲いた 😘

平家物語 第1巻 栄華を誇った平家一門の滅びゆく姿を語る 冒頭に・・・

『 祇園精舎の鐘の声  諸行無常の響きあり  沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす、、』

沙羅双樹の花の色があっとゆう間に変わったことは、栄えているものも必ず衰え、まるで覚めやらず春の夜の夢のようだ!

沙羅双樹」の花が咲いた ! インドの高地に自生するフタバガキ科の花、日本では「夏つばき」がそう呼ばれている。

夏野菜の代表 のひとつに茄子があります。 みずみずしい茄子は焼いても揚げても炒めても美味しいですね 🤗

お盆には割り箸を刺してご先祖様のお見送りにも用いられるなど私たちの生活に密着した野菜です。

家庭菜園の茄子です。

諸説ありますが、ナスはもともとインド東部の地域が原産と言われています。

インドで生まれたナスは中国に渡り、その後中国から日本に伝わったのは8世紀の奈良時代の頃と言われています。

当時はとても貴重な食べ物だったので、天皇や貴族など身分の高い人しか食べられていなかったそうです。
「なすび」と「なす」と呼ぶ違いは?
平城京の跡地から出土した木簡には、「奈須比(なすび)」と書かれている。
「なすび」の由来は、ナスの味と関係しているようです。
当時のナスの味は、酸っぱかったという「中が酸っぱい実」ということから
「なかすみ」→「なすみ」→「なすび」と呼び名が変化し、奈須比という漢字があてられ、都があった関西地方を中心に「なすび」という呼び方が広まったと言われています。
また、早く実がなる! ナスは栽培すると分かりますが、受粉して結実して収穫できるまでがあっという間です。これにより、「早く身を成す」ところから「成す」となり「ナス」になった説もあります。
こんな説も?
「一富士 ニ鷹 三なすび」江戸時代にできた諺で、これは徳川家康が好きだったモノの順番で、それくらい家康は、なすびが大好物だったことが分かります。
しかし、なすびは関西地方を中心に作られていたため、江戸では なかなか手に入らなかった。
そこで家康の命により江戸でも、 なすびが作られるようになり、次第に「なすび」という呼び名は江戸でも定着し広まっていった。
当時は、なすびの生産が少なく値段が高いため、なかなか売れなかった。
商人は、なすびを「成す」縁起の良い野菜として「なすび」を「なす」として売り出した。
すると「なす」に変えたことで商売が繁盛する縁起の良い野菜として、人々が買うようになり、「なす」という呼び名が広まったそうです。

ナスは英語で何というでしょうか? 答えは「eggplant」(エッグプラント)です。
直訳すれば「卵の植物」ですね。米茄子は卵っぽい?

画像はネットより

もう沖縄は、6月20日に梅雨明けしましたが、東海地方は7月19日頃と気象庁は発表しています。
「梅雨が明けると夏本番」日差しが強くなると気になるのは、「土用の丑の日」ですが、 今年はいつ?
『今年の夏の土用の丑の日は、7月30日です』
夏バテに鰻を食べてスタミナを養うという食文化は万葉集の時代からありました。

万葉集』に大伴家持が詠んだ

石麻呂に われ物申す 夏痩に良しといふ物そ 鰻取り食せ
1200年以上前の奈良時代には、すでに夏バテにうなぎが効くといわれていたようです。

この日に鰻を食べるのは、江戸時代 平賀源内のアイデアと言われていますが、

平賀源内説!

江戸時代には「土用の丑の日」にうなぎを食べることが一般的になっていたようですが、旬が冬だったため夏にはうなぎが売れなかった。

 うなぎ屋に相談された平賀源内、万葉集に書かれている歌をヒントに、土用の丑の日、ウナギの日、食すれば夏負けすることなし」というキャチ コピーを考え、「本日丑の日、うなぎの日」 という張り紙を店に貼らせて大繁盛したという説、

春木屋善兵衛説!

文政年間(1818~1830年頃)に、神田和泉橋通りのうなぎ屋「春木屋善兵衛」が、夏に大量の蒲焼きの注文を受け、子、丑、寅と3日続けて蒲焼きを作った、丑の日に焼いたうなぎだけが悪くなっていなかったことから、夏の丑の日にうなぎを食べる風習が生まれたという説、

蒲焼き、東西の違い !

うなぎの蒲焼きの調理法も地域によって違いがある。まず、関東と関西での大きな違いは、蒸すか蒸さないかです。

 関東では蒸して柔らかくしてから、竹串でたれにつけて焼く。頭は先に落とす。関西では、金串で刺し、蒸さずにカリッとジューシーに焼く。頭をつけたまま、最後に落とす。

 そして、うなぎの開き方も大きく異なる。

 武士が多かった関東では、「切腹」を連想させるため背開きが主流。関西では「腹をわって話す」ことをよしとしたため、腹開きが多いという。

 うなぎの調理法の東西の境目は、静岡と愛知の県境や、浜松周辺で混在するといわれている。ぜひ食べ比べてみて下さい。(*^_^*)

ペチュニアの花 *  品種数も百品種以上もあります。

俳人正岡子規はウナギが好物だが、代金のことはあまり考え無かったそうです?

親友で旧制松山中学校の教師だった夏目漱石の下宿に子規が居候を決め込んだ二ヶ月の間に、毎日のようにウナギを食べていた。
「帰るときになって、万事頼むよ、とか何とか言って支払いもせずに達てしまった」
漱石は「子規という奴は乱暴な奴だ」」とまわりにこぼしていたそうです!
高浜虚子 「回想 子規・漱石」 代金は漱石が払った!)
 
斎藤茂吉のうなぎ好きも有名で、鰻の短歌を32首詠んでいます。
ゆうぐれし机のまへにひとり居りて 鰻を食ふは楽しかりけり
                              斎藤茂吉(1882-1953) 『ともしび』
この歌では自宅で食べていますが、東京の名店、道玄坂の「花菱」や銀座の「竹葉亭」にもたびたび足を運んでいたようです。
娘の嫁ぎ先、愛知県岡崎市に炭火手焼きの鰻を食べさせる店があるというので誘われて行きました。脂が乗ったそれでいて表面がパリっとしている。今まで味わったことのない食感でたいへん美味でした。 なんでも愛知県三河一色鰻だとか。
でもスタミナとるにもそれなりのコストがかかるようです。 さて、斎藤茂吉は後年、こんな歌も残しています。
ひと老いて何のいのりぞ鰻すらあぶら濃過(こす)ぐと言はむとぞする
1948年(昭和23)、年老いた茂吉、脂が乗りすぎた鰻はちょっと苦手になってきたようですネ!

ペチュニア  :  原産地は南アメリカです
花言葉には、「あなたと一緒なら心がやわらぐ」、「心のやすらぎ」、「心がなごむ」 

「中元」は旧暦の7月15日に行われる『道教』の行事でした

上・中・下の三元があって、上元は1月15日に天官(天神)を、中元は7月15日に地官(慈悲神)を、下元は10月15日に水官(水と火を防ぐ神)をそれぞれ祀る行事です。

ところが、そのうちの中元だけが日本に伝わって盂蘭盆会《うらぼんえ》と結びついたそうです。

このときに神仏への供物を幣《ぬさ》といい、それを親戚や隣近所に分けあっていたのですが、江戸時代になると、お世話になった人に対して贈り物をする風習に変わっていきました。最近はそういう風習には一切与しないという方もいらっしゃるようです。

真夏の暑さにもめげずに咲くマツバボタン

花言葉は、「無邪気」「忍耐」: 短気な青年が友人とケンカをして銃を抜いたとき、足元に咲くマツバボタンの花を見て思わず下ろしたというエピソードに由来します。(ネットより)

中日新聞「中日春秋」より、

作家の向田邦子さんは小学校の算術が苦手だったそうです。なかでも引き算がきらいだった「あたりまえだが、どんどん減ってゆく」から寂しい気分になるからと可愛らしい理由です。

なかでも、繰り下がりのある引き算の「隣から借りてくる」とゆうのが引っかかる。どんなに苦しくても「隣り」から借りなんて、自分の力で分相応に暮らしたい。

向田 邦子  1929年 11月28日 - 1981年 8月22日、台湾での取材旅行の途中で乗っていた航空機が墜落し、51歳の若さでその生涯を閉じる。「阿修羅のごとく寺内貫太郎一家「父の詫び状」「あ・うん」「思い出トランプ」など代表作が多くあります。

「人生は算術 ?」

算術が不得意は誰にでもありますが、後期高齢者になって人生を振り返えってみると、小学校、中学校と進むにつれ仲間も増え、社会人となり、そして結婚し子供が出来まさに「足し算」「かけ算」の世界で家族が増え、出会いも増えます。そして、子供が結婚し分家し孫ができ「割り算」のように家族も広がり算数も楽しい  (^^)/~~~

しかし、60歳頃になると人生も「向田さん」の苦手な「引き算」が始る。定年を迎え仲間も減り、両親を送り、叔父叔母も減り、年賀状も減り、新しい出会いも減り、仲間も兄弟も減り、どんどん減り「引き算」の世界で「隣から借りてくる」ことも出来ない。

「足し算」が懐かしい ! 増えるのは病院で貰う薬ばかり、悲しい  (/_;) 

やはり「引き算」は苦手です。

しかし、人生こんな「おまけの算術」も、72歳になり「あいちシルバーカレジに入校」90人の仲間との新しい出会いが、10年たった同窓会今も71人との絆が! まさに「おまけの足し算」残りの人生見捨てた物でもない、健康で楽しく過ごしたい (_ _)

 ペチュニアの花 

コロナウイルス感染の5類移行に伴って、徐々にお祭りなど色々な行事の催しが復活して来ました。3年もの間だ何もかもが停止し、分断された社会が少しずつ絆が取り戻し始めたように感じがします。

でも、なかなかマスクを外すことが出来ません! ワクチン注射の案内がきました。 来年からは有料になるらしい? 新聞などの報道によるとコロナ患者が増加していると! またコロナワクチン接種受け死亡者や副作用で苦しんでいる方も! 行政は一方的な指導で、コロナ対応もマイナンバー対応も不備が見つかり ウオウ サオウ!

我々庶民 何を信じたらいいのか  ウオウ サオ ウ!

右往左往(うおうさおう)とは、「あわてふためいて、あっちへ行ったり、こっちへ来たりすること」

コロナ五類移行後、コロナ感染者増、第9波か? 

熱中症にも気をつけ、暑い夏を乗り切ろう! ╰(*°▽°*)╯ 7/1 UP

 
 

紫陽花が咲いた ! 6月

夏めく、6月 ! 水無月(みなづき)、涼暮月(すずくれ)、蝉羽月(せみのは)、鳴神月(なるかみ)などと、 古人は憂鬱なつゆ時期も楽しみ美しくもロマンチックな呼び名が付いています。

紫陽花には雨がよく似合う !

ふる雨が染めたかのように紫陽花の花が色づく梅雨の日々 ! その紫陽花の花は少しずつ色を変えていきます。

「咲きはじめの青、それが白みがかったかと思うと、紫碧色(しへきいろ)の深い色に。雨にぬれていくと、その青は紅に、そして、青黄から茶褐色になって枯れていく」まさに、紫陽花の七変化!

紫陽花は、色がついているのが「萼:がく」で、花はその中の小さな点のような部分で す。土壌が酸性だと青色の花を付け、アルカリ性だと赤色ぽい花になります。

ガクアジサイが色づき始めました! 小さい花が集まった花序の周囲を、装飾花が

絵の額(がく)のように囲っていることが「額あじさい」の名称の由来です。

 正岡子規の句に、
     紫陽花や きのふの誠 けふの嘘

花言葉は、冷淡、無情、浮気、辛抱強い愛、そして、雨の日でも咲き誇り凛とした様子から「神秘的」や「知的」「謙虚」と付けられています。

紫陽花は日本が原産です。古くに中国へ伝わったものが欧州へ渡り、改良されて再び日本に里帰りしたのが セイヨウアジサイ だそうです。 (❁´◡`❁)

ドイツ人の長崎オランダ商館の医師 シーボルトは、日本で出会った「お滝さん」に恋するのですが、なんと彼にスパイ容疑がかけられ国外追放にされてしまいます。

ドイツに帰国した後、日本で採った紫陽花に「お滝さん」の名前から「オタクサ」と学名をつけ忍んだとそうです。今も長崎では、紫陽花を「オタクサ」と呼んでいる。

離れていても思っているというお話から「辛抱強い愛」という花言葉がつけられたそうです。なんともロマンチックな話ですね!

粋でちょっとにくい花、様々な色の紫陽花が咲いているのはよいものですね!

陽花の色移りゆき 梅雨となる小窓に 一つてるてる坊主」

子供の頃に、雨降りが続くと晴れてほしいと願い「てるてる坊主」を吊り下げた記憶が皆さんにもあるかと思いますが、特に遠足、運動会、七夕まっりなどには「明日天気にしておくれ」と願いをこめて作ったのを思い出します。

最近は、テレビや新聞の天気予報で雨が降り出す時刻までわかる時代で、今の子供たちは「てるてる坊主」をつくたり! 童謡「てるてる坊主」の歌をうたったりするのかな?

梅雨期は大雨による災害が発生しやすく歓迎は出来ないが、しかし梅雨明け後の盛夏期に必要な農業用の水等を蓄える重要な季節でもあります。

(👉゚ヮ゚)👉 気象庁は、5月29日東海地方梅雨入りと発表! 

今年の東海地方の梅雨入りは八日早く、昨年と比べると16日は早いそうです。大型で非常に強い台風第2号が発生しており、その影響か? 東海地方で五月に梅雨入りするのは10年ぶりです。(^///^)

梅雨(つゆ、ばいう)は、北海道と小笠原諸島を除く日本と、朝鮮半島南部、中国の南部から長英流域にかけての沿海部、および台湾など、東南アジアの広範囲においてみられる特有な気象現象です。

「もしヒマラヤがなかったら、日本に梅雨はなかったかもしれない」と言われています?

ちょうど梅雨の時期、北半球を大きく巡っている偏西風はヒマラヤ山脈などの高山地帯にぶつかり、南北と2つの気流に分断されます。北側を行く気流は大陸を通るため乾いた気団に、南側を行く気流は東南アジアを通るため湿った気団になります。この分断された2つの異なる気団がふたたび合流するところに、ちょうど日本列島は位置している。

前線というのは、性質の異なる2つの気団のせめぎ合うところに発生します。よって南北2つの気流の合流するところに前線が生まれ、1ヶ月以上の長きにわたる日本固有の雨期「つゆ」をもたらすのです。

🤗 6月11日は「傘」の日です。 傘は、雨傘としての使用よりも日傘としての使用の方が歴史的には古く、すでに約4000年も前にエジプトやペルシャなどに、証拠づける壁画などが発見されています。 (画像はネットより)

日本全国の「傘」の年間消費本数は約1億3,000万本と世界一で、そのうち8,000万本がビニール傘、その消費量は世界一とまで言われています。

そのビニール傘の90%は、中国製といわれます。

 国内の遺失物の31%が傘だそうです。さらに拾得数に対する遺失物届数の割合は、財布は107.4%、携帯電話は165.1%に対し、傘ではわずか1.8%ど、日本は安価で駅やコンビニなどで傘が購入できる一方で、傘を大切にする意識が低い国なのかな? 

その例に、5月下旬、東京・新宿区の繁華街の早朝に区から委託清掃会社が大量のビニール傘を回収、わずか数百メーターの歩道に捨てられた50本ものビニール傘を回収されたそうです。

そして、多い日は500本もゴミとして回収されるそうですが、使えるものが多くてもったいないですネ、 どうしてなの? 突然のゲリラ豪雨などの突然の雨で慌てて買って、雨がやみ捨ててしまう人が多いからだとのこと、(>_<)
 なぜ 、日本の「折りたたみ傘」の使用率は世界の半数以下だそうです?
その要因として挙げられるのが「傘といえばビニール傘」という意識が定着し、「折りたたみ傘」の普及は世界平均で55%で、日本では21%と半数以下だそうです。
やはり ビニール傘が良いのかな 、(?_?)

短毛丸:タンゲマル*ブラジル南部、アルゼンチン北部原産で江戸時代に日本に入って来たサボテンか? <ネットで調べた結果>

🐰 NHK連続テレビ小説『らんまん』の主人公・万太郎のモデルである理学博士牧野富太郎が生まれたのは1862年5月22日(文久2年4月24日)

我が姿たとへ翁と見ゆるとも心はいつも花の真盛り

                             牧野富太郎(1862-1957)
日本植物学の父 「雑草と言う草はない」と名言が、

生家の「岸屋(ドラマでは峰屋)」のある現在の佐川町は、松山と高知を結ぶ国道33号線沿いの町(当時は村)です。 高知の人たちは男女の例外なく酒豪で、富太郎のような下戸はおらずと言われ、家業の酒造業も繁盛していたそうです。富太郎の人生、これからのドラマの展開が楽しみですネ!
こんな逸話が、
31歳でようやく東京帝国大学の助手になった牧野氏は、文献の購入など研究費用が家計を圧迫し、生活はつねに困窮し引越しを18回もしています。生活を支えたのが寿衛子夫人であり、後年、牧野は自身が発見した新種の笹に、先だった妻への感謝を込めて「スエコザサ」と命名しました。
🐰 また、NHK大河ドラマ『どうする家康』5月25日(日)に、三方原の合戦シーンが放送された!
今から440年前の戦国時代、最強の軍団と恐れられた武田信玄(晴信)が、三方原の合戦のあと、喀血して帰らぬ人となったのは 1573年5月13日(元亀4年4月12日)です。                                                                                      武田信玄役:阿部寛さん>
武田家の軍学書『甲陽軍鑑』には、信玄、勝頼の時代の合戦や軍法などが記されています。武田家の儀礼や人生訓のようなものを和歌の形で表した記述が見られます。
 誰も見よ満つれば やがて欠く月のいざよひの空や 人の世の中
誰も見てみよ、満ちてはやがて欠けてゆく月の十六夜の空のようなものなのだ、人の世というものは、 武田信玄:1521~1573>
 
(●'◡'●)  餃子「ギョーザ」と読みますが、中日新聞 記事より

「餃」の左側のへんは、「食へん」の字を書く方も多いですが、実際は「餃」の下の部分には横棒が2本入った漢字が本来のぎょうざの漢字です。

「ギョーザ」と言う読みが生まれたのは、一体どこから?? 

由来は定かでないが、中国山東省の方言に「ギャオズ」や旧満州の言葉に「ギョーセ」が変化したとの説が有ります。中国の共通語は北京方言を基にしていますので、中国では「チャオズ」と言うのが一般的のようです。でも、中国では「チャオズ」は水餃子のことで、焼き餃子は「グオチィエ」だそうです。
中国の有名な餃子チエン店では、中華鍋に貼り付けて調理することから「鍋貼」と漢字で書いて、店内用語として使われています? 言葉て不思議ですネ!

ギョウザは紀元前6世紀頃に、中国山東省で誕生したとされています。遺跡からは当時ギョウザが食べられていた痕跡が見つかっています。

ギョウザを日本で初めて食べた人物は、江戸時代の水戸黄門こと徳川光圀とされています。明末清初(みんまっしんしょ)の動乱時、日本への亡命者である朱舜水(しゅしゅんすい)が伝えたと言われています。

(✿◕‿◕✿)  新型コロナ 「5類」に移行し、 何が変わる!

新型コロナ感染症のの発生から3年以上が過ぎ、世界保健機関(WHO)の緊急事態宣言が終了しました。日本国内では新型コロナの感染症法の取り扱いはの季節性インフルエンザと同じ「5類」へと5月8日に移行しました。その結果!? <資料はネットより>

※ コロナ感染者数発表は「全数把握」から「定点把握」にななります。

公表の回数は「毎日」から「週1回」になり、内容は現在の「感染者の総数」から、「全国約5000の医療機関が報告した感染者数」に変わることになります。

※ 医療費や検査費用は、季節性インフルエンザなどほかの病気と同じように一般的には3割の自己負担が求められます。 

コロナ感染検査は医療機関で行う場合も、検査キットを使用する場合でも自己負担で行うことになります。
陽性が判明したあとの外来診療の窓口負担分は、これまで公費で支援されていましたが自己負担に見直されます。
国はこれまでのように行動制限を求めることができなくなり、感染対策は今後、個人の判断に委ねられます。
医療機関で患者を受け入れる体制や対応制限が大幅に変わり、高齢者施設で直接面会再開がされ「涙を流しながら話し込む家族も」と新聞記事に!
河村名古屋市長が5月28日 コロナに感染、ワクチンは3回接種とのこと、インフルエンザ並みの評価が5類になっただけで、まだまだ油断大敵ですネ !  >_<  6/1 UP
 

風薫5月、

世の中が便利になるにつれ、最近季節感を味わうことも少なくなり、行事も年を重ねるごとに簡素化され、またコロナ感染拡大により3年余も何もかも中止となり寂しい限りですね。
せっかくこの美しい日本に生まれたのですから、コロナに負けず少しずつでも日々の暮らしが戻り、そして日々心のゆとりを感じたい今日この頃です。

 あやめ(菖蒲)

目には青葉 山ほととぎす 初鰹

江戸時代 中期の俳人 山口素堂(そだう)35歳頃 鎌倉で詠んだ句です

 季語が三つ!季重なり「青葉・山ほととぎす・初鰹」で、季は夏です

目には(視覚)、まぶしく輝く木々の新緑が映り、耳には(聴覚)、山ほととぎすの鳴き声が聞こえて、口では(味覚)、新鮮な初鰹を味わう!

時鳥(不如帰=ホトトギス)は5月中旬に日本に飛んできて夏を知らせてくれる鳥 !

立夏「こどもの日」から「立夏」(二十四節気の第7)です。

「夏が立つ」と書くように夏の兆しが見え始める頃と言う意味で、陽気も増し夏の気配を感じる時期ですね!

暦の上では8月上旬の「立秋」の前日までが夏ということですが、実際の肌感覚よりも暦は早め早めに季節の移り変わりを感じますね。

気象庁は今年の夏の暖候期予報を発表しています。6月から8月は全国的に平均気温は平年より高く猛暑が続くおそれ、梅雨や夏の降水量は平年並みとあります。気候は人間がコントロールできませんから、適応力が大事です。熱中症にならないように衣食住すべてに気をつけながら楽しく過ごしたいですね !

 この季節になると、「卯の花のにほふ垣根にほととぎす早も来鳴きて…」とこの歌が思い出される。しかし唱歌にあるような生垣の家は殆ど見かけないですね!

 「卯の花」画像はネットより

卯の花は、別名空木(うつぎ)とも言われ、ユキノシタ科の落葉低木。古来この花が初夏のシンボルとして愛されて来たのは、ふっくらとした蕾が米粒を連想させるからだという。 子供の頃「こめこめの花」と聞いたことが思い出される。

田植えを控えたころに咲く、卯の花のたわわに咲く花に秋の豊かな稔りを重ねて好まれたようです。また『田植鳥』と呼ばれた「時鳥:ほととぎす」との取り合せも好まれたようです。

ほととぎす空に声して卯の花の垣根もしろく月ぞ出でぬる

                        玉葉集」 永福門院

落葉低木のウツギは昔から垣根に使われることが多かったようです。
いづれをかわきてとはまし山里の垣根つづきにさける卯の花
                                    夏歌  『金葉和歌集』   大江匡房  
いづれがその家なのかよく見極めて訪れなければわからぬくらい、山里の垣根にみな卯の花が咲き連なっている。

卯の花の花房に似ていることから「おからも」卯の花と呼ばれるようになり、漢字で「雪花菜」と書く。

卯の花をこほさすはいれ豆腐売       「卯の花」   正岡子規

この俳句の「卯の花」とは、豆腐を作ったあとの絞りカスの「おから」のことを詠んでいます。

他にも寄席の世界では客席がカラになるのを嫌って、おからのことを「大入り」と言い換えたそうです。同じ子規の句に、

おしあふて又卯の花の咲きこぼれ     卯の花  正岡子規

この句は、おからではなく植物のウツギのことです。これなら寄席の世界でも大入り満員を連想できて喜ばれそうですね。

 かきつばた

かきつばた(杜若)とあやめ(菖蒲)の見分け方で一番わかりやすいのは、植えられている土の様子を見るのがわかりやすいです。かきつばた(杜若)は水辺で茎を出し花を咲かせ、あやめ(菖蒲)は乾燥した土から茎を出し花を咲かせています。

「歴史を動かした歌」  

   ときは今 あめが下しる 五月かな

                  明智光秀愛宕百韻』の発句 

 この連歌が詠まれたのは天正10年5月下旬。明智光秀の姓「土岐」と「時」を掛け、「あめが下しる」には「雨」と「天(信長)を下す」の意味を掛けたものとして、愛宕山で詠まれたのは有名な話ですね。

そして明智光秀が信長の宿所を襲った「本能寺の変」はその数日後、天正10年6月2日 早朝の出来事でした。西暦にすればこの日は1582年6月21日で、今から441年前のことです。

この事件を描いたドラマには、必ずと言っていいほどこの連歌が登場しますね!

信長は、天下の騒乱を抑えて戦国時代の終焉を目前に、天正10年(1582年)に織田信長の命を受けた家臣の羽柴秀吉が毛利氏配下の清水宗治の守備する備中高松城を、水攻めによって包囲した中国征伐を支援するため、嫡子信忠とともに京に宿泊していた。

信忠の宿所は本能寺から約1キロ離れた妙覚寺で、急変を聞きつけて信忠は父の救援に向かおうとしましたが、既に本能寺が焼け落ちたと知り、手勢5百をもって隣の二条城に籠もって応戦しました。しかし明智勢の総数は1万3千人に完全に包囲され自刃やむなきに至った。そして新しい天下人として羽柴秀吉の時代が到来する。 

クレマチスの花 イギリスをはじめとするヨーロッパでは、昔からクレマチスの栽培が盛んに行われています。しかし実は、約300種類あるクレマチスの3分の1は中国に自生するといわれています。

島国である日本では、海水浴や魚釣りなど、海は私たちにとって身近な存在です。「海水がなぜ塩辛いの ?」  疑問に思ったことはありませんか?

地球が誕生した約46億年前は、たくさんの隕石に衝突されて熱を帯び、水は蒸発し地上には存在していなかつた。

しかし、数百万年をかけて地球の表面の温度が100℃くらいまで冷えてくると、大気中の水蒸気は大量の雨となって降り注ぎ地球の表面にたまりました。

 地球が誕生したころの海水は「酸っぱかった」

これが海のはじまりで、海水は地球全体の水の2/3以上を占めていると言われています。 このとき降った雨には大気中の塩素ガスが溶けこんでいたので、海水は酸性で「酸っぱかった」 ということです。

その海水が、先に冷えて固まっていた岩石にふくまれるナトリウムを溶かして結びつき、塩化ナトリウムを含む水に変化し、海水は塩辛くなった!

海水の塩分の濃度は約3.4%です。ただし、気温が高いところでは水温が上昇するため濃度が高くなり、河口など淡水が流れている付近では濃度が低くなります。そのため海域によって3.1~3.8%とばらつきがあります。

 クロガネモチ幹にセッコクの花!

柳田國男 編『日本の昔話』に「海の水はなぜ鹹( から )い」の題名で、 岩手県の民話が紹介されています。

『 弟が白鬚の老人に諭されて 麦饅頭 をもって小人たちのところへいき、宝の「石臼」と交換する。 そして臼を廻して米や鮭などはじめ、年越しに入用な品々をぞくぞくと出す。 さらには新築の屋敷と土蔵まで出させてしまいます。

兄がこの宝の「石臼」を盗み出し、船に積んでどこかの島で長者になろうとたくらむが、甘いお菓子ばかり用意したため、「石臼」に塩を出させるが止め方がわからず船ともに沈んでしまいます。

 (画像はネットより)

いまだに『石臼」は海底で塩を出し続けており海の水は塩からい』と言う民話 です。(止め方は臼を逆に回す)

 ユーフォルビア白雪姫の花

「ディットマーの原理」

19世紀後半、イギリスの軍艦「チャレンジャー」が世界各地で海水を採取し、それをエジンバラ大学のディットマー教授が分析した結果、海水の濃度は海域ごとに異なる一方で、塩分の組成は一定であると分かった。

海水中の塩化ナトリウムの割合は77.9% 、そのほかに、豆腐を固める「にがり」の成分である塩化マグネシウムが9.6% 、硫酸マグネシウムが6.1% 、硫酸カルシウムが4.0% で、塩化カリウムが2.1%ふくまれています。

人間の身体の塩分濃度が0.8%で、海水の塩分濃度は約4倍なので、口にしたとき塩辛いと感じるのも当然ですね。これは海水全体の約80%を占め、水深1000m以上にある海洋深層水でも同様です。

地球の海は、陸地の2/3以上もありますが、しょっぱくて飲み水にはできません。地球の水は、14臆リットルと言われていますが、97.5%は海水で飲むことができません。

人が利用しやすい淡水は、2.5%程ですが、その多くは極地の氷河や氷山です。日本では、毛細血管のように、はり巡らされている河川や、湖があります。但し、このような水は、世界全体の水の0.01%相当と言われています。

地球規模で考えると、飲用水は不足しています。これからも地球の飲用水は、温暖化の影響や人口増加で希少です。

 

セッコクの花が満開 (^_^) セッコクとはランの仲間の植物です。「着生植物」と呼ばれ木の幹にも育ちます。山野草ファンにはとても根強い人気が有ります。

中国が日本の水利権を買ってる?? 

日本の水資源が外国から狙われている。こんな話を聞いたことがある人は少なくないと思いますが、実際に世界中で水不足が発生する中、世界各地で水争奪戦は激化しています。

ニュース番組では、日本国内の水源地に中国資本が触手を伸ばしている実態が明らかになったと伝えています。この背景には、中国での深刻な水不足があるとも、その一方で日本国内の水源地は現在、約30年前の価格まで暴落していることも中国にとっ て買い時と映ったとみられる。世界各地では、水資源の獲得に向けて激しい争奪戦が繰り広げられており、見識者は「国内の水源地を守るためには現在の法制度は未整備」と訴えている。 東京財団の調査によると、中国 では飲用水の需要が急速に伸びており、ペットボトルに換算すると、この10年間で約4倍になっているそうです。

世界的に脱「コロナ」が進むなか、日本も !

5月8日には、新型コロナ 5類に引き下げ !

厚生労働省」 3月27日・全国コロナ感染者2,887人まで減ったが、4月12日には10,176人と増加した。「ゴーデンウィークには感染者数が増えると予測されています。

過去、4月から5月には増加する傾向があり、2020・21年には緊急事態宣言が出された!

感染者数、毎日の発表なし!インフルエンザ並みの取り扱い 5類に引き下げたからと言って、感染力が落ちるわけでない? 5類に移行すると感染者の全数把握が終わり、インフルエンザなどと同じ定点把握となり検査も自己負担になり、検査も減る可能性もあり対処が遅れる。懸念ばかりで心配つのるばかりです !

                              5月1日 UP 

櫻咲く 😍

『春』の語源には諸説がりますが、「日本語源広辞典」には 四説を挙げてます。木の芽がふれ膨れる、すなわちハル(張る)季節」という通説よりも「水田に水をハル季節」との説を優先させています。

従って、「収穫が終わって田がアク(空く)」ことから季節をアキ(秋)と! 

さらに異説として「田畑をホル(墾る)時節」とか、あらゆるものが「ハエル(映える)季節」とか、今風に言うなら「バエル季節」か!

蕪村は『寝ごころや いづともなく 春は来ぬ』と、気持ちよく寝ていると、どこからともなく春がやって来る。 (❁´◡`❁)

 

世の中にたえて桜のなかりせば  春の心はのどけからまし                                     

                        在原業平 古今和歌集

もしも世の中にまったく桜がなかったなら、春を過ごす人の心はどれだけのどかでしょうね !

「世の中に桜がなかったら「咲いたかな?」「もう散るのかな?」と思い煩うこともなく穏やかにすごせただろうにと思う。

でも実際には桜はあります。桜の魅力を通して、何とも春の悩ましい複雑な心情を詠っています。 そうした煩(わずら)さ、疎(うとまし)さ、儚(はか)なさを現実な気持ちを詠っています。

長誓寺境内にある伝承樹齢250年のベニシダレザクラ一宮市浅井町

また、

春ごとに花の盛りはありなめど  

          逢ひ見む事はいのちなりけり  

                                                                         読人しらず  古今和歌集
春が来るごとに花の盛りはあるだろうけど、その花に会うというのは自分の命しだいなのだ ! 

花はすぐに散ってしまって、はかないとよく言われますが、春が来るごとに花のほうはしっかりと見事な花を咲かせてくれます。それに比べて花を見る我々はどうでしょう、毎年咲く花に出会いそれを見ることができるというのは生きているからこそです。  命が尽きれば見ることはできない、花に出会うのは [命] しだいと儚さを詠っています。

  

長誓寺:本堂は、名古屋城三の丸にあった書院を明治7年に移築、県の文化財に指定

そうですね、散る桜を眺めると、あと何回「満開の桜」を見ることが出来るのかなと思うと儚(はか)なさ、わびしを感じられます。 (>_<)

  

  ハナニラの花も咲いた !

Google(グーグル)今では誰もが知っているアメリカ生まれの検索エンジンに欠かせない世界的大企業ですね! 「googleってどんな意味だろう?」と思った事は無いですか??

Googleは、Googolという名前にするはずだったそうです。Googol(グーゴル)という数の単位「10の100乗」にちなんで、また「膨大な数字を組織化できるように」という思いが込められていたそうですが、登録時のつづりミスで「Google」となってしまったそうです。

最近、デジタルデータ量の爆発的増加に追われ、国際基準の数の単位に「10の27乗を示す ロナ」「30乗を示す クエタ」なる接頭語が追加されました。現実がGoogol(グーゴル)に追いつきつつある。

ひと昔、飛び抜けて大きなことを示すのに「メガバンク」とか「メガ盛り」とか「メガ」が使われましたが、昨今はスマホのデーター容量の単位「ギガバイト」「ギガ」ですね! メガとは百万、十の六乗です * ギガは十億、十の九乗を表す 、国際的な接頭辞です。最大は十の二十四乗を表す「ヨタ」ところが、それだけでは足りないなくなって31年ぶりに見直される由。

今秋から十の二十七乗をあらわす「ロナ」、三十乗を表す「クエタ」登場するらしい。

またデータ容量がキロバイト、十の三乗程度だった時代に育った、旧世代の私は、指を折りつつ困惑するばかり (>_<)

フリージアの花も咲いた  (^^)/~~~アヤメ科フリージア属 ・日本では別名・菖蒲と水仙双方に似ていることから「菖蒲水仙(アヤメスイセン、ショウブスイセン)」花言葉・白色は「あどけなさ」黄色は「無邪気」

数を数えるに、その世界でしか通じない符丁があります。

歌舞伎界には、数字の一は「 棒」、二は 「のん」、三は「 ダル」 といいます。

落語や寄席の世界では、一は「 へい」、二は 「びき」、三は「 やま」、四は「 ささき」、五は 「かたご」、六は「 さなだ」で武将真田氏の家紋の六連銭が由来であろう!

九の呼び方は不思議にどこの符丁も似ていて、落語やお寿司屋さんは「きわ」で、関東の青果市場では「がけ」そして、露天商の世界も「がけ」である。日本では、九は「苦」につながる嫌われていまが、中国では「久」を連想させ人気の数字と聞きます。

星はなぜ輝くの?

光る星には、2種類あります。
一つは地球や月といった惑星と衛星で、太陽の光を反射することで光って見えている。
そしてもう一つは 恒星(こうせい) といって、自ら熱で光を出している星です。

夜空に輝く星のほとんどがこの星です。星は熱で光る?
恒星は、星の内部で水素などのガスが核融合反応を起こして超高温で燃えています。 水素原子4個が融合してヘリュウム原子1個が作られる反応が起き、このとき約 0.7 %の質量が失われて、その質量がエネルギーに代り超高温になった星は輝き、光りを発します。

アインシュタインが発見した質量がエネルギーに変換される 「E=mc²」という式がドイツの学術誌に掲載されたのが1905年11月21日でした。

星には、温度によって見え方が変わります。 赤い星・黄色い星・青白い星の順で温度が高いです。「黄色い星」で分かりやすいのが太陽で、表面温度は 約5,778 K です。

( Kとは熱力学温度の単位で、1K=1℃)
「青い星」で分かりやすいのはリゲルで、オリオン座を構成している星の一つです。

これは表面温度が約11,000 Kで、想像できない温度ですね!

ちなみに自宅の風呂の温度が 40℃ なら、275倍  *  箱根温泉でだいたい 46℃ なので 約239倍  *  草津温泉でだいたい48℃なので約229倍です。

江戸時代の天文学者に、麻田剛立(あさだ  ごうりゅう) 1734年3月10日に生まれで、20才くらいから天体観測を行い月面図を描いたり、「惑星の公転周期の2乗は軌道半径の3乗に比例する」という「ケプラーの第3法則」に似た法則を独自に発見しました。また暦に記載がない1763年の日食を予言し、日本の天文学者の先駆者と言われています。

天文学者の一人、ヨハネス・ケプラーは 数学で宇宙を解き明しました。太陽の周りを巡る惑星の動きを表す「ケプラーの法則」は天動説から地動説への証拠とり、常識をくつがえす発見でした。しかし当時は地球が宇宙の中心と考えられていましたので、ケプラーは知恵を使い計算によって壮大な惑星の動きを証明しました。

ロシアの科学者・数学者・理論家のコンスタンチ・ツィオルコフスキーは、10歳のときに病気で耳が聞こえなくなり、独学で数字や天文学を学び、そしてロケット推進に関する宇宙へ行くための「ツィオルコフスキーの公式」を発表し、宇宙飛行士の訓練や宇宙開発に貢献しました。ツィオルコフスキーは、「地球は人類のゆりかごである。しかし人類はゆりかごにいつまでもとどまっていないだろう」と言う名言を残しました。

ムスカリの花とても耐寒性の強い花で、球根は植えっぱなしでも自然分球で増え、毎年花が咲きます。花言葉は、「失望」「失意」というネガティブな花言葉を持つ一方で、「夢にかける思い」「明るい未来」というポジティブな意味の花言葉も持っています。

地球の大きさを測るという偉業を初めて成し遂げたのは、古代ギリシャのエラトステネスです。今から約2000年前、二つの遠く離れた街にできる影の角度と街の距離の情報から地球の円周を求める方法で、その精度は、現在知られている正確な値と比べてわずかに1.7%の誤差しかないほど正確なものでした。

小学5年の少年が、名古屋の旧中日ビルの展望レストランから遠くに父の故郷が見え、そこまで20km と聞いた。ビルの高さを50mとして学校でならった図形の性質を使えば地球の大きさを計算できるはずと思った! 世界的な物理学者 大栗博司 氏 61歳です。「観察と思考の力によって、窓から見える風景だけで地球の大きさが分かると言うことは素晴らしい」と、6年前に中日文化賞 贈呈式での弁です。2019年紫綬褒章受賞

大栗 博司(おおぐり ひろし、1962年 - )は、日本の物理学者。専門は素粒子論。学位は、理学博士(東京大学・1989年)。カリフォルニア工科大学フレッド・カブリ冠教授およびウォルター・バーク理論物理学研究所所長。東京大学カブリ数物連携宇宙研究機構機構長。アスペン物理学研究所理事長を歴任。

ハナズオウの花中国北中部を原産とするマメ科の落葉樹。日本へ渡来したのは1695年(江戸時代)以前です。葉がないときに花が咲くので花の美しさが際立ちます。

実は世界の中でも日本は昔から和算(数学)が盛んな国で、江戸時代には「遊歴算家ゆうれきさんか」と呼ばれる和算学者が、全国を旅し求めに応じて行く先々で和算を教えた。 太平の世の豊かさと日本人の知的好奇心の強さが、世界に類を見ない和算文化をつくり上げた。

こうして、問題を解く娯楽としても和算がつかわれ、和算ブームは地方や庶民層にも波及し、日本の隅々まで高度な数学が広まっていった。

関孝和」の登場によってピークを迎えた和算も、明治維新とともに活力を失っていく。新政府は欧化政策の一環として、学校教育に西洋数学を採用した。こうして、和算は、時代の表舞台から静かに消えていった。 (>_<)

江戸時代には、0 ゼロの概念はなく、(まる)、零(ぜろ)、空(くう)などと表記されていました。しかし、和算では演算をしないので、数式処理としてのゼロが登場することはありませんでした。現在のゼロの概念は、西洋数学の導入によってもたらされたのです。

「0: ゼロの発見」!

始めに 0(ゼロ)の概念とその扱いを厳密に定義したのは、古代インドのヒンズー教徒で天文学者と数学者でもあるブラーマグプタという人物で5世紀頃とされている。

0(ゼロ)は人類の歴史の中で最も革新的な発見の一つで、現代数学と物理学の基礎であり、様々な分野の発展に貢献した概念です。

何もないことを表現するということは、よく考えると不思議なことをしているような感じがしますが、小学生にもなれば、当たり前のように算数で使っています。

数学の歴史は紀元前2500年(今から約4500年前)以上前から存在しますので、数学という学問が生まれて2000年以上も  0(ゼロ)という概念はなかったことになります。

今では、数学に  0(ゼロ)は欠かせないものになっており、そのおかげで複雑な方程式が解けるようになったり、コンピュータなどが誕生しました。

宇宙におくる探査機も、日々使っているスマホなども、私たちの身の回りりにあるほとんどのものは数学なくして作ることが出来ませんね。

ここにきて、コロナ感染が減少傾向にあり、マスクの着用が屋外では原則不要、屋内では原則着用としていましたが、3月13日からマスク着用は個人の判断となりました。

新型コロナウイルス感染症の、感染症法上の位置付けが5月8日から特別対応2類から通常対応インフルエンザ並みの5類になると発表されている。これにより医療対応も変更され国民負担が増となり心配される? まだまだコロナの感染が心配され「油断大敵」ですね!(>_<) 

                           4/1 UP

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春がそこまで、

「冬来たりならば 春遠からじ」 

英国ロマン派、19世紀イギリス詩人シェリー 「西風に寄せる歌」の最末尾に、

つらい時期を耐え抜けば、幸せな時期は必ず来ると !

日本語に訳したのが上田敏だといわれていまが、しかし上田敏の訳詩集『海潮音』にも『上田敏全訳詩集』にも記載が見当たらないそうです。

あっという間にお正月が過ぎ、2月も過ぎてもう3月です。我が家の「まんさく」も花を付け、春の便りがそこまで ! 

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春に他の花に先駆けて咲く「まんさく」は「まず咲く花」「まだ咲かないか」ということでその名がついたと言われ、また花が多いので「豊年満作」から命名されたとも言われています。 欧米では「魔女榛(はしばみ)」と名がついています。 花言葉は「幸福の再来」

3月12日は財布の日

貨幣の誕生と共に登場した財布! 

秋に財布を購入するのは「秋(空き)財布」といわれてよくない!  暖かくなった春に財布を購入すると良いと言われていますね !

しかし、最近はスマホでキャッシュレス決済 ! 買物も電車もバスもカードで決済 ! 仮想通貨の登場や電子マネーの普及でキャッシュレス化が加速するなか、「お金」の在り方も変わりつつあります。財布の必要性が大きく変わって来ています。

財布の始まりは紀元前の最古のエレクトロン硬貨』を入れるため !

財布の歴史は、お金と深く関わっていて、世界でもっとも古い硬金とされているのが、紀元前7世紀ごろ、現在のトルコ西部にあった『リディア』という王国で造られた金と銀からなる合金の「エレクトロン硬貨」です。

そのエレクトロン硬貨』を革の袋に入れて使用したのが財布の始まりという説が有力とされています。

リディア王の紋章であるライオンの頭部が打刻されたリディア金貨、通貨史での正式名称はエレクトロン貨です。

   写真はネットより

 

遠い昔、まだ経済文化が未発達の頃、人々は「物々交換」をすることで欲しいモノを手に入れていましたが、物々交換には問題点があります。自分が持っているモノを相手が欲しがるとは限らないからです。このことから交換の仲だちをするものとして、比較的価値が下がりにくい塩や貝、布などをお金の代わりとして物品貨幣」使うようになります。その後、金・銀・銅などの金属が物品交換に使われるようになり「お金:硬貨」が考案され流通するようになります。

世界で最初の本格的な紙幣は、10世紀の中国で作られた「交子」だといわれています。当時流通していた銅銭の不足により発行されたものでしたが、製紙技術・印刷技術の発達していた中国だからこそできたお金といえます。そのため、作るのに技術が必要な紙幣が、世界で広く使われるようになるのはかなり後になってからです。

   クリスマスローズの花咲きました 🥰

日本では、室町時代に渡来銭を真似た私鋳銭(しちゅうせん)が大量に造られ、真ん中に穴が開いた硬貨を紐で束ねて持ち歩いていたようです。<私鋳銭とは:民間で鋳造した銭貨です>

日本で最初に作られた貨幣は708年(飛鳥時代和銅元)発行の「和同開珎」とされていましたが、それより前に「富本銭:ふほんせん」が作られていたことが確認されています。

では財布は? 小判や藩札(紙幣)が発行された江戸時代は、袋の口を紐で縛る「巾着」や、鼻紙や薬などを持ち歩くための布や革製の「紙入」(鼻紙袋とも)が財布として使用されてた。

「巾着」は、もとは火打道具を携帯するための「燧袋:ひうちぶくろ」でした。そして 「紙入」はちり紙にしたり、詩歌などを書いたりする懐紙入れが変化したものと考えられています。 

他に紙入の一種で楊枝なども入れられる「三徳」(さんとく)、小物も入るほど大ぶりの「どんぶり」、弾丸入れとして用いられていた腰に提げる「胴乱」(どうらん)などの用途としていた物が「財布」として利用されたようです。

 画像はネットより

江戸時代後期、『江戸買物独案内』には、「さいふ」を扱う小問物屋や袋物所が100軒以上掲載されています。

デザインのバリエーションも豊かで、錦やビロードといった高級織物や籐が素材に使われ、細部の留め具にもこだわったおしゃれな「さいふ」が江戸っ子たちに支持された。
江戸土産としても買い求められ、「さいふ」文化は江戸時代に開花する。

ちなみに江戸時代後期、そば1杯が16文の時代に、巾着の値段は372文、紙入は2000文以上したようです。

「さいふ」のルーツは、手形のことだった ! 

「さいふ」という言葉が「金銭を入れて持ち歩く袋」を指すようになったのは近世以降のことであり、鎌倉時代後期、遠隔地への送金手段だった替銭(かえぜに/かわし)を行う際の手形を『割符(さいふ)』と呼び、割符屋と呼ばれた業者が現金を預かり、割符を発行して送金していた。それが次第に「銭入れ」を意味するようになった。

江戸時代、金貨をつくる機関のことを「金座」、銀貨をつくる機関のことを「銀座」と言われていた。現在の東京都中央区銀座の「銀座」はそこからきています。では「金座」の地名は残っていませんが、日本銀行本店は金座の跡地に建てられています。

日本発祥と思われがちな「がまぐち」は、

日本にがま口を伝えたといわれる山城屋和助は、兵器の輸入のためにヨーロッパやアメリカを巡っている際、当時フランスで流行していたがま口の鞄やサイフを日本に持ち帰ります。

フランスで流行していたがまぐちのカバンや財布を真似して売られ始めたもので、当初は口金に真鍮を使っていたため高価でしたが、安価な溝輪金の口金が登場すると庶民のあいだでも大流行しました。

 写真はネットより

「がまぐち」の由来は、その口金の形状がヒキガエル別称はガマ)の口に似ていることから「がまぐち」と呼ばれました。また仏法の力で悪魔を降伏させる「降魔」(がま/ごうま)の意味もあります。

カエルを連想させることから「お金が帰る」と言われ、縁起が良いと言われています。

   ヒメリュキンカの花です
明治時代(1868年)になると「円」という単位の新しい「貨幣」が誕生し、1882年には日本の中央銀行として日本銀行が設立されます。
17世紀にヨーロッパを中心に紙幣が流通し始めると、紙幣を折らずに入れられる現在の長財布の原型が登場します。
 
1950年に、世界初のクレジットカード専業企業としてダイナースクラブが設立されたのをきっかけにクレジットカードが世界で広まり、カード用のポケットが付いた二つ折りの財布が登場しました。
 
1970〜80年代には、少額硬貨の流通量が現代と比べて多かった硬貨をたくさん入れられるジッパー付きの財布が多く利用されました。金額ごとにより分けて収納できるレールが付いた「コインホルダー」も、ひと目で必要な硬貨を取り出せることから流行したようです
 
1977年には、登場したナイロンとマジックテープを使い、サーファーたちに支持されたサーファーウォレットが市場に旋風を巻き起こしました。
考案したのはアメリカの著名な投資家で、「金持ち父さん」シリーズが世界的なベストセラーとなったロバート・キヨサキで、特許費用を節約したことから模倣品が氾濫しことも知られた話です。
 
2010年代以降は、お札や小銭にクレジットカードや免許証、ポイントカード、診察券、レシートなど、オールインワンの収納力を持つ財布が重宝されるようになりました。
女性を中心に人気だった収納力抜群のラウンドファスナー型長財布が男性のあいだにも浸透しました。
お金はさまざまな素材、形を経てより使いやすいものになり、財布もそれに合わせていろんな形ちに変化し進化してきました。

 写真はネットより

お金は、時代の多様化に変化し、財布もそれに対応した形に変化し適応してきました。 近年新しいキャッシレス時代を迎え、日本は、欧米に比べるとクレジットカードの利用が少ないと言われています。やっとQRコードを使ったスマホ決済や交通系 ICカード型の電子マネーの取扱高が増え、キャッシュレス決済の比率は3割を超えたとも言われています。
現金離れが進み、財布を持ち歩く機会が少なく生活できるようになったものの、いざというときのための現金や、免許証や頻繁に使うカードを持ち運べるスマートなミニ財布やマネークリップが、これからの時代のスタンダードになっていきそうです

漢字の中でお金や財産のことを表す「財」「貯」「買」「貨」「贈」「賭」などの文字には、どれも「貝」という字が使われています。これは、古代の中国で貝殻がお金のかわりに用いられていたからです。

 マリーゴールドの花です

頭の体操 ?中日新聞より 消費税のナゾ ?)
コンビニで同じ菓子を3個(@309円)買いました。レジで一度に3個の菓子を会計することはせず、1個ずつ3回に分けしました。 なぜでしょう?
ヒント:食品の消費税は8%です。このコンビニでは、税抜き価額の1.08倍から少数点以下を切り捨てで計算しています。
まとめて3個会計すると、309 × 3 × 1.08 =1001.16円 
1個ずつ会計すると、309 × 1 × 1.08 =333.72円  3個では、333× 3 =999
1個ずつの方が2円お得です。
最近は、ICカードやキャシュレス決済の利用する方が気にしない人も多いと思いますが、もし手持ちが1,000円しか持ってなかったら買うことができないですね (^^)/~~~
 
『あかざらば千代までかざせ桃の花 花も変わらじ春も絶えねば」
                                   清原元輔 『後拾遺和歌集』 
 
飽きぬならばいつまででも挿頭《かざし》にしよう桃の花を、花も変わらないのだよ、春が終わらないのだから、<挿頭とは、草木の花や枝などを髪に挿すこと>
梅の季節が終わると、待ちに待った桜の季節ですが、その間に咲くのが桃の花です。
桃の開花期はおよそ3月上旬から4月上旬くらいです。清原元輔が春が終わらないから花も変わらないと言っているのは、屏風絵の桃の花を見て詠んだからと言われています。

屏風の数え方をご存知でしょうか。「六曲一双」こんな言葉聞いたりしますね、「曲」は折れ曲がらせて繋いだ絵の数です。そのパーツ1枚の面を「扇《せん》」と呼びます。 右から順に第一扇、第二扇と数えて一番左が第六扇で、この複数の扇がつながった屏風が一隻《せき》です。

六扇を会わせたものを半双と呼び、二つの半双が合わさったものを一双と呼びます。

一つの半双だけで構成されたものを一隻と呼びます。

それぞれの置かれるべき位置から、右隻、左隻と呼びます。 

美術館でホンモノの屏風絵を見たくなってきませんか?

もう春がそこまで、近くの小学校の櫻が、なんとなく全体がピンク色になってきました。138タワーパーク沿いの木曽川堤には、樹齢100年を超える見事な桜並木が約4kmも続いています。開花予想は4月23日頃と発表です。   Marui  3月1日 UP